慌ただしい日常に押され、毎晩、泥に沈み込むようにベッドへ傾れ込む。そうすると、夢を見ることなく眠ることができた。
耳鳴りがなるほどに甲高い声は聞こえず、理不尽な我儘に、耳を貸す必要もない。ただ時折、ふと思い出したかのように、高めの体温を求めることがあった。
灯籠の灯る待宵は特に、あの柔らかな手のひらの感触を名残惜しむ。まだ彼女を見つけ出せずにいる肌が、愛らしい小さな抱擁を求めていたのだろう。
「――おはよう、利央」
「……お前、よく寝るんだな」
「配信がなければ、もっと寝るよ」
ふわぁ〜っと、間延びした声を出した馨の表情は柔らかく、随分と艶やかだ。程よい癖っ毛が目元を色っぽく隠し、寝起き早々にイケメン度を見せ付けてくる。
医学会の推奨睡眠時間を、大きく上回る十二時間の惰眠を貪り、大満足なんだろう。通りでこんな馬鹿デカい身体になるわけだと愚痴を零し、利央はベッドへと歩み寄る。
その手元には薄型のタブレット端末。手持ち無沙汰に部屋を漁り、偶然見つけた物だった。現在地を探るには最適のアイテムだったが、さすがに他人の私物を、勝手に使用するわけにはいかない。仕方なく、持ち主の目が覚めるまで待ち、今に至る。
「これ、ロック解除して。地図アプリ使いたい」
「なんで?」
「帰り道検索するから。始発動いてなかったら、お前がタクシー代払えよ」
「中村さんに言えば? ちゃんと家まで送ってくれるから」
「AIの自動運転には不安しかない。公道走るのに許可取ってんの?」
「道路は使わないから大丈夫」
「えっ、空路!? 中村さんって、事業用操縦士の資格持ってんのか?」
ついにAIが、ジェット機を操縦する時代が来た。目覚ましい科学の発展に驚愕するも、乗用車以上に不安度は爆上がり。それに論点が大幅にズレてきていた。
そもそもの話、なぜ彼の寝室で目を覚ましたのか。誰が、何の目的で自分をここへ連れてきたのだろう。日本語が危うい男を問い詰めたところで、まともな回答が得られるとは思えない。
むむむっと頭を捻らせた利央の頭上に、大量の疑問符が浮上する。
――現実的に考えられるのは、こいつの事務所の企画に巻き込まれた説だな
華やかな世界に身を置く彼は、そこそこ顔が知れた現役モデル。いわゆるインフルエンサーというやつであり、ドッキリを仕掛けられても、おかしくはない。
それにしても、大して交流のなかった元同級生を、使う理由はどこにあったのか。大掛かりなセットまで用意して、最後の最後でまさかの人選ミス。プロジェクトマネージャーは今頃、剣山で尻叩きの刑だ。
思考を巡らせている間にも、自由奔放な男は服を乱し、際どい箇所へ舌を当てる。スリスリと柔らかな癖っ毛を擦り寄せて、甘えてくる姿は可愛らしいが、生憎こちらは、身も心も健康な普メン男子だ。乙女心や母性など持ち合わせておらず、煩わしさだけが湧き立った。
「……おい、なんだよさっきから。顔近すぎ、触んなって」
「早く目覚めちゃったし。暇だから交尾しようよ?」
「はあぁああっ!? 頭沸いてんのかッ!? ……ちょっ、待て待て待て! 服を脱がすな!」
「あはっ、顔真っ赤。可愛いなあ」
ジタバタと手足を動かし、利央は相手と距離を取る。本気ではないとわかっていても、面の良い男のどアップは心臓に悪い。どストレートの男ですらこれなのだ。異性であれば、即堕ち確実。
「はぁはぁっ……あービックリした。こんなのも台本にあんの? お前、身体張ってんな」
「なんの話?」
「なんのって……これなんかの企画だろ? まさかガチでこんなコンクリ牢獄に、軟禁されてるわけじゃないよな?」
「なんだか酷い言われようだなあ。俺の部屋だって言ってんのに――……」
――キーンコーンカーンコーン
