――あれは、夏の終わりの出来事だ。
日が奥の山へと沈み込み、鮮やかな夕焼け空を映し出す。眩い色合いの余光が差し込む中、ふわりと香った風は、微かに雨の匂いを含んでいた。連続続いた大雨の名残か。それともまだ泣き足らずに、雨雲を呼び寄せているのか。
利央は履き古したサンダルに足を入れ、祭囃子の聞こえ始めた方向へ、耳を澄ませる。
「……りいくん、草履はやめとき。まだ足場悪いで」
「山の中は入らないから大丈夫」
「あかんて。参道の石段だって、滑るかもしれんやろ? 靴にしとき」
横開きの戸へ手を掛けたところで声を掛けられ、ずりずりと身を引き摺られる。地域の夏祭りに行くだけだというのに、いくらなんでも過保護すぎだろう。不満げに口を尖らせるも、相手の意思は硬い。
農作業で鍛えられた、強靭な肉体を持つ大叔母に対し、都会育ちのヒョロっ子小学生など虫ケラ同然だ。勝ち目などあるわけもなく、利央は渋々と靴を履き替えた。
「玲香さんとは、あっちで合流するん? 待ち合わせ場所は覚えとるんね?」
「も〜さっき何回も確認しただろ〜」
「りいくん、まだここら辺の土地勘ないやろ? 叔母ちゃん心配なんよ」
「もう行かないと餅投げ始まる〜」
「はいはい、じゃあ気を付けて行ってくるんよ」
「陽も行く!」
やっとのことで許しが下り、出掛けられるかと思いきや、またもや待ったの声が掛けられる。
スパンッと勢いよく障子を開いた利央の妹、陽葵は、柔らかな頬を張らせて仁王立ち。臙脂色の浴衣に黄金色の帯、そして細やかな装飾の施された簪と。御下がりの浴衣を着付けてもらい、可愛らしげな姿とは裏腹に、その表情は多大な不満を携えていた。
「陽葵ちゃんは後でな」
「なんで陽が行ったらだめなの?」
「一人と遠くまで歩けんやろ? 玲香さん帰って来てから、叔母ちゃんと一緒に行こ?」
「やだ、陽葵もりいくんと行く」
床へ寝転び、足をバタ付かせ、音声の腹から響くほどの大音量が、古民家の柱を震わせる。
全身で抗議できるのは幼児の特権であり、視覚効果も抜群。しかし、ここで素直に言うことを聞くわけにはいかない。なぜなら「泣けば望むものが手に入る」、と学習してしまうからだ。
利央は陽葵の手を取り、しっかりと目を見据えて口を開く。
「陽、母さんが帰ってくるまで待ってろ。テレビ見てていいから」
「やだ」
「やだって言っても、連れてかないよ。俺、お前のことおぶるの嫌だし」
「やだああぁあっ!」
再び鼓膜を叩いた大きな金切り声。これには大叔母もお手上げだったのか、溜め息を吐いて額を抑える。
頼みの綱の母は不在。予定の帰宅時間まで、まだ一時間以上もあった。父の三回忌で短期滞在をさせてもらっている身の上。このまま放置することもできず。利央は煩わしげに後頭部を掻きながら、紅葉のように小さな手を引いた。
「……お前さ、そんなんで歩けんの? 俺、おぶらないって言ったからな」
「歩けるよ〜」
カランッコロンッと、軽快な音を鳴らして足を送る。所々でモタつく様子からして、サイズが合っていないのだろう。出だしは好調であったものの、中間地点に差し掛かるに連れて、一気に勢いが削がれた。
「りいくん……足痛い」
「ほらあ〜俺、言ったじゃん! 叔母さんも意味わかんない。なんで俺のサンダルは駄目で、お前の下駄はいいんだよ」
「……陽、もう歩けない」
「はあぁああ〜っ、も〜っ!」
案の定、服の裾をツンツンっと突かれ、上目遣いでおんぶを求められた。ここから引き返すか、このまま進むか。引き返せば当然、お目当ての餅投げは逃すことになる。
