朝の通勤ラッシュを逆流し、やっとのことで辿り着いた駅の反対側。無性に焼きたてのパンが食べたくなり、欲をかいたのが不味かった。
人混みの中で財布を落とし、見つけたころには時間切れ。空腹のまま来た道を戻ることになり、苛立ちは極限に達する。そん中で声を掛けられれば、当然いい顔はできない。
太腿丸出しのメイド嬢に、コンカフェのキャッチ。忙しない都会は、早朝から風度が乱れまくりだ。
ガン無視で歩行を進めていると、今度は横から腕を引かれ、利央は慌ててバランスを取り直した。
「……利央、眉間に皺寄ってるよ」
「ひぃいいっ! ……お、おまっ! やめろよ、いきなり現れんの!」
スタジオまで残り三分ほどの距離で足止められ、ついでにノド飴を放られる。駅前のティッシュ配りの方々に貰ったのだろう。馨は同じものを咥内でコロコロと転がしながら、甘い香りを漂わせていた。
「今日は宜しく、カメラマンさん」
「お前のこと撮るのは俺じゃなくて、瀬川さんだから」
「え? 利央じゃないの?」
「当たり前だろ。俺はアシスタント、光当てたりする係」
いくら腕を買ってくれていようと、莫大な金額が動く撮影を、任せるほどではない。機材の運搬、撮影のサポートがメインの仕事であり、本来であれば、モデルと話をするような立場ではないのだが――。
ふと顔を上げると、近い位置で見下ろされ、同時に腰に腕が回される。ぎゅっと引き寄せられると距離は狭まり、一気に心拍数が跳ね上った。
「なっ……なにっ!?」
「いや、なんだろう……なんか利央見てたら、胸の辺りがソワソワする。耳のところ噛んでいい?」
「はあッ!? いやいやいや……っ! なに言ってんだ! ここ道のど真ん中だから!」
「大丈夫、カメラ回ってないし」
「お前はカメラ回っててもやるだろ……」
すんすんと匂いを嗅がれ、耳輪を甘噛みされる。抵抗を見せれば締め付けが増し、過敏になった部分にまで舌を挿れられてしまった。
「ひぃ……っ、ちょっと、本気でやめろっ」
「利央、ここらへん弱いよね。顔赤くなるから、わかりやすい」
「うわっ、だ、……だめだってっ! そこ、やだ」
「大丈夫、血が出るまでは噛まないから」
「そ……う、いう、問題じゃないっ」
体温の上昇が止まらない。心臓が異常な速度で血液を送り、意思に反して肌が紅潮する。顔がいい男のどアップは見慣れているはずなのに。感情の制御装置が、ぶっ壊れているのだろうか。起伏が激しく、コントロールが効かない。
スキンシップが過激と言っても、相手はあくまでも同性だ。ここまで掻き乱されるのは、おかしいはずなのに――。
平常心を取り戻さなければ。そう気を取り直すも、甘い声で名を呼ばれれば、どうしても理性が揺らいでしまう
「利央……キスしていい?」
「だ……だめっ、絶対にだめ」
「舌入れないから」
「だから、そういう問題じゃないって、言ってんの……」
前髪が触れ、鼻先が近付く。相手の吐息を肌で感じるほどの距離になると、急に強く肩を引かれ、利央の目が大きく見開かれた。
「……なにしてんの、利央?」
「……優吾?」
「誰、そいつ?」
「誰って……覚えてない? 高二の時に隣のクラスだった里見だよ」
「記憶にないし、興味もない。利央から離れて」
「利央、やっぱり舌挿れていい?」
「は? え? なにっ……里見、ちょっと待って、待……ふっ、んぅッ! んむぅ――んんッ! ぷはっ、……やっ、やめ、んんッ!!」
前後の会話に応答しながら、惚けていた脳を呼び覚ます。手一杯で対応をするも、一歩遅かったのか。馨はクイッと利央の顎を押し上げて、濃厚な口付けを与え始めた。