高めの体温が再び肌に接触したところで、ライトが点灯する。場違いなチャイム音は、なんともスタルジックな音源で心を揺さぶった。絶妙な具合で音程が外れていようと、まあまあ許容範囲内。
――キーンコーンカーン…………
「…………」
「…………」
「………ラストの『コーン』はどうした?」
「モヤっとするなあ」
長年聴き続けた音のため、不燃焼感が拭えない。静けさの舞い戻った室内で、なんとも締まりのない空気が漂った。
横で欠伸する馨も、同じ見解なのだろう。やれやれと首を振り、ベッドの脇に置かれていた水を口に含む。
「今のなんだったの?」
「チャイムの音だよ」
「それはわかってるんだけど、なんで鳴ったのかって」
「今にわかるよ」
そう返すと、馨は立ち上がり、壁に収納されていた衣装棚を引き出す。合わせて服を脱ぎ捨て、露わになった身体は、雄々しい筋肉を携えていた。
適度な盛り上がりのある胸筋、そして引き締まった腰までのくびれ。磨き上げられた腹直筋が、無駄に色気を放出する。
しかし、目を引いたのはそちらではなく。前鋸筋から腹斜筋の下部まで、大きく覆うように刻まれた噛跡だった。
「お前、それ……」
利央は思わず口が出掛るも、途中で押し黙る。
擦り潰したような形からして、平らな臼歯を持つ動物によるもの。しかし、あれほどの大きさの口を持つ草食動物など、いただろうか。特殊メイクにしては生々しく、第一、必要性が見出せない。
気まずげに目を逸らせた利央を横目に、馨は皺一つない純白のシャツに袖を通す。すると再度スピーカーのスイッチが点灯し、騒がしげなノイズが流れ始めた。
――ゴガッ、ガガガ……キンコンカンコ――――ンッ!!!
「……そんなヤケクソみたいに鳴らす? 俺が悪いの?」
「気にしなくていいよ、たぶん恥ずかしがってるだけだから」
「ゲストに対しての教育がなってない。でも、こいつがGカップの美脚女性社員なら許してやる」
「性別どっちだったかなあ」
「ノンバイナリーってやつ? グローバルな職場なんだな」
「それよりそこの箱取ってくれる?」
「どれ?」
扱い辛い音響担当はさて置いておき、馨はチラリとベッド横へと視線を送る。同じように顔を向けると、床に立方体の箱が転がっていた。
一辺が四十センチ大の、白いキューブボックス。手に取ると前面がじわじわと透過し、中に収められていた物が明るみになる。
「……なにこれ? 指輪?」
この大きさの箱に対して、この小ささ。明らかに梱包ミスだが、いいのだろうか。
ふと脳裏を過ったものは、某サイトのオンラインショッピング。USBの変換アダプタを購入したはずが、特大サイズのダンボールが届いて驚いた。熱心に環境保護活動を謳っているわけでなくとも、あれは気が引ける。
訝しげに眉を跳ね上げた利央の肩に顎を乗せ、馨は後ろから抱き込む形で身を寄せた。
「参加証みたいなやつ。これないと参加できないんだ。最近視聴率も落ちてきてるし、今日はいい成績出さないとな」
「視聴率って……お前、Vチューバーでもやってんの?」
「そうそう、似たようなやつ」
外行き仕様になった男はふふっと鼻を鳴らし、軽やかに笑う。三百六十度、どの角度から撮っても美しい顔は艶っぽく、このまま女性雑誌のトップ面を飾れそうな華やかさだ。
勘違いさせる距離感も、甘えるような仕草も。狙ってキャラ作りをしているのならば、かなりの大物。一重に三白眼という、個性なパーツを兼ね揃えた身からすると、羨ましい限りだった。
利央はツンッと口を尖らし、再び視線を箱の中へと戻す。
シルバーで凹凸が目立つ不恰好な指輪。飾り気はなくとも、どこか惹き付けられるデザインだ。大きさ的に男性用に思えるが、彼の所有物なのだろうか――。
「利央、ちょっと下がって。そこ危ないから」
「え? ……あっ、……おっ!? おおぉおおッ!? すごいッ! ペッパーズゴーストだ!」
「なにそれ?」
