鼓膜を痛めつける雨音が弱まり、冷えた指先の体温が戻ってくる。軽く指を動かすと近くで反応を感じ、利央は飛び跳ねながら優吾の手を引き寄せた。
「起きた、利央?」
「優吾……か?」
「そうだよ、気分はどう?」
「大丈夫……悪かったな、服汚して」
「それはいいから、まだ横になってな」
人気のない通路の踊り場。長椅子の上で頭を振り、何度か瞬きを繰り返す。脈拍は正常値に戻り、目眩もしない。瞳はまだ焦点を定められずにいるが、不穏な幻覚を映すこともなく、ほっと胸を撫で下ろした。
「……発作、最近出なくなってたから、油断してた」
「あははっ、確かに驚いたけど、場所が病院でよかったよ」
「ゲロ処理のプロフェッショナルだからなあ」
「感染症を疑って完全防御してきた看護師さん、目がガチだった」
高齢者ばかり集まる入院病棟のロビーで生物災害(バイオハザード)など、医療従事者からしたら、堪ったものではない。感染は濃厚なアルコール消毒と、清掃の素早さがその後の命運を決める。
汚れた衣類は取り替えられ、口の中もすっきりと爽快。意識が飛び掛けている合間に、着替えと口内洗浄までしてくれたのだろう。余計な手間を増やして、申し訳ないと心中で謝罪し、利央は後ろの壁へと凭れかかった。
「陽葵ちゃんのこと……まだ夢に見るんだ?」
「前ほどじゃないよ」
手渡された水を口に含み、ごっくんと大きく喉を上下させる。
妹が消息を絶った翌日、警察のみならず、多くの地元民が、探索活動に名乗り上げてくれた。近辺の店への聞き込みや、防犯カメラの映像の提出など。参道から外れた山道や神社の方まで足を広げ、探索員は三百人ほどに上った。
降り続く大雨の中、体調を案じた一日目。犯罪の可能性に怯えた二日目。一週間も経てば、生存率は急激に下がり、誰もが希望を捨て始めた。操作は一ヶ月ほどで打ち切られ、見つかったものは彼女の下駄だけ。
誰も、過失を責めなかった。幼い妹を一人残し、暗い山の中に置き去りにしたことを、誰一人として咎めることはなかった。それどころか、「辛い思いをしたな」と、辛苦を労う声掛けをされたこともある。
誰も、非難してくれなかったからだろうか。自己嫌悪と自己叱責に縛り付けられ、息をすることもできなくなった。
「もう嫌だ……何回も何千回も、同じ夢を見て。ああすればよかった、こうすればよかったって考えんの……」
大人しく母の帰りを待っていれば。
妹がグズった時点で帰っていれば。
あの時、縋り付くように伸ばされた手を、振り払っていなければ――。
何度も何度も、起こり得なかった「もしも」を考えては後悔し、絶望する。生産性のない不毛な行為だ。泣こうが叫ぼうが、もう妹は帰ってこない。たった一人、暗闇の中に残されて。今もどこかで、愚鈍な兄が迎えが来るのを待っているのだろう。
パタタッと顎を伝い落ちた涙が、強かに手の甲を叩く。それを拭う気力もなく、利央はぼーっとした表情で、薄暗い窓の向こうを見つめた。
「一回……たったの一回だよ。あの時、手離しただけで……もう陽葵は帰って来ない」
「運が悪かったんだ、前日の大雨で水嵩も増してたし」
「違う、俺のせいだ。俺が……あの時、手を離さなければ……置いてかなかったら――」
脳裏に浮かんだ簪が、シャンッと鈴の音を響かせて、大きく揺れる。視線を落とせば、再び白い手が袖を引き、何かを指示するように小指を上げて見せた。
「――……今何時だ?」
「え? たぶん六時ぐらいだと思うけど?」
「六時!? ヤッッッッバいっ!!! ゲームだ!!!!」
「ゲーム?」
「中村さん! 中村さん、聞いてる!? 早く送って! もう始まってるから!」
「利央、誰と離してるの?」
慌ただしく立ち上がり、利央は優吾の手からジャケットを奪い取る。
ブワァアアンッと、なんだかそれっぽい効果音と共に現れた黒い渦は、遠心力が最高値。過去最速の回転数で、送り届けてくれるつもりなのか。搭乗後の嘔吐は確定であり、頼もしい限りだ。
常備していた酔い止めを、多めに口に放り込むと、利央は勢いよく穴へと飛び込んだ。