自身の内側で感じる他人の体温は、甘美的で肉欲的。図らずも甘ったるい声が漏れてしまい、それが後ろにいる男の怒りを買った。
「ふっっっざけやがって、てめぇっ! ぶっ殺してやる!」
「ひっ、ひぃいいいい……ッ! だめだめだめッ! だめだって優吾! これから撮影なのに顔はヤバいっ!!」
「……じゃあ腹パンにする」
「本気でやめてっ! 下手すると、ウン百万単位の賠償問題になっちゃうから!!」
激昂する優吾は馨へと掴み掛かり、右手はすでに臨戦体制。冷静さを呼び戻すために、数字の話を出すも、効果はいまいちだ。視線は憎むべき対象へ定まったまま、一瞬たりとも隙を見せない。
「なんで止めるの? 利央、こいつのことが好きなの?」
「話聞いてた? こいつ殴って撮影ポシャったら、うちにすんごい請求がきちゃうんだけど。母さんたちの新婚旅行が、ハワイから熱海になるよ?」
「熱海のなにが悪いんだよ。利央は渡さない。二度と外歩けない面にしてやる」
「聞いて、優吾~その人、これから撮影のモデルさんなんだって~」
どうにかこうにか引き剥がし、荒ぶる友人の激情を押し沈める。
元より家族思いの男だ。大切な両親の結婚祝いが、多額の請求書なんて、不本意のはず。念願のバンパーチューブライドで、輝かしい新婚生活のスタートが切れるかどうかは、たった一回の腹パンに掛かっている。
どうどうと背を撫でて宥めるも、今度は冷ややかな微笑を携えた顧客が、余計なことを口にし出す。
「顔が商売道具だから、外歩けない面は困るなあ」
「ご尤もです、うちの義弟(仮)が大変失礼しました。訴訟だけは勘弁してください」
「義弟(仮)じゃなくて、旦那にして」
「お前は黙ってろ」
「でも、利央に会えないのは嫌。俺、君のこと好きだから」
「――は? なに? 今なんて言った?」
「利央のことが、好き? ……あはっ、本気で言ってんの? 少し優しくされたからって、とんだ勘違い野郎だ」
はっと鼻で笑い、優吾は利央の身を引き寄せた。背後からピッタリと身を重ね、右手を臍の下辺りに添える。そうして艶かしい動きで耳元へと擦り寄ると、正面に立つ馨へ、鋭い眼光を投げ付けた。
「……利央の初体験の相手は俺だよ。夏の暑い日、汗だくになりながら乱れ合ったんだ。びしょ濡れになって悶える利央、本当に可愛かった……――言ってること、わかるよな? お前なんかに、付け入る隙なんてないんだよ」
「それ、田植え体験の話だろ? オタマジャクシにビビった優吾が、田んぼの中に顔面からダイブ。当然、ペア組まされてた俺も道連れで泥まみれ」
「語り手が違うだけで、こんなに印象が変わるのかあ」
主語をぼかすことで、いらん誤解を与える。迷惑な話であり、最終的に馬鹿を見るのは、大袈裟に話を盛った男の方だ。
利央は肩を落とした優吾の腕を払い落とし、容赦無く尻を蹴り上げた。
「もう行けよ。今日は婆ちゃんのところに顔出すって、言ってただろ? 午後の面会時間、始まってんぞ」
「……利央、終わったら迎えに来るから」
「わかったって、早く行けよ」
なかなか動かない男の背を押し、無理矢理にでも送り出す。街路時を曲がるところまで見届けると、やっと息が吐けたのだろう。一度大きく深呼吸をしてから、利央は馨の手を取った。
「ほら、いくぞ里見。俺らも時間だ」
「利央」
「なに?」
「俺も名前で呼んで欲しい」
「はあ? なんで?」
「呼んで欲しいから、ダメ?」
「………………遅れるから早く歩けよ、馨」
羞恥のあまり声が上擦り、「んンっ」と咳払いをして誤魔化してみる。そんな姿が、逆に愛おしく思えたのか。馨は利央の身体を担ぎ上げ、鼻歌混じりにスタジオの扉を開いた。
