また明日


長く降った雨が終わり、蝉の声が、途切れることなく降り続いている季節に変わった。

冬弥は一人、駅へ向かう途中バスに乗り、電車に乗り継いで行くつもりだったのだが

「……冬弥様」

声をかけられ、足を止める。振り返ると、黒塗りの高級車が一台。扉が静かに開かれていた。周りから何度もチラチラ見られて居心地が悪い。

「お迎えに上がりました」
「……そう」
始めてみる顔だ。だが、その胸元にある「御影家」の家紋を見たらすぐに分かる。夏だろうと上下真っ黒のスーツをピシッと着て、撫で付けた髪は家の固さと重さを物語って居るようで気分が悪い。

断る理由はないと、そのまま車に乗り込む。
外の音が、途切れる。扉が閉まると同時に、世界が一つ遮断されたようだった。

「……」
静かな車内。運転手の息遣いさえも聞こえない。
エンジン音だけが、低く響いている。家よりも静かだと考えながら、窓の外の流れていく景色を眺めた。


「夏休み入ってすぐ、いつものだ。」
夏休みに入る1週間くらい前に、篠宮と管理局で話していた冬弥は、紫煙を吐き出した篠宮を見て声を出した。
「……あぁ、そんな時期か。」
どこか、他人事のような声。それでも、行かないという選択肢は、最初から用意はされてはいない。


「期間は一週間。俺からも頼む任務があるから、あっという間だろ」
「……わかった」
即答。篠宮は、煙草を指で挟んだまま、横目で見る。
「怖いか?」
軽い調子。だが、篠宮の目は笑っていない。
「いいや、怖くはない」
冬弥の返答に迷いはない。だが……
「なら、なんでそんな顔してる」
少しだけ、間があく。冬弥は、視線を落とした。
言葉にするほどでもない。だが、無視もできないもの。
「……ただ」
「ただ?」
小さく揺れる声。だが、次の瞬間には「嫌いなだけだ」と淡々とした調子で話し出す。温度は感じさせない。
「家も、ご機嫌取りの奴らも、全部」
全く感情は乗っていない。篠宮はその様子を見ながら、ふっと息を吐く。
「梅野さんを含むなよ?」
煙が揺れる。
「もちろんだよ」
そこでだけ、即答だった。二人の空気がわずかに緩む。
篠宮は灰をトントンと落とし、視線を庭へ戻した。
「その間、遥陽は任せろ」
「わかった」
短い返事。
「俺と鳴海がいりゃ、誰も近寄れねぇ。安心しろよ」
「そこは信用してる」
迷いなく返す。それが、すべてだった。篠宮に対しては他の人間とは違う感情がある。それはきっと信頼。
しばらくの沈黙。

人工的な風がこの場に吹いた事で葉が揺れる。
季節によって温度が変わる設定の建物は正直すごい。外よりも暑さを感じないが、熱を感じる。冬は寒さだってある。天気だって変わるし時間によって朝昼晩と明るさも変わる。雨とか雪もたまにあるらしい。

「……無茶はすんなよ?」
ぽつりと落ちた篠宮の声。
冬弥は、少しだけ目を細めると
「平気」

「だって、しようが無いだろ?」

視線は前を向いたまま。

「あんな雑魚達に」

冷たさを孕んだ事で、篠宮の指が止まる。


「冬弥」
名前を呼ぶ。
それだけで、空気が変わる。冬弥は、わずかに息を吐いた。
「……大丈夫。わかってる」
短く返す。
それ以上は言わない。それで十分だと、互いに理解している。一線を超えないのはわかってる。だから、それだけで終わりにするのだ。



車は、ゆっくりと速度を落とした事で、冬弥は思考の波から抜け出した。

やがて、重厚な門の前で静かに止まる。
黒塗りの表門。分厚い木板に打たれた金具が、鈍く光を返している。
その中央に刻まれた紋。円の中に引かれた、歪な線。均衡を保っているようで、どこか崩れている形。
御影家の家紋だ。
見ていると、わずかに違和感が残る。整っているはずなのに、どこか「正しくない」ような。

門が、音もなく開く。車はそのまま敷地の奥へと進んでいくと、見えたのは白砂利が敷き詰められた道と両脇には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。

刈り揃えられた松。低く整えられた植え込み。苔の上に置かれた石灯籠。奥には竹林。風が通るたび、葉が擦れ、乾いた音を立てる。ししおどしが、一定の間隔で鳴ると、水の落ちる音が、やけに響く。
近くの大きな池には錦鯉。赤と白が、水面の下を静かに泳いでいた。
ここは、すべてが整っている。整いすぎている。
一言で言えば、美しい。だが、そこに温度はなかった。

やがて、車は屋敷の正面で止まる。
ここが、母屋。御影家の本家だ。

二階建ての日本家屋。長く伸びた瓦屋根に、反り返る軒先。太い柱が規則正しく並び、奥行きを強調している。
玄関は、広く、石張りの土間。高く磨かれた上がり框。整然と並ぶ下駄箱。正面には障子。左右には襖。どこまでも続いていくような、静かな奥行き。

車を降りて足を進めると、見えたそこに、一人の男が立っていた。

御影宗一

白髪の混じった髪を、後ろへ流した乱れひとつないオールバック。
黒と白で統一された着物。左胸には、御影家の家紋。灰色の目。冬弥と同じ色。だが、その奥には何もない。感情も、温度も。ただ、そこにあるだけの視線を向けられる。
逸らす理由を与えない。親と子の言葉はない。
迎えの言葉も、労いも……何もない。それが、この家の在り方だった。