「――待って、利央! なんで置いてくんだよ」
「だから、二時から打ち合わせなんだって! モデルさんも来るから、遅刻できないって言っただろ」
「それ来月撮影のやつ? 俺も同席していい?」
「よくないよくない。お前は衣装担当と三時に新宿。自分で選んだ服借りに行くんだから、ちゃんと確認して来いよ」
簡素なエントランスを抜け、螺旋状の階段を登った踊り場。利央は優吾の手を振り払い、強めの声量で叱咤する。
インターンシップ先のスタジオは、大学からそう遠くはない。二つほどブロックを挟んだ先の、向かい側だ。たかだか十分ほどの距離で、何を大袈裟にしているのか。口を尖らせた優吾は、見上げるほどの長身を傾がせて、体重を掛けてきた。
「はぁ……せっかく同じインターンシップ先にしたのに、全然一緒にいられない」
「保育園から大学まで一緒で、お前はどこまで付き添えばいいの? 墓まで?」
「むしろ骨壷も一緒でいい」
「まあ、再来月に籍入るしなあ」
後ろから抱き付かれたまま、優吾にグリグリと顎でつむじを弄られる。昔と変わらないイジけ方だが、ここは昼休憩で賑わうフォトスタジオ。綺麗めなネイルを輝かせたお姉様方が、颯爽と髪を靡かせる聖地だ。デカい男二人で絡み合う場ではない。
早速、横を通り過ぎた女性社員に二度見され、利央は気まずげに顔を背ける
「やっぱり父さんたちの結婚、乗り気じゃないんだ? 玲香さんに男ができるのが、そんなに嫌?」
「いやいやいや。人にマザコン疑惑かけるより先に、お前の親父をどうにかしろよ。普通さ、息子の友達に『エロ動画見ようぜっ♡』って誘ってくる? アウトだろ」
「ああ〜……熟女モノだっけ?」
「『超』熟女モノな。騎乗位のところでいつ息止まるかって、ハラハラした」
「女優も八十代でよく頑張ったよ」
常識がなければ、性癖も危うい。そんな男に、自身の母親を任せたいと思う者が、いるだろうか。ふんっと鼻息荒くそっぽを向けば、近い位置で軽笑が吹き零された。
「なんだかんだ理由付けして、自分の母親が取られるのが、気に食わないじゃないか?」そんな含みは、当たらずとも遠からず。早い時期に父を亡くし、女手一つで育ててくれた愛しの母だ。マザコンになってなにが悪い。
利央はモゾモゾと身じろぐと、二人羽織のような歩行で壁際へと移動する。長椅子に腰を下ろしたところで一息吐き、視線は自然と手元のスマホへと落ちた。
「……別に、結婚に反対なわけじゃない。誠司さんには感謝してるよ。進路のことでたくさん相談に乗ってもらったし。それに、陽葵のことだって――」
現在時刻を表示する文字の下。光沢のあるスクリーンの中で、子生意気な妹は、いつもと変わらない笑みを浮かべている。
最近のアップデートで、ライブ壁紙の機能が追加されたらしい。大口でスイカに齧り付く姿は豪快で、思わず笑みが溢れた。
画面を見る度に画像が切り替わり、まるで生きているかのように、こちらへ笑いかけてくる。残酷な機能だとわかっていても、止めることはできない。もう戻ることのない日々に焦がれ、気が付けば不毛な時間を浪費していた。
「……上の許可待たないで捜査本部設置して、問題になったって聞いた。迷惑掛けたなって、反省してる」
「そんな他人事みたいに言わないでよ、俺たち家族になるんだから」
言葉尻が震えれば、優しい友人が頬を擦り寄せてくる。古傷に寄り添いながら、しかし直接痛みに触れることはない。
長い睫毛が蝶の羽のようにゆっくりと瞬くと、柔らかな肉の感触を耳元で感じた。
「……優吾、近いって言ってんだろ。もう行けよ、中居さん入り口のところで待ってんぞ」
「はああぁ〜…………わかった、行くよ。でも打ち合わせ終わったら待っててね、一緒に帰りたいから」
「やだよ。お前の家、逆方向じゃん」
「夕飯奢るから」
「寿司?」
「コンビニ飯」
「却下」
名残惜しげに振り返る巨体をどうにか送り出し、利央は壁に背を預けた。
洋介の言うように、優吾の「過保護」スイッチはこちらに原因がある。悲惨な事件が与えた影響は大きく、それが幼い頃であればなおさらだ。突然の悲報は受け入れ難く、近しい人々にも大きな爪痕を残した。
ふぅっと小さく息を吐き、利央は静かに窓の外へと視線を移す。雲の流れが早く、密度も濃いめ。予報では晴れであったが、夕方から荒れるのかもしれない。
優吾に傘を持たせるべきだったかと腰を上げると、急に身体が反対の方へと引き寄せられる。
「――仲良いんだね。友達?」
「ひっ……ひぃいいいッ!! ……な、ななななんだっ!? ……えっ、里見?」
「あはっ、すごい顔。写真撮ってもいい?」
