異世界の化け物に飼われてる男 〜だって、君が愛と呼んだから〜



 部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドへと寝転ぶ。目の前で人が亡くなったというのに、意外にも落ち着いている自分自身に驚いた。手のひらをすり抜けるような現実感のなさは、きっと防衛反応からくるものだろう。恐怖と混乱が限界値を超え、脳が思考を放棄したのだ。

 今日一日で多くのことを経験した。多くのことを知り、また少しだけ、世の中の不条理さを学んだのかもしれない。娯楽のために命を生み出し、消費する。そんな罪深き行為を非難したとて、似たようなことを自分たちもやっていた。

 生産された牛や豚の全てが、人の血肉になっているか。店に並べられた惣菜が、余すことなく人の胃袋に入っているだろうか。似たり寄ったりな顔付きのアイドルだって同じ。量産され尽くしたものの中で、日の目を見るのは、ほんの一握り。それも流行り廃れてしまえば、後を追う者などいない。

 誰もが皆、汚い部分を見ないようにしているだけ。美しく装飾された世界の裏側を、知らないわけではないのに。無垢を気取って、被害意識に浸っているのだ。





「……まだ泣いてる。利央はあれだな……えっと、なんだっけ? ほらあれ」
「なに?」
「……漏らしやすいんだな」
「『涙脆い』だろ」

 下瞼に溜まった涙が、零れ落ちる前に拭われる。頬を撫で、額にもキスを落とす。その仕草に絆されかけるも、盛大な言い間違いに差し止められた。

 まるで人が粗相したかのような言い草。これは見逃せないと、利央は強めに訂正をいれる。

「……お前、なんでそんなご機嫌なの?」
「ヌルに褒められたから。来月の社会経験の許可も下りたし」
「前から思ってたんだけど、そのヌルってなに?」
「俺を飼ってくれてる人のこと。俺が勝手にそう呼んでるだけだけど。口で発音できる中で、一番近いのがそれだから」

 半分ほど身を拗らせて振り返れば、眠たげな馨の顔が、視界いっぱいに広がった。カメラの前では噯にも出さずとも、気を張っていたのだろう。緊張が解けた今、一気に倦怠感が押し寄せて、動作の一つ一つがおざなりだ。

 重たい瞼が緩く瞬き、徐々にその視界を狭めていく。しかし、彼はまだ話足りないのか、再び口を開き始めた。

「……ヌルには死の概念がないんだ。身体は一度分解されても、また新たな細胞と混ざり合って再構築されるだけ。俺もそう言われて育った」
「矛盾してんな。じゃあなんでお前は、その言葉を知ってんだよ」
「なにを?」
「『死』って言葉」
「ああ、それはあっちの世界で学んだから」
「いつ?」
「利央が教室で暴れた日。たまたま廊下から見てたんだけど、始めはなんで逃げ回ってるのか、理解できなかったなあ」
「はぁ……最悪。今、その話すんの?」
「あははっ! いいじゃん、武勇伝なんだからさ」

 ふふっと可愛らしげ笑っては、悪戯な表情で反応を伺う。以前は人を馬鹿呼ばわりしたわりに、今回は随分と友好的だ。

 利央は鬼難しげに顔を顰め、口の先を尖らせる。

――あれは、高校に入学したての初日。クラスに入ると異様な空気が流れていた。

 私立校であるそこは外部生よりも、内部進学者が多く、都内ではそこそこ名の知れた進学校。和気藹々とした雰囲気を予想するも、蓋を開けてみれば、陰湿なイジメが蔓延る、泥溜まりのような場所だった。

 「臭い」「同じ空気を吸いたくない」「死んだ方がマシ」と、たった一人の女子生徒に寄って集っては、悪質な罵倒を繰り返す。それも毎度、休憩を挟む度となれば、こちらの我慢も限界だった。

 昼休憩の終わり、利央は揶揄する生徒の一人へと近付き、首根っこを掴み上げる。そのままずるずると引き摺り、窓の外へと放った。もちろん、落下ネットが貼られていることを知っての行動だったが、側から見れば狂気の沙汰だ。

