誰も、止めなかった。冬弥が箸を置いた事を。
宗一は何も言わない。勿論分家も、きょうだいも。
ただ、見ているだけだった。
冬弥は、静かに立ち上がり、誰にも何にも視線を向けること無くその場を離れる。使用人が襖を開けた。
報告は済ませた。一口食べた。義理も果たした。
ならば、それ以上いる理由はない。
襖が閉まる。まるで、この場にいる全員との関係性を示しているようだった。
長い廊下を、ひとり進む。
あれだけ居た使用人は気配を殺して闇の中で控えている。静けさだけが、冬弥にまとわりつく。
ー……何も、変わっていない。
やがて玄関に着くと、灯りの下で、そこにひとり立っていたのは梅野だ。手には、冬弥の履物。深く頭を垂れる。
「……若様」
柔らかな声だが、冷たくて鋭い。その呼び方は変わらない。母屋の前では、ただの使用人。
冬弥は、何も言わずに履物を履くとそのまま歩き出し、梅野はそれを理解しているように静かに後ろへ下がると来た時と同じく提灯で地面を照らした。
二人は何も言わない。
砂利を踏む音、夜の空気、ししおどしの音が、規則的に響く。
離れへ向かうその背中を梅野が追う。
一定の距離を保ったまま、やがて離れの外の灯りが近づき、梅野が玄関の扉を開けた。
玄関をくぐったその瞬間。
「……坊ちゃん!」
呼び方が、変わったのとほぼ同時にその場に膝を着いた冬弥。脂汗が止まらず、体が氷のように冷たくなり、震えが起こり、梅野は背中をさすったが、冬弥は口元を手で塞いでトイレへ駆け込み……吐いた。
何度も何度も、もう吐き出す物が無くなっても気持ち悪さだけが残って、自然と涙が流れた。
「……お水を、お持ちしましたよ」
優しい声と暖かな手が背中を撫でた。いつも通りの梅野の声音。ずっと、離で冬弥に寄り添ってくれた人。
親やきょうだいの誰よりも長く共にすごした。そこにいる。ただそれだけで、冬弥の冷えきった心はほぐれた。
しばらくして。
ようやく荒い呼吸を落ち着かせトイレを出ると、洗面所で顔を洗って口をゆすいだ。そっと鏡越しに見る顔色が酷い。
用意してもらった冷たい水が、喉を通る。
少しだけ、楽になるが、それでも完全には戻らない。
「坊ちゃん、後程胃に負担にならない食事を部屋にお持ちしますね。」
梅野の労るような声音にお礼をすると、羽織を雑に脱いで風呂場へ進んだ。脱ぎ捨てる着物。シャワーを全開まで捻りお湯を頭から浴びた。湯船のお湯が既に張られているのは梅野がやってくれた。
湯船に浸かり体を温め浴衣を着て部屋に戻ると、タイミングよく現れた梅野がお粥を持って入ってきた。
羽織を肩にかけたまま窓の外の月を眺めていた視線を戻し梅野にお礼を告げる。
「後は出来るから、下がって。今日はありがとう、梅野さん。」
「分かりました……では、おやすみなさいませ、坊ちゃん」
「ああ、おやすみなさい。」
冬弥の専属の使用人になってから、この離れで暮らす梅野は例え冬弥がマンションに住んでいてもこの場を守る責任があった。部屋も別にあり食事も共にとる日も有るのだが、母屋の中に梅野は入れない。それが、宗一が命じた事だった。初めこそ言葉も無く淡々と過ごす日々だったが、梅野は周りがなんと言おうとも冬弥に生きる術を身につけさせた。衣食住や勉強に作法。ありとあらゆる教育を一人で行ってきた。
それが、唯一守る方法だと思っていたからだ。
母屋に居場所がない幼い少年を、全てから遠ざけられた冬弥の身と心を守り続けた。
母屋の食事を一切受け付けなくなった冬弥は、この場にいる時は梅野の作ったものしか食べられない。
「……卵粥。懐かしいな」
冬弥は卵粥を平らげると、再び窓から見える月を見た。夜の雲に半分隠されてしまったが、その不完全さがちょうどいいと思えた。
ープルルルル、プルルルル
「……もしもし。」
『冬弥』
篠宮の声。しれずに息を吐く。
「報告……」
短く声を出す。
机の報告書を見てから告げる
「まず、任務の北西の件、今日の午後に処理済みだ。」
『聞いてる。こっちにも上がってきた』
変わらない声。
カタカタと聞こえるのはパソコンか。
昼が終わってから、篠宮からの任務を終わらせていた冬弥は、この任務は当主である父親が今日の報告会で言おうと思っていたであろう件だと当たりをつけていた。まぁ、ドンピシャであったのだが、篠宮の情報網はすごいと素直に思う。
『予定より早ぇな』
「……時間をかけるまでもない。」
それだけ言うと、紙を置いて壁にもたれ掛かり、だるい体に舌打ちをしかけた。
『そうか。』
煙を吐くような間、冬弥は目を閉じる。
『体調はどうだ』
短く問われ、目を開けた。
「問題はないよ」
短く返したら、そのまま終わるかと思った。
『——で』
わずかの間。
『何食わされた』
温度を感じさせない篠宮の低い声。一瞬空気が止まるが冬弥は、何も言わない。沈黙を貫く。それだけ篠宮は全てを悟る。
『……毒か』
小さく、息を吐く音。断定した篠宮。見ていなくても、全てを分かっているように。
「……別に」
短く返す篠宮は肯定も否定もしない冬弥の言葉を待つ。逃がさないと言わんばかりに。
数秒の沈黙。
「……少し」
観念したように落ちる声に篠宮の溜息が聞こえた。
『はぁ……』
深く息を吐くそれは、呆れ。だが——
『あのクソ共……』
小さく、吐き捨てた。通話越しの怒り。音の奥に聞こえる確かな苛立ち。
『誰だ』
短くて鋭い。きっと篠宮なら毒を仕込んだ相手くらい既に分かっている。だが
「いい……いいよ。」
冬弥は遮ると、重くなる瞼に抗う事を辞めた。
凭れたまま消え入りそうな声で名を呼んだ。篠宮は小さく冬弥を呼ぶが、返事はかえってこない。
「……はる、ひ」
そのまま冬弥は眠ってしまった。
