葉がほんのりと色付き、肌寒さを覚える頃になると思い出す。あの日見た景色、そして、この痛み。
馬鹿な失敗や傷痕が、今の自分を形成する一部であると、理解していても、やはり、思わずにはいられない。
他に道があったのではないか。なにか、できることがあったのではないか、と。
風に吹かれた紅葉が、静かに舞い落ちる姿を見れば、なおのこと。あの温かな抱擁を思い出し、愚かな過去の自分を、戒めたくなるのだ。
―― The story of Yuki × Yosuke ――
頬に当たる冷たいコンクリートの感触、咥内に広がる鉄臭い血の味。洋介は気怠げに身を起こし、寝癖の付いた髪を掻いた。
左右上下を鉛色の壁に囲まれ、正面の窓に至っては始終真っ暗だ。下を見れば、所々で明かりが灯り、同様の部屋が確認できるも、他人の生活を覗く趣味はない。
温度を感じさせないこの部屋で寝起きし、もう十年以上が経った。作成されてから今日まで、一度も外へ出ることは許されず。目に映る世界はこの部屋と、小さなタブレット端末のみ。代わり映えしない空間は普遍的で、緩やかに生きる活力を減少させる。
それでも生きている限り、成長はするものだ。小さな物事に興味を抱くようになり、一人でできることも増えた。
問題は昨日のように、息の臭い飼い主たちと、顔を合わせなければならない時。毎度どこかしらに、傷を負わされることだった。
体長差が五倍以上ある相手が、大口を開けて噛み付いてくる。牙も鱗もない、それもまだ成長過程にある身体で、なにができただろう。声を上げたとて、言葉が通じないのであれば、意味がない。
ペットどころか、子どもの玩具同然の扱い方。長く生かされたとしても、せいぜい二十代半ばまで。先のない余生に惰性が勝り、結果的に、なにもしないことが増えた。
芸をしなければ、フォロワーが増えず。課金してくれるスポンサーも減少する。
――息すんのすら、億劫になってきたな……
そう肩を落とし、再び寝転がると、洋介は背後で不穏な気配を察した。
さっと身を丸めて右へ避けたのは、動物的な勘だ。 すぐさま真横で、バサバサッと本が落とされ、慌てて飛び跳ねる。
「うわっ! ……おい、なにすんだよ雪」
「いつまでも動かないから、死んでるのかと思った」
「いやいや、ちゃんと動いてただろ?」
「悪いけど、退いてくれる? 俺のフォロワーから、頼まれたんだよ。スクショ撮りたいから、ゴミ除けろって」
「ゴミ? 今、俺のことゴミ呼ばわりした?」
グイグイッと膝で背を押し、壁の方に寄るように促してくる。お手本のような笑顔を貼り付け、カメラへ向き直ると、雪は投げキスのサービスまで行っていた。
寝起きのこちらに対して、あちらはすでに着替え済み。シャワーを浴び、髪も整えた後なのだろう。どこから撮っても隙のない表情で、ファンサービスに努めている。
「……朝からよくやるなあ〜、何時起き?」
「今日は三時」
「はあっ!? なんでそんな早いんだ!? 今日、学力テストだっけ?」
「違う。予習だよ、予習。そこの本、全部読み終わったからお前にやる」
「……なにこれ?」
「テキストブック。来週からライブ配信のゲームが始まるって、聞いただろ? 俺は豚野郎共から貰えたけど。お前は、どうせ貰ってないだろうからさ」
撮影会を終え、くるりと踵を返した雪は、洋介の前へ腰を下ろす。先ほどばら撒いたテキストを拾い上げると、ペラペラとページをめくり、目次のページを開いてみせた。
「こくご、さんすう、りか、しゃかい、どうとく……この中から、ランダムで出題されるらしいよ」
「どうとくってなんだ?」
「それは仮項目だから、無視していい。テキストには載ってなかったけど、たぶん、うどんの仲間だと思う」
「ああ、この前足で踏んで作ったやつか」
間延びした声で欠伸をすると、洋介は首を傾げながら、先週末の出来事を思い起こす。
けたたましいシャウティングチキンの音で、目覚めた早朝。寝起きから水と粉を与えられ、そこからは捏ねる、踏む、伸ばすの繰り返し。丸一日掛けて作った麺はゴムのように硬く、とてもではないが食べられるものではなかった。
不毛な足踏み作業を、脳裏に描いたのは、雪も同じなのだろう。ふふっと愉しげに喉を擽らせ、長い睫毛を瞬かせている。
雪と出会ったのは、ちょうど三年ほど前のことだ。飼い主からの過剰なスキンシップで、酷い怪我を負い、寝込んでいた週末。目が覚めると、斜め向かいの部屋に住む彼が、ベッドの前で棒立ちになっていた。
