入院先で相部屋になった年上のお姉さんが、俺を振り回してくるんだけど!?―そして未来の約束を果たすまで―


 考えるより先に、体が動いていたんだと思う。

 高校からの帰り道だった。
 夕焼けが空を真っ赤に染めている。近所からは旨そうなカレーの匂いがふわっと漂ってきて、俺の鼻をくすぐった。そんな一日の終わりを感じる時間だった。

 その時だ。サッカーボールを追いかけた子供が、車道へ飛び出した。
 そしてそのすぐ後ろから、車が突っ込んできやがったんだ。

「おい! 危ねえっ!!」

 耳をつんざくようなブレーキ音が町に響く。気づけば、俺は走り出していた。
 夢中で駆け出して、どうにか子供を歩道へ突き飛ばした――その瞬間。

 ぐしゃっ。

 全身を金属バットでぶん殴られたような衝撃が来て、空と地面がひっくり返る。

 ぐわんぐわんと世界が揺れて、痛いのかなんなのかもわからなかった。

 ――でも、俺の心配はただ一つ。

 ……あのガキ、なんともねえかな。

 こんな状態じゃ、確かめることもできねえ。
 そのうち、辺りの音が少しずつ耳に入る。

 でもその音は、だんだん遠くなって。
 視界も、すっと暗くなっていく。

 俺――赤井タイヨウの意識は、そこで途切れた。

***

「それで、この病院に担ぎ込まれた……ってわけか」

「おうよ。死ななくてラッキーだったぜ」

 ここは、この町でもかなりデカい病院らしい。
 さっき受け取った書類には、『華原大学附属病院』と書かれていた。

 その病室で俺は、見舞いに来た同級生と駄弁っていたのだ。

 見舞いに持ってきてくれたお煎餅の包装を破った。
 香ばしい醤油の匂いが広がって、俺はお煎餅を一口かじる。ばりばり。うまい。
 やっぱコイツは、俺の好みをわかってんな。

「まったく……運よく全身打撲で済んだからよかったものを、もう少し考えて行動したらどうなんだ?」

 眼鏡をクイっと押し上げながら、そいつ――青野トオルは目を細めていた。

「しょうがねえだろ。ああでもしないと、あのガキが危なかったんだから」

「それは結果論であってだな……」

 奴はそのあともぶつくさ言っていたが、俺は適当に聞き流していた。
 そういや話によると、あのガキは怪我もなく無事だったらしい。よかったよかった。

「……おい、聞いているのか! お前はいつも後先考えず行動して、こうした危険な目に遭う時もあるのだから、もう少し――」

「目の前で飛び出したガキがいて、見て見ぬフリなんてできねえよ」

 お煎餅をバリっとかじり、俺はトオルを強く見つめた。

「俺がそうしたいって思ったからやった。ただ、それだけだ」

「とはいえだな……」

「あの時動かなかったら、絶対後悔したよ。自分の気持ちに、嘘はつけねえから」

 口の中のお煎餅を飲み込み、袋からもう一枚取り出す。
 ばりばり。うまい。

「はぁ……そうだな。お前は昔から、そういうやつだったな」

 呆れ顔のまま、トオルは制服の胸ポケットからスマホを取り出して時間を確認した。
 どうやら、そろそろ面会終了の時間らしい。

「ふむ、もうこんな時間か。とにかく、ちゃんと安静にしているんだぞ、タイヨウ」

「あいよ。休んでる間のノート取り、頼んだぜ~」

 トオルはまた呆れ顔で、病室を出ていった。
 途端に病室は、しぃーんと静かになる。

 聞こえてくるのは無機質な機械音。
 あとは扉の向こうから漏れてくる、看護師さんやほかの患者の声や足音。

 ……結構寂しいもんだな。

「そういや……」

 トオルとの駄弁りで気にしていなかったが、病室にはもう一つのベッドがあった。
 患者名もあるし、おそらく相部屋なのだろう。
 だが、そこに人の姿はない。

 来たらちゃんと挨拶しとかないとな。礼儀は大切だ。
 ――と思っていたのに、消灯時間になってもその人は現れなかった。


***

「……ッ」

 病院の消灯は早え。午後九時だ。
 こんな時間に寝られるのは、子供か年寄りくらいだろ。ていうか寝れねえよ。

 息を吸うたび、体のあちこちがズキッと疼く。
 俺は反射的に、ベッドのシーツを強く握りしめた。

 当たり前だが体は痛えし、そのせいで微妙に目が冴えちまってる。
 そのうえ、消灯後はスマホやテレビもダメって言われてるし……

 ちくしょう。入院ってやつは、怪我よりも暇をつぶすほうがキツすぎる。

 ――そんなふうに、入院生活について考えていた時だった。

『――……っ』

 突然なにかが聞こえて、俺はベッドから体を起こした。
 ……なんだ? 消灯後で周りも静かだし、気のせいか?

