学力テストがある朝は、いつも自然と目が覚める。 程よい緊張感と寂寥感。それは、初めてのゲームが行われる朝も同じだった。
冷えた空気の感触を覚え、洋介ははっと目を覚ます。飛び起きて辺りを見渡すも、雪の姿はない。
ベッドのブランケットは乱れたまま、着替えた様子もないことからして、飼い主に呼び出されたのだろう。彼は月に三度ほど、こうして姿を眩ませ、爪の先まで磨かれて帰宅する。
自分とは大違いの手厚い待遇を前に、さして嫉妬心は覚えなかった。必要以上の干渉に、過剰な期待。そんなものを押し付けられるぐらいならば、放置された方がマシだからだ。
――あいつの顔、見たかったな……
負ける気などさらさらなくとも、万が一のことを考えてしまう。最後に、愛しい者の顔を見たいと思うのは、至極当然のこと。
ムシャクシャとした思いが拭えず、乱暴に髪を掻き乱しても、その姿を見守るのは、無機質なカメラだけ。
洋介は小さく息を吐き、シャワールームへと向かった。
朝食を口にし、袖を通したのはワインレッドのカラーシャツ。それに合わせた黒のスーツはやや小さめで、襟がないタイプだった。硬すぎず、緩すぎない、スマートカジュアルといったところか。髪は後ろに流し、前髪は少しばかり横へ垂らせる。
そこまで終えると、洋介は改めて鏡に映った自身の顔を見据え、やはり、もう一度だけ深く溜め息を落とした。
薄暗い通路を抜けて、階段を登る。いつもとは違った温度に湿度。そして、鼻腔を擽る柔らかな葉の匂い。厚手のカーテンを開くと、目の前には美しい紅葉の風景が広がっていた。
上限のない空から、ひらひら舞い落ちてくる赤葉たち。それらは肌を擦り抜け、薄く水の張った足元の小川へと消えていく。
少し先を見据えれば、水の流れは滝へと続いているのか。緩い感触の液体は、底の見えない闇の中へと吸い込まれていった。
ここから下まで、どれだけの高さがあるのだろう。
耳を澄ますと、水が床へ叩きつけられる音が聞こえてくる。足を滑らせて落ちれば、一瞬で昇天できる超特急コース。ゲームへ参加する以前の問題であり、洋介は早々に舞台の方へと舞い戻った。
大きめサイズの段差を這い上がり、純白のデスクの前に立つ。時間差で、にょきにょきと伸びて来た椅子は、高さが合わず、放置することにした。
ゲーム開始まで、あと五分。張り詰めた空気が漂う中。涼しい顔で登場した少年を前に、洋介は目を見張る。
「――は? 雪? ……な、なんでっ? ノアはどうしたんだ?」
「部屋で死んでたらしいよ。自死だって」
「自死? ……なんだそれっ!!! まだ配信始まってもないのに、馬鹿かあいつ!」
「……あのな、普通はお前みたいに、呑気に朝食食ってなんて、いらんねぇんだよ」
ふーっと息を吐き捨て、雪は舞台の上へよじ登る。白いシャツに、同色のパンツ。髪にはフォロワーから受け取った髪留めを付け、こんな時にまでファンサを欠かさない。
珍しく鋭い眼光を携えたまま、同じように白いデスクの前に立つと、参加証である白い箱は、斜め前の台へと置いていた。
急な対戦者の変更に、動揺が隠せないのだろう。洋介は強かに舌打ちをし、隣のステージへ向かおうとする。しかしそこで時間が来てしまい、無惨にもゲームの開始を告げる音が鳴り響いた。
――ドドンッ! 三番テーブルぅううッ、シャァアアンペーン入りやしたああぁああああッ――――ブツンッッッ!!!!