なんてことはない。浅はかな思考の飼い主たちは、人間同士を同部屋にすれば、勝手に番になるとでも思ったのだろう。
上手いこと子を成してくれれば、ノーコストでペットの繁殖ができる。そんな望みを持ち続けて、三年間。今もまだ、彼らは「同性では子ができない」という、根本的なミスに気が付いていない。
――まあ、あいつらの企みも、第一段階まで完了しているといえば、そうなんだけど……
ちらりと目の前の顔を見下ろし、洋介は密やかに頬を染める。
初めて顔を突き合わせた、あの日。大手の飼い主から寵愛を受ける彼とは、大きく異なる『扱い方』に、驚いたのだろう。雪は顔を青ざめさせ、ボロボロな状態の洋介を抱き締めた。
肋骨が折れ、右手の関節も危うい。左頬は倍のサイズに腫れ上がり、それは酷いものだった。あまりの痛みに眠ることもできず、一人、孤独な夜を過ごす。そんな中、目前に天使のような彼が現れ、抱擁を与えてくれた。恋に落ちないわけがない。
色素の薄い瞳の色も、限りなく白い肌の色も。彼を形成する全てが美しい。庇護欲を駆り立てられる儚さだ。
ここまでくれば、その中身をさぞ純白なことだろう、と予想する。しかしそんな期待は大きく外れ、彼の口から吐き出される言葉の八割は、放送禁止用語だった。
今も熱い視線を送っていると、「チッ……なに見てんだ、気持ち悪ぃな」と、舌打ちを送ってくる。エグいほどの温度差であり、そこが逆に堪らない。
洋介は唾を吐き捨てる雪を抱き寄せ、後ろから身を重ねた。
「ずこうなら余裕だけど、こくごは自信ないなあ」
「お前さ、まだ『ち』と『さ』の区別つかないの?」
「カタカナも無理。それに常用漢字が二千字以上ってなに? そもそもAIあんのに、覚える必要ある?」
「……あるよ、お前がここで生き残りたいならな」
一段、声を低めて返された台詞。ピリッと走った緊張感は、お互いの心を締め付けた。
来週の日曜日から一年間、不定期でライブ配信のゲームが開始される。今までの学力テストとは全く異なる、対戦方式のものだ。飼い犬の私生活をダラダラと流すだけでは視聴率が稼げず、苦肉の策で出した企画なのだろう。
突発的な打開策が、凶と出るか吉と出るか。そんなもの、こちらからすればどうでもいい話。負ければ命を落とし、勝てばまたこの虫カゴへ戻されるだけ。なんの旨味もない状態で、士気を上げろという方が無理がある。
「お前さ、参加証に自分の心臓選ぶって、馬鹿だろ? 寝ぼけてたの?」
「いやだってさ、一番大事なものって言うから……」
「信じらんねぇ、せっかくの切り札なくしてどうすんだ」
「別にぃ〜負けなきゃいいんだろ〜」
手元のタブレットを弄り、参加者リストを洗う雪は、随分と不機嫌だ。少しの間とは言え、共に時間を過ごした仲間。不利な状況に置かれていることが、気に食わないのか。ぶつくさと文句を言い、胸元に頭部を預けてくる。
「……なあ、雪」
「なに?」
「お前は何にしたの? 参加証の『大切なもの』」
「フォロワーから貰った髪飾り」
「はあ? 味気ないなあ」
「他に候補がないんだから、仕方ないだろ」
「ん〜……そうだ、いいものやるから、こっちにしろよ」
「なにこれ?」
「指輪。この前、衣装棚の中で見つけたの。お前にやるよ」
気乗りしない手を引き寄せて、無理やり指輪を握らせる。やや押し付けがましいかとも思ったが、本人は満更でもなかったのだろう。手のひらの中で煌めくそれを見つめ、目を輝かせていた。
「……なんか内側に書いてある」
「読める?」
「……ない」
「なに?」
「読めないっつてんの……っ!」
刻印加工がなされているのか。凹凸の目立つ指輪の内側。短いメッセージの刻まれた箇所に指を当て、雪は頬を赤らめる。その様子からして、彼には意味がわかっているようにも、思えたが――。
あとでAIに聞いてみるかと、雪を抱え直し、洋介はグリグリッと頬を擦り当てる。
「負けるなよ、雪……俺、結構お前のこと、好きみたいだからさ」
「……なんだそれ、気色悪」
「塩だな〜。そう言えばお前、本当に飼い主のこと、豚野郎って呼んでるんだな」
「豚みたいな顔してんだからいいだろ」
「それで放送許可出てんの?」
「ピーで消されてるらしい」
「お前の音声、ピーッピーッばっかで、ほぼ出てないじゃん? 勿体ないなあ、可愛い声してんのに」
「いんだよ、お前が聞いてるんだから」
Sっ気のある想い人は、いつの間に、飴と鞭の使い分けを習得したのだろう。洋介は赤らむ顔に手を当てた後に、目の前のうなじへ勢いよく噛み付いた。