「光と反射を使って。物を消したり出したりする技術。お前の事務所なかなかやるな!」
「そんな複雑な仕組みじゃないと思うけどなあ」
「あとでセット裏、見に行ってもいい?」
鼻息荒く身を乗り出す利央を抑え、馨は冷静にカメラの動きを追う。
コンクリートの床は白いタイルへと切り替わり、天井、壁、装飾品の全てが真っ白に染まった。続いて正面に現れたスクリーンには、紙と鉛筆のアイコンが表示され、時計のカウントダウンが始まる。
「今日は学力テストか」
「懐かしい響きだな、それ」
床からニョキニョキと伸びてきたテーブルに近寄ると、馨は一枚の紙を拾い上げる。遅れて歩み寄ってきた利央も横へと並び、その手元を覗き込んだ。
「なんだこれ? プリンターの設定ミス? 文字化けしてんじゃん」
「いつもこんなもんだよ」
「いやいや漢字が全部怪しいって。たぶん半分ぐらい中国語と混ざってない?」
「そう? 違いわかんないなあ」
「里見って帰国子女だっけ?」
「あはっ、どう見たって男だろw」
「……ど定番な返しをありがとう」
「この肉体美を前にして、女に見えるとでも言うのか?」と、あからさまな愚弄を向けられるも。気分的には、そっくりそのまま投げ返したいところ。
彼の生い立ちを知るわけではないが、言葉の危うさからして、日本生まれは考え難い。かと言って、他言語を話している姿を見たことがなく、その出生は謎のままだ。
利央は横目で馨をチラ見し、暫し時間を置いてから二枚目の紙を拾い上げた。
「これがテストの説明文? 海外の激安商品についてる説明書みたいだ」
「翻訳ソフトの調子悪かったのかな」
「お前さ、入る事務所選べなかったの?」
「まあ、言いたいことはわかるよ」
先ほど見せた演出が見事だった分、期待値の落差は大きい。小道具担当といい、音響スタッフの情緒不安定さといい、どこから指摘すればいいのだろう。本人は慣れたと言っているが、こんなグッダグダな企画が、よく通ったものだ。
時間差で伸びてきた椅子に腰掛け、利央は気怠げに顎を付く。本来であれば、先ほどのテーブルが出現した際に、出す予定だったスツール。忘れていたことに気が付き、慌てて出したのか。センサーがうまく働かず、妙に低い位置で静止した。お陰で座高が合わず、まるでネットミームで話題になった「伸びる猫」状態。
「それにしても、読解問題で官能小説は攻めてるな」
「今日から新シリーズらしいよ」
「うわっ……こっちも誤字が酷い」
「どこ?」
「ここ」
――身動きがとれない満員電車の中、郁子のデリケートゾーソに、政義の大根が押し当てられ……
「大根……?」
「本来は『大』じゃなくて、『男』のはず。誤字のせいで、だいぶ際どいプレイになったな」
「……デリケートゾー『ソ』?」
「たぶん『ン』と『ソ』の違いがわかってないんだよ」
「こっちも『政義さんのお損保』になってる」
「入力間違えた上に、変換もかけたのか」
果して政義のモノが、損害保険かけるほどの大物であるのか。疑問は残るが、確かに読解力が求められる問題ではある。
馨はペンを拾い上げると、手元で一度だけくるりと回し、回答し始めた。
空調の音はなく、外からの音も聞こえない。緩やかに鼓膜を擽るのは、ペン先の摩擦音と二人分の呼吸だけ。不意に訪れた沈黙に、不思議と気まずさは感じず。利央はただ静かに、目の前で記されていく文字の羅列を追った。
サラサラと記入されていく文字は達筆で、女の艶髪のように美しい。電子機器が発達し、物を書く機会が失われていく中。彼は話すことよりも、書く方が得意なのか。また一つ意外な面を知ってしまい、利央は胸の奥でむず痒さを覚えた。
「……これで終わり? 余裕じゃん、制限時間まだ四十分も残ってるし。こんなんで視聴率取れんの?」
「これはただの舞台裏だよ。フォロワーへの特典映像みたいなもんだから。本命は来週」