「いいわけないだろっ! おいっ……だから撮んなって!」
思いもよらない人物の登場に、利央の瞳が大きく見開かれた。
薄手のニット素材のセーターに白いシャツ、下はダークカラーのスキニージーンズと。今日は外行き仕様なのか。きっちりと髪型まで整えた馨は、興味深げに目を細めている。
「里見、なんでここにいんの?」
「今日は撮影の打ち合わせだから」
「撮影? ……まさかっ! 来月撮影のモデルって、お前のことかっ!?」
「正解~」
たとえ取引先の敷地内であっても、遠慮のなさは変わらない。馨はふふっと鼻を鳴らし、身勝手に人の脚で膝枕をし始めた。
今にも蹴り飛ばしたいところだが、生憎こちらはインターン生であり、顧客である彼よりも立場は下。苛立ちに歯を喰いしばれば失笑され、利央は口元をヒクつかせる。
「昨日は無事に家まで帰れた?」
「……お陰様で。自分のゲロを頭から被るっていう、希少な体験させてもらったよ」
「中村さんの運転、荒っぽいからなあ」
「お前さ、いつもあれで通勤してんの? もしかして今もゲロった後?」
「いや、俺は三角規管強い方だから」
「三半規管な」
一字違いで、惜しくも不正解。気持ちはわからないでもないため、オマケで加点してあげたいところ。
――わざわざ矯正しなくても、これはこれで愛嬌があるように思えるんだけどな……
そんな心象を抱こうと、それはあくまでも個人の意見だ。これから本格的に業界へ進出していくのであれば、確かに日本語はできた方がいい。
つんつんっと頬を突き、利央はウトウトと瞼を上下する馨の意識を呼び覚ます。
「……なに?」
「ちょっと聞いてもいい? お前のご自宅と、所属事務所について」
「いいよ〜」
「いつからあそこに住んでんの?」
「わかんないなあ……俺がちっちゃい頃からってのはわかるんだけど」
「写真とかねぇの?」
「あるよ。見る?」
「どれ? ……ほおほお、なるほどな」
「可愛い?」
「可愛いかどうかは別として。小さい頃の写真見せるって言って、受精卵の写真見せてきた奴は初めてだわ」
どこのブランドだかわからないスマホを手渡され、視線を落とした先。見事な円形の細胞が映し出され、なんとも形容し難い感情に見舞われる。
ギャグなのか、ガチなのか。ギャグであればさして面白くはないし、ガチであれば不思議ちゃんレベルが場外だ。どちらにしても、自身の許容範囲を大きく上回る。いくら顧客であろうと、これ以上の関わりはご遠慮願いたい。
どう反応するかと、利央が頭を悩ませていると、その狼狽を察したのか。馨は鉛のように重たい頭を持ち上げ、軽やかに笑った。
「俺はあそこで作られて、エンタメの一つとして育てられてるんだよ」
「作られたって……え? なに言ってんの?」
「日本でもあるだろ? 課金してモンスター育てるソシャゲ。あれと似たやつ」
横に並んだ馨は印象的な垂れ目を歪ませ、温度のない微笑を作り出す。その作り物めいた表情が、先ほど目にしたバナー広告のそれと重なり、利央に寒気を抱かせた。
「異世界の化け物に飼われてる男が、そんなに珍しい?」
「……珍しい、と……思う、から、記念にバシバシ写真撮っとくわ! それじゃ打ち合わせ始めるんで、こちらの部屋にお願いします」
「あははっ! なんでいきなり他人行儀になるんだよ?」
「悪いけど、頭ぶっ飛んでる奴とは、なるべく関わらないようにしてるんだ」
「信じられない?」
「信じろって言う方が無理がある」
いくら超光速航法を体験したからといって、非現実的な発言を鵜呑みにできるほど、純粋ではない。
コミュニケーションに難ありの生徒。ブラック企業感満載の事務所。やはり、これ以上関わらない方がいい。そう意思を固め、利央は腰を上げる。その途端に腕を掴まれ、目の前にスマホの画面が突き付けられた。
「……なにこれ? ランキング表?」
「そう、オンタイムの人気ランキング」
「へえ〜。お前、ぶっちぎりの一位じゃん」
開かれたアプリに表示されたランキング表。どこの言語だかわからない文字で埋め尽くされる中、馨の顔が王座に添えられていた。
横のゲージが、彼の所有ポイント数を示しているのだろう。下に並ぶ者とは圧倒的な差があり、その人気度が窺える。
「定期的に知能テストがあって、その数字がそのままランキングに反映されるんだ」
「この前のやつのこと?」
「そう。でも馬鹿だからダメかっていうと、そうでもなくて。愛嬌があるだけで、順位が上がる奴もいる。フォロワーが増えたり、投げ銭が入れば、それだけでも数字が加算されるからね」
「ガチで言ってる?」
「ガチだよ」