 二人目、三人目と同じように投げ捨て、四人目へと手を掛けると、「これは……まさか全員いくつもりか?」と、嫌な緊張が走る。間もなくして、一人の女子生徒が悲鳴を上げ、全クラスメイトが教室から逃げ出した。

 爽やかな春の日が、阿鼻叫喚の地獄絵図へと早変わり。お陰でイジメはピタリと収まり、謹慎処分が明けたころには、住み良い環境へと変貌を遂げる。

 なんともノスタルジックな思い出であり、就活の際には、けして口にできない機密事項だ。

「すんごい顔で逃げ回る人たち見て、『ああ、俺が教えられたものは、綺麗事だったんだなあ』って思った」
「よかったな、現実見れて」

 人生の汚点も、誰かの目覚ましになったのであればよしとできる。

 利央は身を起こすと、ベッドの脇に置かれたウォーターボトルへ手を伸ばした。蓋を開けて、軽く水を煽る。それで言葉を飲み込めるかと思ったが、胸に滞った思いは燻ったまま。視線が重なれば、留めておくことはできない。

 感情に押し流された唇は寂しげに、そっとそれを吐露する。

「……恐くないのか? ここにいれば、自分がどうなるのか、わかってんだろ?」
「恐くないよ、俺は負けないから」

 返された答えに迷いはなく、力強い。注がれる熱い視線に当てられたのか。胸の燻りはなくなるどころか、焦がれるような疼きを孕み出す。なんだか脈拍も上がってきたように感じ、利央は再びボトルへ口を付ける――と、すぐ脇の方で何かが蠢く小さな音が立った。

「それ、持ってきたの?」
「なんか、あのまま置いて行くのも、可哀想だなぁって……」

 ベッドの端へ置いていた白い箱。それを手元まで手繰り寄せ、利央は両手を側面へ押し当てる。じわじわと霧が晴れるように透過した箱の中には、忙しなく毛繕いをするチンチラの姿があった。

「真っ白だなあ」
「名前、雪ちゃんって言うらしいよ」
「……彼さ、なんでこの子を生かしたんだと思う?」
「どういう意味?」
「参加証は、自分が一番大切にしてるものから、選ばれるんだって。それを手放せば、一度だけ見逃して貰える」
「え? それ、死ななくても済むってことか?」
「そう……でも自分の代わりに、大切なものを壊されるんだ。死の概念がないヌルにとっては、そっちの方がよっぽど『傷付く』のかもね」


 愛らしげな白い動物を見下ろし、馨は感傷的にそれを零した。

 死の恐怖がないからこそ、失う痛みを重視する。消失感を痛みと捉えられる感性を持っていて、なぜあれほど惨たらしい企画を設けたのか。

 どう足掻いても、人間とは相容れない存在。打開策を講じたとして、交渉の余地があるとは思えない。

 悲観的な思考に首を振り、利央は反対側に放られていた、もう一つの箱を引き寄せる。

「……じゃあ、やっぱり気に入ってるんじゃん。この指輪」
「俺の場合はそれしかないから、消去法なだけ」
「参加証がなくなったら、次のゲームどうやって参加すんの?」
「身体の一部を差し出せばいけるって聞いたけど、本当かはわからないなあ」
「うわっ……グロいやつじゃん。そんな状態で本領発揮できるわけないだろ」
「そうだね。だから大概みんな、次の試合には顔を出さない……」

 健康な部位を意図的に切り落とす。想像しただけでも身震いが生じ、うげぇっと舌を出した利央の横で、馨は雪の頭部を軽く撫でた。

「……彼は君のこと、自分の命よりも大切に思ってたんだろうね」

 ふっと、瞼を伏せて落とされた囁き。身を丸めた白い生き物には、どう聞こえていたのだろう。

 照度の落ちた部屋の中、彼は消え入るほど小さな声で、静かに鳴いた気がした。