 そう思って、もう一度横になろうとした。……けれど。

『――……ぐすっ』

 俺は飛び起きた。今度ははっきり聞こえたぞ。
 今のは……泣き声か?

 ベッドを降り、そっと扉を開けて廊下を見回す。だがそこに人影はない。
 でも絶対聞こえたんだよな……さすがに気になりすぎる。

「『トイレに行きたかった』ってことにしておこう」

 とりあえず看護師に詰められた時の言い訳だけ用意して、俺は病室を抜け出した。
 とはいえ、来たばかりの病院だ。どこがどこだか全然わからない。
 あてもなく歩いていると――

『――……っ』

 また聞こえた。

 俺は、音のした方に目を向ける。そこは――

「ここから……か?」

 そこは屋上へ続く階段。
 確かにその先から、声が聞こえた。

 廊下の真ん中で、ゴクリと唾を飲む。
 消毒液の匂いが、やけに鼻につく。
 夢中になってここまで来たけど、夜の病院ってすげえ怖くないか。

 換気扇や、なにかの機械音。
 灯りは非常口の緑くらいしかなくて、廊下の奥は暗がりに沈んでいる。
 も、もしかしてこの声ってゆ、幽霊だったりしねえよな!? 俺、そういうのダメなんだよ!!

「……しゃあねえな」

 でも……俺は足を止められなかった。
 怖いもんは怖い。だけど、それ以上にあの泣き声を放っておけなかった。
 くだらないこと言ってる場合じゃない。

 階段を一段ずつ上るたび、脇腹がズキッと痛む。
 さすがにこの怪我で動くのは無茶だったか、と今さら思う。
 だが、そんなことはどうでもいい。今は上に行くしかない。

 その先には屋上への扉があった。
 ここで行き止まりか……そう思いながら、ダメ元でドアノブに触れると。

「……鍵が開いてやがる」

 かけ忘れ……なのか?
 だけど、このドアノブはほんの少しだけ温かい気がした。
 ――さっきまで、誰かが触っていたみたいに。

 この先に、誰かがいる。
 ……多分トオルなら「考えて行動しろ!」と言ってくるだろう。
 それでも俺は、扉を押し開けた。

 勝手なことをしてるのはわかってる。バレたら看護師さんに、ちゃんと謝ろう。
 でも俺は、あの泣き声は放っておけないんだ。

「こりゃ……すげえ」

 夜の冷たい空気が頬を撫でる。さっきまで感じなかった土の匂いが、ふっと広がった。
 そこは屋上庭園だった。花壇や植木、ベンチが並んでいて、昼ならきっと落ち着ける場所なんだろう。
 それに屋上から見える町の灯りと夜空の星は、まるで別の世界のようだった。

 そんな景色をぐるりと見回していた、その時。

「……えっ?」

 ささやくような声がした。
 それは庭園の奥、ベンチの影あたりから聞こえた。
 俺はそこに目を向ける。

 月明かりの下に、人影があった。
 白い患者衣に身を包むその人の長い髪は、夜風に揺れている。
 月光を受けた髪は、目が眩みそうなほどにきらめいていた。

 こんな光景は初めてだ。なんていうか、その――

「……綺麗だ」

 それが最初に浮かんだ言葉だった。

 さっきから聞こえていた声の主は、きっとこの人だ。
 俺は一歩、前に踏み出す。すると――

「こないで」

 夜風にかき消されそうな声が、俺の足を止める。
 どうして、と聞こうとした。
 けれど、喉がうまく動かない。
 俺はただ、声のする方を向く。

「……えへへっ」

 それは、あまりにも小さくて力のない笑い声だった。

 月明かりがあっても、顔までははっきり見えない。
 それでも、今にも崩れそうなのに笑っている人がいることだけはわかった。

 その人は、頬からこぼれる光を拭おうともせず、患者衣の袖をぎゅっと握りしめている。
 まるで、なにかに必死に耐えているように見えた。

 ……どうして笑っていられるんだよ。

 胸の奥がざわつく。
 呼吸が、少しずつ速くなる。

 気がつけば、拳を強く握りしめていた。自分でもわかるほど、震えが止まらなかった。

 俺は――その場で立ち尽くすことしかできなかった。