餅投げは本来、祭りの種番に行われるものであったが、近年は子供が参加できるようにと、早い時間に行われるようになっていた。白い包み紙の中には餅の他にも、景品と引き換えできるクジが包装してあり、時には現金が含まれることもある。ある意味一大イベントと言って過言ではないそれを、みすみす逃すわけにはいかない。
利央は仕方なく膝を突き、背を陽葵の方へと差し出す。ふわりっと背負った身体は小さく、友人の優吾を担ぐ時とは大違い。それでも骨密度は大きいのか、なかなか腰にくる重さだった。
「……もう着いたから降ろすよ。後は自分で歩いて」
「……陽、歩けないもん」
「はあ!? 俺にずっと背負って歩けって言うの!?」
足場の悪い砂利道を歩き、大きな橋を二つほど渡った先。長々と続く石段を登り終えたところで下ろすも、本人としてはまだ不服のようだ。
チラリと見下ろした足は赤く、前坪が当たる部分からは血が滲んでいる。とてもではないが歩ける状態ではなく、利央は頭を抱えた。
「……ちょっと待ってて、下でサンダル買ってくるから」
「……陽も行く」
「無理だろ。お前背負って、あの石段下れない」
「やだ……りいくん、置いてかないで」
駄々を捏ねる陽葵を持ち上げ、少しばかり人の捌けた場所に座らせる。踵を返せばすぐさま手首を掴まれて、行く手を阻まれた。
普段であっても、ろくに自分で歩きはしないのに。慣れない下駄を履けば、こうなることはわかっていたはずだ。
大人しく母の帰りを待ってから来ればよかったものを、一時の感情とわがままで、人を振り回す。子どもであれば、そんなものは日常茶飯事であると、理解していても。同じ子どもである自分が、我慢を強いられる不条理さが受け入れられない。
帰りの遅い母を助けるため、放課後は家事と子守りをしていた。同級生が傍迷惑な笑い声で外を駆ける傍ら、自分は毎日、やりたくもないお飯事に付き合わされている。
愛情がないわけではない。自分だけに向けてられる笑顔に癒され、守ってあげたいと言う庇護欲もある。ただその時は少しだけ、疲れていたのだろう。
意図的に縋り付く手を振り払うと、利央は声を掛けることもなく、その場を離れた。
「――すみません、サンダルあります?」
「そこにあるやろ?」
「靴擦れしちゃってて、指の股に当たらないやつがいいんです」
「あ〜あったかなぁ? ちょっと待ちぃ、後ろの方見てくるわぁ」
来た道を戻り、橋を渡ってすぐの商店街。店終いをする店主に無理を言い、小さい花柄のサンダルを購入する。
外へ出ると、あれほど和やかであった夕日は雲に隠れ、霧雨が降り始めていた。傘を持たせてくれたのは店主の好意だ。利央は雨足の強まる中を走り、再び石段の上へと戻ってくる。
「――陽?」
ザーッザーッっと、激しく雨が地面を叩き付ける下。慌ただしく走り回る者たちの中に、妹の姿は見当たらない。裏の雑木林へ視線を送るも、暗闇の中では目視できるものが限られていた。
「……すみません、小さな女の子見ませんでした? 臙脂色の浴衣に黄金色の帯の……」
「ごめん。わからない……みんな似たような浴衣着てるし」
屋台の中でタバコを吹かせた男へ声を掛け、同様に向かい側の店主にも伺いを立てる。誰もが首を横に振り、「先に帰ったんじゃないか?」と、無責任な声掛けを送ってきた。
「……陽、どこにいんの? かくれんぼしてる場合じゃないって。雨……降ってんだぞ?」
再び別れた場所へと戻り、消え入りそうな声でそれを呟く。
雨が傘を叩き付ける毎に、焦燥感が蔓延って来た。緩い雨水に当てられ、冷えた指先はもうこの先の絶望を、感じ取っていたのかもしれない。
「……陽、どこにいるんだよ……っ、陽葵……っ」
――それが、夏の終わり話。
あの日なくした簪は、今もまだ見つかってはいない。