話を盛っているにしては、随分と大掛かりだ。第一、そんな嘘をつくメリットが見出せない。
グラつき掛けた『常識』に、追い討ちを掛けるように、馨は先を続けた。
「俺の飼い主はバックに太い会社が付いてるから、こうやって外で社会経験させてもらえるんだけど。酷いとこだと、子供の遊び道具にされて、ぐちゃぐちゃにされるらしいよ」
「ぐちゃぐちゃって……お前も腹に傷が……」
「ん? ……ああ、これか。そうだよ、兄さんたちに付けられたんだ。俺がまだ五歳の時だったかな? ヌルは愛着が湧くと噛む癖があって、油断してたらガブッてやられた」
あははっと声を出して、まるで大したことではないかのように言ってのける。
昨日見せられた傷は大層なものであり、痛々しい縫い痕も確認できた。命を落とさなかったのが不思議なほどの大傷だ。
トラウマになっても、おかしくはないはずなのに――この男には恐れというものが、ないのだろうか。軽く口にできる感覚が理解できず、利央は瞳を震わせる。
「お前さ……なに、笑ってんの? お……おかしいだろ? ……いっぱい、血出たんじゃないのか? なんで……そんな平気な顔してんだ?」
「全然平気じゃない。痛かったし、唇が裂けるぐらい大きな声で叫んだ。……だけど、誰も助けに来てくれなかったんだ。泣いても叫んでも、俺はずっとあの部屋で一人だった……」
ボソッと落とされた台詞に奮い立てられ、落ち掛けていた視線が引き上がる。見据えた顔は相変わらず、お綺麗な微笑を携えていたが、淡い色合いの虹彩が一度だけ収縮する。
たったそれがだけの動きで、察してしまった。それが、ただの強がりであるということに。
「そ……だよなっ、こんなに傷跡が残ってんだから。痛かったよな……っ、一人で、誰も助けに来てくれなくて、怖かった、よな……っ」
目尻が熱くなり、ボロッと大きな雫が頬を流れる。利央は慌てて手で押さえるも、溢れる涙は重力に抗えぬまま落下した。
幼い頃の脳は未熟だ。 楽しいことと面白いこと、そして安心感で満たされている。大切に扱われ、たくさんの愛を吸収して育つもの。そんな中、突然の痛みは、心を抉られるような経験だったはず。
いくら声を張り上げて助けを求めても、やめてくれと泣き叫んでも。非道な行いは止まらない。生きながらにして味わう苦痛は精神を蝕み、絶望を与えたことだろう。
彼が今、この場で笑っていられることは、奇跡なんかじゃない。
何百、何千回と繰り返し練習し、作り上げた笑顔なのだ。
「――えっ? ……利央、泣いてる?」
「ちょっ、ごめん、……今こっち見ないでっ」
「なんで? 俺なんか痛めることした? どこが痛いの?」
ポタポタッと滴る雫を前に、驚いたのだろう。馨は利央の涙を拭い、強引に顔を押し上げた。
生温い液体の中に沈み込んだ瞳が、遠い景色を映し出す。
ぼんやりと浮かんだ提灯の灯り。
鮮やかな浴衣が視界を彩る夏の宵。
息を切らし、汗を滴らせながら探し求めた簪は見つからず。緩く握られた右手は空を掴むばかりだった。
利央は一度だけゆっくりと瞬きをすると、自身を見下ろす馨へと視線を定める。
「……痛める、じゃなくて、『傷付ける』だろ? 小学六年で習う漢字だからな」
「ごめん、傷付けるつもりはなかった」
「お前は誰も傷付けてないよ……これは、お前のせいじゃない」
「でも、利央が泣いてる」
せっかく否定したというのに、まだ懸念は拭えなかったのか。 馨は利央の背に手を回し、力強い抱擁を与えた。
触れ合った箇所から、相手の体温が感じ取れる。自分とは異なる鼓動の速さ、大きな肺が膨らむ呼吸の深さ。お互いを知り始めてまだ数日だというのに、心地よさを感じしてしまうのはなぜなのか。
子供のような温かさの温度に絆され、トロンっと目が潤んでしまう。抱き締める腕の力が緩まると共に、大きな手は徐々に下降する。脚衣の中へと押し入り、尾骨あたりで硬い指先の感触を覚えると、利央は強めに馨の頭部を叩いた。
「……おい、どさくさに紛れてなにしてんだ。手退けろよ」
「でも、喧嘩の後の交尾はすごく興奮するって聞いたから」
「誰も喧嘩してないし、そもそもどこ情報だそれ?」
「昨日見た動画、『ドキッ♡ 肉厚我儘ボディーのNTR妻・朝まで元気にお清め搾り』から」
「どいつもこいつも、性癖がアブノーマルだなあ~」
そんな変な教材ばかり与えるから、肝心の常用漢字が伸びないのだ。日本語のチューターうんぬんの前に、まずこの問題児が、どの程度の常識を持ち合わせているのかを、知る必要がある。
長期戦だなと溜め息を漏らし、利央は首筋に歯を立て始めた男を、容赦無く蹴り飛ばした。