「……うるせっ、スピーカー落ちたか?」
「チッ……使えない音響担当だな」
規格以上の過大入力で、ユニットの内部配線が焼け、断線したのだろう。明らかに別イベント用の音源に加えて、まさかの故障。先行きが不安なライブ配信は、現場のみならず、観客にまで緊張感を走らせる。
現場スタッフが慌てふためき、所々で騒めきが立つ最中。宙に浮かんだスクリーンが切り替わり、その中央に文字が表示された。
―― こくごのじかん ――
本日の項目が明かされてから、きっかり一分間後。手元のディスプレイに、五十問の漢字が並べられる。
蹂躙 抽挿 蕾 恍惚 淫靡 残滓 朦朧 激盪……
だいぶ偏ったセレクションのように思えるのは、気のせいか。どれも見たことのないものばかり。
洋介はペンを握ることもできず、ただ茫然と立ち尽くした。
「……おい、なにしてんだよ。さっさと埋められるとこだけでも埋めろ」
「だ……だって、こんなの無理だ……っ、それに、お前と戦うなんて……っ」
「なに考えてんのか知らねぇけど、俺は負けないよ」
バサッと切り捨てるような返答が突き返され、雪はこちらを見ようともしない。視線は真っ直ぐに手元のディスプレイに定まったまま。
あまりにも冷たい対応は、意図あってのものなのか。確かな牙を剥き、狼狽する心へグッサリと突き刺さる。相手も命が掛かった勝負、必死にでもなるだろう。当たり前のことだと、言い聞かせるも、乱された心が思考を遮断した。
一つでも多く正解しなければ、雪には勝てない。勝てなければ、どうなってしまうのか。わざわざ口に出すのは愚問だ。
洋介はペンを鷲掴み、手元の紙に解答を記入し始める。知らない漢字は、それを形成する部首から、おおよその読み方を予想した。制限時間いっぱいまで使い、可能な限り文字を書き殴る。そうして三十分が経過したころ、タイムアウトのアラームが鳴り響いた。
結果は言うまでもなく惨敗。スクリーンに映された集計を見ることもなく、洋介は膝を突く。
たった一回、たったの一度、ゲームに負けただけで命が取られる。
なんて冷酷で、残酷な世界なのか。
十年以上、あの部屋の中に閉じ込められ、碌な教育も与えず。中途半端に可愛がっては放置する。
そして最後は、見せ物にして処分するのか。
ゴミ屑同然の人生に反吐が出るも、それはこの檻の中で生を受けた瞬間から、知っていたことだ。惰性に気力を失い、努力を怠る。そうして現実から目を背け続け、遂にここまで来てしまった。
確かな死が、目の前に提示された瞬間に恐れを抱いたとて、もう手遅れ。数字は痛いほど正確に事実を叩き付け、逃げ場を奪っていく。
「俺、死ぬのか……? ここで、終わりなのか?」
声が震えた。
肩も、脚も、全身が恐怖に支配される。
代り映えしない毎日に飽き、終わりを望んだことすらあったのに。
最後の最後で縋り付くなんて、惨めだ。
ポタッと、床に水滴が滴った。ポタッ、パタタッと、それは徐々に数を増やして、シミを広げていく。頬伝う涙が唇に触れ、そこではじめて、自身が泣いていることを自覚したのだろう。洋介は慌てて目元を擦り上げ、涙を拭った。
「……お前さ、俺のこと好きって言ったの、嘘だったの?」
静かに背を揺らす洋介を一瞥し、雪はぶっきらぼうに声を掛ける。視線はカメラへと戻し、真顔だ。いつもの完璧な笑顔はどこへやったのか、冷めた表情でスクリーンを見上げては、気怠げに髪を掻き上げた。
「な……な、にっ?」
「俺の代わりに死ねるんだ、本望だろ? それとも、お前は自分の命の方が大切なのか?」
「……そんなん、お前のが大切に決まってんだろ!」
「じゃあ、笑えよ。こんなクソ共に、汚ったねぇ泣きっ面なんて、死んでも晒すな」
厳しい口調で叱咤し、雪は手にしていたペンをデスクへ叩き付ける。そうして一度瞼を閉じると、なにかを決心するように唇を噛み締め、大きく目を見開いた。
「――おい、聞いてたか無能ども? こいつは自分の心臓よりも、俺の方が大切なんだってさ。参加証の登録、間違ってんじゃねぇの?」
「お……お前、なに言って……?」
「洋介、お前は死なない。俺が代わりに死んでやる」
「え?」
なにを言い出すのかと思えば、カメラが回っているにも関わらず。雪は舞台を降りて、ジャケットを脱ぎ捨てる。
表情は硬く、言葉もない。彼らしくない冷えた表情は、角度によっては泣いているようにも見えた。彼を支持するフォロワーたちは困惑し、現場の者も棒立ち状態だ。
バシャバシャッと水を蹴り上げて、洋介の元まで来ると、雪は白い台の上へ乗り上げる。そこは参加証を置くべき場所であり、人が乗れるスペースは確保されていない。
それでも俺様気質な彼のこと。些細なことなど、気にならないのだろう。余裕たっぷりの不適な笑みを携えて、堂々と胡座をかいてみせた。
「こいつの参加証は俺だ。参加証を壊せば、こいつの処分は免除だったよな? さっさとやれよ」
「は? ……お、お前っ、ふざけてる場合じゃないぞ! そこから降りろよ!」
「じゃあな、洋介。次は勝てよ」
「雪! ……まっ、待てっ!!!! 撃つな!!!! 駄目だっ、雪ッ!!!!!」
つぅーっと、薄い線が白い肌の上に当たり、照準補助のマークがつけられる。洋介は傾れ混む勢いで彼の元へと駆けるも、一足遅かったようだ。白い閃光は真っ直ぐに雪の心臓を貫き、赤い鮮血を撒き散らした。
ヒラヒラと舞い降る紅葉と共に、手の中に落ちてきた愛しい者の身体。視聴者の間で混乱が起きているのか。投げ銭目的で設置されたTLは荒れ放題。見兼ねた運営は理解が追いつかないまま、照明を落とし、ライブ中継が遮断された。
「雪……? う、嘘だろ……っ? なんで……っ、なんでお前が……っ」
腕に抱いた身体が、徐々に温度を失っていく。あれほど柔らかかった肌も、美しい色合いの瞳すら濁り、鼓動が一切感じられない。彼を形成する一つ一つが、緩やかに活動を停止し、命の終わりを告げてきた。
洋介は呆然とした表情で雪を抱き締め、開いたままであった瞼を、そっと押し下げる。
生き残ったのが、最後まで現実を見続けた彼ではなく、弱い自分の方なんて。皮肉な人生だと自嘲し、動かなくなった口元に、静かに唇を押し当てた。
