異世界の化け物に飼われてる男 〜だって、君が愛と呼んだから〜



 重々しい鈍雲が、いよいよ疎雨を降らせ始めた昼過ぎ。利央は学食の片隅で頬杖を付き、足早に雨を避けるように駆ける人々を見下ろしていた。

 我ながら、大変恥ずかしい姿を晒したことは自負している。結果的に勝利を得たのであれば、よしとすべきなのであろうが、派手な演出は対価が伴うものだ。

 今回の件でいえば、例のキス以降、薫の顔が直視できなくなってしまった。目が合わせられない、軽い接触でも飛び上がってしまう。過剰反応だとはわかっていても、意思に反して動くのだから仕方ない。

 原因として挙げられるものは、やはり吊り橋効果だろう。生きるか死ぬかの瀬戸際で、一気に暴発したドーパミンのせいだ。焦りと混乱、そして少しばかりの興奮が織り混ざり、盛大な勘違いを引き起こした。そうでなければ元同級生、しかも同性である男に恋愛感情など抱くものか。

 この高揚感も、胸の高鳴りも、全ては脳が見せた錯覚。けして恋などではない。そう強く言い聞かせたとして、顔の紅潮は酷くなる一方だった。

――『俺の大切なものが、別のものに置き換わったんだ』
――『はあ!? なんだそれ!? 新しいのはどこにあんの?』
――『ここにある』

 あれほどはっきりと口にされ、正気でいろと言う方が無理がある。近い位置で感じた吐息も、直接触れた高めの体温も。彼の「参加証」として扱われることの心地よさを、この身体は覚え始めていた。

 億劫に感じていた週末の訪問を待ち侘びるようになり、会えない日も、こうして彼のことを考え続けている――。

「――なんか顔赤くしたり、青くしたり。忙しそうだな、利央?」
「……洋介か」

 ガタガタッと横で音が立ち、目を向ければ、派手に水を滴らせた友人の姿が目に入った。傘を持たずに家を出たのは、彼も同じなのか。濡れたジャケットを椅子の背に並べ、ついでに持っていた缶コーヒーを投げて寄越す。

 利央は温かさの残るそれを口にしながら、緩やかに視線を落とした。

「……なんか、だめだ。頭破裂しそう」
「ああ、例の不当な扱い受けてる子の話? お前はどうしたいの?」
「別にどうもしないけどさ……」
「好きなんだろ、馨のこと?」
「ブふ――――ッッ! ……な、なに!? なんで!?」
「いやあ、あんだけ激しいキスシーン見せられると、色々考えちゃうよなあ」
「――は?」

 吹きこぼしたコーヒーを慌てて拭うと、彫りの深い目元が歪み、その内の喜悦を僅かに晒す。

「雪は元気?」
「な、に……? なんで知ってんの?」
「なんでって、見てたから? 初回の桜の花の演出、よかっただろ〜? あれ俺が手掛けたんだ」
「は? お、おまっ……まさか、あいつらのとこで働いてんのか!?」
「ただのパート社員だよ」
「パートぉおおっ!?」
「ちなみにお前にDM送ったのも俺」
「はあ? だって『こう』って……」
「よく間違われるんだけど、俺の苗字、香西(かさい)じゃなくて香西(こうさい)だから」
「う、嘘だろ……っ!」

 情報量の多さに、読み込みが間に合わない。利央はぐるぐると、瞳の中で渦を巻かせながら、頭を抱え込んだ。

 DMが届いたのは春休み。言われてみれば、あれはいつも使っているチャットアプリがダウンし、他の媒体で連絡を取り合っている時期であった。放置していたSNSアカウントの方に、なぜ連絡が?と思っていたが、そういうことだったのか。

「去年の冬ごろから働き始めて、やっと試用期間終わったところ。人事は俺の仕事じゃないんだけど、いい人いないかって、声掛けられたからさ」
「試用期間長くない?」
「いや、国外だと六ヶ月が基本だよ。日本企業の三ヶ月は短すぎるぐらいだって」

 突然の爆弾発言に驚いたはずが、それを上回る試用期間の長さに気圧される。企業とのミスマッチを避けるための対策なのか。なんにしても、あの社風に、あの従業員たち。相当なストレスと味わってきたであろうことは確実。

 利央はざっと辺りを見渡すと、椅子を引いて洋介の耳元へと口を寄せた。

「どこ経由で応募したの?」
「俺の元飼い主様」
「え? なに? お前、客に豚野郎って呼ばれるお仕事してたのか?」
「あははっ! 違うって」

 いつかの報復を行えば、笑いの沸点の低い男が、大口を開けて笑い転げる。自炊のギャグでここまで笑えるのならば本望だろう。冷めた表情で、「そろそろ行くか」と腰を上げると、すかさず待ったの手が掛けられた。

「待ってよ、話終わってないだろ?」
「話す気あんの?」
「あるある」
「……じゃあどうぞ」
「俺の元飼い主、かなりズボラな人でさ。俺が大して金を産まないってわかったら、早々に手放したんだ。ペットの不法投棄は違法なんだけど、小金持ちはそんなこと気にしないからな」
「え? お前もあそこで育ったのか?」
「そうだよ、十三の時にこっちの世界に放流された」

 手に持っていた缶を置くと、洋介はポケットからスマホを取り出す。器用に画面をスワイプし、見せられた画像はお馴染みの受精卵。二回目だったため、ツッコミはしなかったが、これは、あちらの世界では恒例行事なのか。

 「可愛いね」とだけ添えて、利央はスマホを押し返した。

「お前さ……その元飼い主のこと、どう思ってんの?」
「好きだけど?」
「で、でも……そこで馨と同じようなこと、させられてたんだろ? 自由のきかない部屋に閉じ込められてさ……」
「そうだよ。だからもう会わない。会ったら、離れたくなくなる……そうなるように、俺たちは作られてるから」

 すぅっと細められた目元が、寂寥感を滲ませる。過去の思い出を噛み締めるように閉じられた瞳には、いつの景色が映っていたのだろう。涙は出なくとも、彼の胸に押し沈められた思慕は、痛いほどに表情に現れていた。

「あんなクソみたいな場所だったのに、ふとした時に思い出すのは、やっぱりあの部屋なんだよな」
「……帰りたいってこと?」
「まさか、そこまで馬鹿じゃない」
「じゃあ、なんでまだ関わってんだよ?」
「置いてきちゃったものがあるから」
「なにそれ?」
「俺の白い箱」

 再び押し開かれた瞳の奥で、猫のように瞳孔が細く絞られる。愛を憂いた姿とは大きく異なる、渇欲の色。それは腹の奥底で燻り、ただ声を沈めて噛み付く機会を待ち侘びていた。