玄関先で1年ぶりに会った父に対し何も思わない冬弥は、足を止める事はせず、その手前で進路を変えた。
慣れたように白砂利を踏みしめ、屋敷の縁をなぞるように歩く。
背後に、宗一の気配が残るが、振り返らない。
きっと、あの男もそれを望んでいない。
屋敷の側面を抜けると、途端に景色が変わるここは裏庭。
表とは違い、装飾は少なく静かすぎる空間。
竹林がすぐ近くにあり、影を落としている。踏み石が奥へと続いていた。その先にあるのは——離れ。
本家から少し離れた場所に建てられた少し小さな日本家屋。似たような瓦屋根。太い木の柱。引き戸の玄関。
簡素だが、整っている。表とは空気が、違った。
戸を開けた瞬間、空気が変わった。外の静けさとは違う。張り詰めたものではなく、ほどけた静けさ。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」
玄関先で、柔らかな声が冬弥を迎える。
目の前の女性の名は梅野。いつもと変わらない優しい笑みを浮かべていた。
白髪をきちんとまとめ、小さな背を少しだけ丸めている。落ち着いた朱色の小袖は変わらない。
「……ただいま、梅野さん」
短く返すと、それだけで、胸の奥にあった何かが少しだけ緩む。
「お腹空いたでしょう?お食事をご用意しておりますよ」
「ありがとう」
並んで廊下を進む。磨かれた木の床。
足音がやわらかく響く。障子越しの光が、淡く差し込んでいる。風が通るたび、紙がわずかに揺れた。生活の気配がある。
ここだけは、ずっと変わらない。
廊下を歩いていると見えた縁側の先、小さな庭。
「今年も、きれいに咲いておりますよ」
梅野が足を止め、外へ目を向ける事で、冬弥も足を止めた。袖を支えながら手のひらを向ける。
「あちらが桔梗でございます。“変わらぬ心”という意味があるのですよ」
白い花が、静かに風に揺れる。
「こちらは撫子。“純粋”でございますね」
その隣の淡い花弁が、やわらかく揺れていた。
「それから、沈丁花。“永遠”」
控えめな白。けれど、確かにそこにある。
花から視線を外した梅野は、随分と大きくなった冬弥を見上げた。
「坊ちゃんには、こういうものが似合いますから」
少しだけ、笑うと、何も言わず冬弥はその花を見た。
居間へ向かう。今住んでいるマンションでは考えられない畳の部屋。
低い机。湯気の立つ料理が並んでいた。
定位置の席に座る。
「いただきます」
久しぶりに感じる「空腹」に、合わせていた手を離して箸を持ち、一口、口に運ぶ。
温かい。優しい味。ゆっくりと息を吐いた。
「……おいしい」
ぽつりと零れる。これは、本心。
「俺の好きなものだよ。梅野さん、ありがとう」
ほんの少しだけ、声音がやわらぐ。目元も口元も緩んだその顔を見た梅野は柔らかく目を細める
「そうでございますか。それは何よりでございます」
それ以上は聞かない。それが、この人の距離感だった。
静かな時間が流れる。箸の音。出来たての湯気。
外から聞こえる、竹の葉の擦れる音。ここには、何も押し付けるものがない。役目も、視線も、評価も。ただ、食べるだけの時間が、こんなにも楽だった。
やがて、冬弥は食事を終える。手を合わせ「ごちそうさまでした」をする。これら全て梅野から教わった。
「お粗末様でございました」
湯呑みにお茶が注がれる。ほのかに香る緑茶の香り。
「今宵は、宴でございますね」
静かな声だった。一気に気分が下がる心地。
「ああ」
短く返す。
食器を下げようとしていた梅野を辞めさせた冬弥は、立ち上がりお盆を持つと微笑んだ梅野を見下ろす。
「お召し物は、後ほど部屋迄お持ちいたします」
「……頼む」
それだけで通じる。
台所へ行き食器を洗う。整えられた小さな台所。お皿の洗い方も包丁の使い方も、火の付け方も梅野が伝授してくれた。全ては「私が居なくなっても出来るように」らしいが、少しでも長く生きて欲しいと心から思う。
冬弥は離れの自室へと進み、襖を開ける。
そこは、静かな部屋だった。八畳ほどの和室。余計なものは何もない。畳は新しく、整えられている。踏み入れても音はほとんど立たない。正面には、床の間。掛け軸がひとつ。墨で描かれた、山の絵。簡素だが、力強いのに、どこか冷たい。
その下には、小さな花瓶。活けられているのは、桔梗。きっと梅野だ。白い花が、静かにそこにあった。
部屋の中央には、低い机。その横に、座布団がひとつ。それだけ。壁際には、刀を収めるための台に、黒い鞘の短刀を静かに置いた。その隣に、わずかに開いた引き出し。中には、管理局からの書類。整然と並べられている。机の上には何もない。生活の痕跡が、ほとんど残っていなかった。
窓際。障子が閉じられている。だが、外の気配は分かる。竹林の影が、わずかに揺れている。
そっと手をかけ開くと、部屋の中に風が通る。障子の紙が、かすかに鳴る。奥には、もう一つの部屋。寝室だ。
布団が一組、丁寧に敷かれているのは、いつでも休めるようにとの采配。そこに乱れはない。枕元には、何も置かれていない。
それ以外は本当に、何もない。思い出も、飾りも。ただ、眠るためだけの場所。
寝室を出て、戻る。部屋全体を、もう一度見渡す。
整っている。無駄がない。
ふと、視線を外へ向ける。縁側の先の小さな庭。風に揺れる花達。1年前と変わらないもの。
皮肉にも変わらないこの場所だけが、息をつける。
ここでは、何も背負わなくていい。
御影でもなく、後継でもなく。
ただ、自分でいられた。