「へえ、色々とあるんだなあ」
ペンを置くと同時にスクリーンの画面が切り替わり、ゴングの音が高々と鳴り響く。
これはどう考えても、「開始前」に使用すべき音源だ。とことん使えない音響スタッフは、これで本日の業務を終えたのだろう。小気味いい音で屁をこき、身支度を整え始めた。因みにマイクは入ったままだ。
こんな仕事でいくらの稼ぎがあるのか。部外者である自分が、口を出すべきではないとわかっていても、不満は拭えない。
「もう一回だけ言うけどさ、お前、事務所選べなかったの?」
「これでもいい方なんだよ。スポンサーは課金してくれるし、現場の人も頑張ってくれてる」
「ペッパーズゴーストの演出で、力出し切っちゃった感じかあ」
疑念は残るが、本人が納得しているのならば仕方がない。所詮は他人事だと腰を上げると、前触れもなく椅子が収納され始めた。
目の前ではスクリーンがエンドロールを流し始め、ライトまで消灯する。間もなくして流されたBGMは、激しめシャウトのハードメタル。この連携力のなさは間違いなく外資系だ。
なんだかなあと首を傾げると、ちょうど、こちらを見下ろしていた瞳と視線が重なった。
「……なに?」
「うなじのとこ噛んでもいい?」
「ダメに決まってんだろ……それよりさ、俺はいつ帰れんの? 明日は朝から講義入ってんだけど」
「帰りたいの?」
「はあ? 当たり前だろ」
利央は不満げに声を上げるも、視界が悪いため、相手の表情が読み取れない。感じ取れるのは、自分より少し高めの体温、そして、彼が少しばかり寂しげな声を出していた、ということだけだった。
「チューターは週末だけの契約だから、零時になったら自動で送られるはずだよ」
「チューター?」
「そう、俺に日本語教えるアルバイト」
会話の合間にも、すりっと鼻先を擦り当て、触れるだけのキスを施す。馨はそのまま強請るように利央の腰を抱き寄せ、「帰らないで欲しい」と手を絡ませてきた。
なんとも見事な誘惑スキルだ。不覚にも顔が赤らみ、思考が停止する。同年代であるというのに、この色気の差はなんなのか。天性のものとしか、言い表しようがない。
「利央……ベッド行こうよ」
抵抗がなければ肯定と取る。それが男というものだ。馨がお構いなしにシャツの中へと手を滑らせる最中、利央は「はっ」と意識を引き戻し、目前の薄い唇に手を押し当てた。
「……ちょちょちょちょっと待て、待て待てっ! お前、さっきなんて言った? チューター? 誰が、誰の?」
「利央が、俺の。うちの人事からDMきてただろ?」
「DM? それって、もしかして……」
「来週も宜しく、俺の家庭教師さん」
「は?」
――ジャ――――ンッ! ダダダダーンッ! ダダダッダーンダーン!♩ ダダダダーンダンッ!♩
「おいコラァああッ! そのBGMはアウトだ、ろおおぉ――……おッ!? んぶぅうふッッッ!!!」
ダイナミックな導入と共に始まった、宇宙映画ではお馴染みのテーマ曲。夢の国ではど定番のアトラクションでも、揺れが激しいため、厳格な身長制限が敷かれていた。
嫌な前兆を感じ取ったのも束の間。利央の視界はグニャリと曲がり、ずっぷんっと身体が大きな渦の中へと飲み込まれる。上下左右、手加減なく脳を引っ掻き回す超光速航法。三半規管が悲鳴を上げ、込み上げてきた嘔吐感は喉を焼いた。
「――うぷっ、……ぐっ、ぐえええぇえッ」
目を開くと、嘔吐まみれの身体は、激安1K物件の自宅に放置されていた。狭い玄関の中心で、大きく足を上に押し上げた、恥ずかしい固めの体勢。人権もクソもない所業であり、人を愚弄するにも程がある。
福利厚生が最悪のアルバイトは、今からでも辞退は可能なのだろうか。是非とも次回からは送迎ではなく、交通費の支給を希望したいと口を拭い、利央は力無く立ち上がった。
