また明日


夕方。
障子越しの橙色の光が、淡く差し込んでいた。

部屋は静かだった。音はない。
畳の上に、梅野が用意した着物が置かれている。
黒を基調としたもの。整えられた布。

冬弥は、それを手に取る。
重さ。感触。迷うこと無く着物を広げた。
何度も繰り返してきた動作。

長襦袢の上から袖を通し、襟を合わせる。長い帯を締める。指先の動きに迷いはない。無駄がなく正確に整えていく。そこに、感情はない。形だけが、完成していく中で、最後に羽織を手に取った。御影家の家紋。それを背負うように静かに纏い、最後に整えて終わる。鏡は見ない。確認する必要がないからだ。

光がゆっくりと落ちて夜になった。
部屋の色が変わった時「……坊ちゃん」と静かな声が廊下から響いた事で、部屋を後にする冬弥。
薄暗い廊下に立つ梅野は火がついた提灯を手に持ってそこで控えていた。

淡い灯りが、揺れている。

その表情は昼間と何ら変わらない。
梅野は静かに歩み寄ると、冬弥の胸元にそっと手をあて優しく微笑み、安心させるように大丈夫だと言うようにトントンと叩くと、手を離して距離を取った。
「……お時間でございます、若様。」
声が変わり、柔らかさが消える。たった今引かれた線その瞬間に、冬弥の表情も落ちた。そこに笑みはない。感情が削ぎ落とされる。有るのは冷たさ。そこにいるのはもう、「坊ちゃん」ではない。主と使用人の距離だ。


冬弥は、何も言わず歩き出すと、付き従うように提灯の灯りが、足元を照らす。

夜の庭へ。
その背に、温度はなかった。


離を出た冬弥と梅野。話し声はなく、石の上を歩く音がこの場を制した。明かりは提灯だけ。道を照らす。
やがて、母屋にたどり着く。
大きな屋敷の外は点在する灯篭の明かり以外闇の中に沈んでいた。

開かれたままの玄関の前で足を止める。

梅野が、静かに一歩前へ出て腰を折ると、履物を脱いで上がった冬弥を見送る。

「行ってらっしゃいませ、若様」

履物に手をかけると、そのまま闇の中へと消えていった。玄関先で残るのは、一人。
磨き上げられた床。長い廊下を歩いて進む。足音が、わずかに響くが、それ以外は、何もない。
表情もいっさい動かない。整いすぎた顔は何も浮かばない。温度のない目だけが、前を見ている。

やがて、一枚の襖の前で止まる。
すでに、気配は満ちていた。中に、全員が揃っている。外まで聞こえてくる声。

廊下で控えていた使用人が、静かに頭を下げると、何も言わず、襖に手をかける。

横へ滑らせた。

一瞬にして音が消えたその瞬間、視線が集まる。一斉に。広間にいた全員が、冬弥を見た。

会話は、止まっている。呼吸すら、浅い。
ただ、入口に立つその存在へと、意識が向く。

開け放たれた扉の所に居る冬弥は、何も言わないし、何も返さない。足を踏み入れた。

上座まで、まっすぐに伸びている長い畳の上。その中央を、歩く。
左右には、分家の者たち。さらに奥には兄弟たち。
様々な思惑が絡む視線が刺さる。

探るように。測るように。

だが、冬弥は止まらないし、視線も動かさない。
最奥の上座の片方に辿り着き、座った。そこにいる存在へも、目を向けない。
誰も声を出さない中で、ただ一人の言葉を全員が待つ。

「……時間だ。始める。」
低い声。その一言で、場が動いた。