「――……って、待って待って待って、中村さんっ! 急ブレーキはヤバいっ! 空走距離考えてっ! ……ぐふぅううッッッ!!!!」
「おかえり、利央」
「馨っ!? ……なんで? 配信もう終わったのか?」
体操選手のような三回転を披露し、背から壁に叩き付けられる。ピヨピヨっとヒヨコが目の前を飛び交う中。腕を引き上げた馨は、半ば引き摺るような形で、利央を立ち上がらせた。
「まだだから立って、すぐに出るよ」
「え? まだって、じゃあゲームは――?」
足を縺れさせながら通路を走り、大きく開けたスタジオへと踏み入れる。なにをそう焦っているのかと疑問に思うも、飛び込んできた光景を前に、全てを理解した。
「……な、なに!? なんで!? もう始まってんじゃん! どうなってんの?」
「参加証がなかったから、入れなかったんだ」
「え? 指輪なくしたのか!?」
「あれはもう参加証じゃない。俺の大切なものが、別のものに置き換わったんだ」
「はあ!? なんだそれ!? 新しいのはどこにあんだよ?」
「ここにある」
そう力強く答えると、馨は利央の身体を持ち上げ、白い台の上へと座らせる。本来であれば、参加証の入った白い箱を置くべき場所であるが、今回はややサイズオーバーなのだろう。利央の体重が加わると、途端に形状が変化し、白い背凭れのある椅子へと移り変わった。
「――中村さん、ざっとでいいから。今回の内容教えて」
『本日は『すうがくのじかん』になります。表示された問題を制限時間に解き、正解数の分だけポイントが加算されます』
「わかった、ありがとう」
くるんっと手元でペンを回した馨は前髪を掻き上げ、上空に表示されたスクリーンを凝視する。左から右にかけて、複数の記号が入り混じった数式が三十問。その全てが大学入試レベルの計算問題であり、制限時間は五分を切っていた。
「……ご、五分っ!? たった五分でこれ解けって!? 無謀だろ!?」
「大丈夫、少し集中すればいける」
「いや、だって……これ一問に十秒もかけられない」
「ごめん、少し静かにしてて」
低く吐かれた声色に、その緊張感が伝わってくる。普段の彼からは想像のできない気迫、そして集中力。ざあっとスクリーン全体に目を走らせてから、第一問へと舞い戻る。利央は同じように視線を上空へと定め、ごくりっと生唾を飲み込んだ。
気難しげな数式は、どこぞの過去問を丸コピしたのであろう。見切れている部分に大学名が写り込んでいる、せっかくのモザイク処理はページ番号に掛かり、全く意味をなしていない。「ライブ放送でこれはまずいじゃないか……?」と、冷や汗が浮かぶも、今はそんなことより制限時間だ。
刻々と減少していく時間。定期的に響くペンの音。細やかな計算式を書く時間すら惜しいのだろう。馨は目を大きく見開き、全てを暗算で解いているようだった。
「……か、馨っ! 鼻血が……っ!」
「大丈夫、あと少し」
黒く大きな瞳孔の奥を滑り抜けていく数字。ビ――ッと、いうアラーム音と共にペンを置き、スタジオ全体の照度が下げられる。
「ふーっ……久々に焦った」
「手応えは?」
「どうかな~対戦者のスペックにもよる」
盛大に息を吐き出し馨は、文字通り全勢力を出し切ったのか。顎まで垂れた鼻血を拭うと、いつもの笑顔を浮かべる間もなく、デスクへ突っ伏した。
「きっかり五分間。配信遅れてなかったら、アウトだったな」
「またトラブルあったの?」
「現場の人がストライキしてたらしいよ。ロケ弁のおかずが一品足りないって」
「配信直前でやるほどのことか、それ」
生配信が迫ってる中での交渉。有効的といえばそうだが、リスクを負ってまで、訴えるほどのことだろうか。彼らの要望が通ったにせよ、棄却されたにせよ、災い転じて福となす。お陰でこちらは首の皮一枚繋がった。
ポポポンッポロロンッと、愛らしい音で集計ゲージにポイントが加算されていく。横を見れば、同じように疲弊した対戦相手が汗を拭い、眩しげに輝く巨大スクリーンを見上げていた。
視覚的には五分五分、もしくは、やや劣勢。あの短時間で、ここまでの結果を出せたことが奇跡なのだ。これ以上、なにを望むことができるだろう。
――『……でも馬鹿だからダメかっていうと、そうでもなくて。愛嬌があるだけで、順位が上がる奴もいる。フォロワーが増えたり、投げ銭が入れば、それだけでも数字が加算されるからね』
いつの日か、馨が教えてくれた、ここの世界の仕組みが脳裏を過ぎる。
――『あははっ、怒る前にあっちのスクリーン見て。投げ銭の量がヤバいから』
一時の恥を取るか、一生続く後悔を取るか……そんなものは愚問だ。
「はぁああッ……クソッ! ここで負けたら夢見悪いからな、協力してやる!」
「えっ? どうした、の――……?」
盛大な舌打ちと共に悪態を吐き捨てると、利央は薫の膝の上に乗り上げた。
シャツを脱ぎ捨て、露わになった上半身は健康的な肌色。ふっくらと盛り上がった胸筋から、滑らかな腰のラインまでが艶めかしい。前鋸筋、腹斜筋、そして腹直筋に至るまで申し分のない、見事な引き締まり具合だった。
――♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ッ!?!?
――♡♡♡♡♡♡♡♡ッ!?!?!?
予想した通り、桁違いの量の投げ銭がスクリーンを埋める。悪ノリした音響担当に、即興でバラードのBGMが当てられたのは、余計な仕事だ。羞恥心はピークに達するも、ここで引き下がるわけにはいかない。
利央はカメラに視線を定めたまま、薫の口元へ擦り寄り、軽く触れるだけのキスを与える。
「……なんか、TLすごいことになってる」
「舌出せよ、馨」
「いいの? あとでオンデマンドの方にも上がっちゃうけど?」
「……いいから、黙ってろ」
改めて念押しされずとも、そんなことは百も承知。戸惑う唇を舌先で誘い、甘ったるい口付けを施した。
――♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ッ!!!!
――♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ッ!!
――♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ッ!!!!
どピンク色に染まった背景の中で、スタジオの温度は急上昇。所々でハートの絵文字が入り乱れる。垂れ下がってきたマイクで、切なげな吐息が拾えればなおのこと。ポイントゲージは一気に限界値を超過し、祝いのファンファーレが鳴り響いた。
「……ぷはぁっ! よし……これで遅刻分はチャラな!」
「利央」
「なに?」
「いい身体してるね」
「あはっ! アクスタ作りたかったら別料金って、運営に言っとけよ」
ぷはっと口を離すと、眼下で上気した顔は緩く微笑む。記録的な圧勝が喜ばしかったのか、それとも予想外の口付けに興奮しているのか。
追加を強請る手を払い落とし、利央は不適な笑みを浮かべては、熱い視線を送るカメラへ舌を出した。
