エレベーターが上った先は、工場のような場所だった。
葡萄の甘い香りが充満し、匂いだけで酔いそうなほど芳醇だった。
「近くにはいない。行くぞ。」
「ん。」
「行くぞ」、と言われても、奏七多は晴柊の背中の上なので、あまり関係はないのだが、奏七多は、家族の墓との対面の瞬間が近づいていることに緊張していた。
作業所の大きな出入り口はシャッターが開かれたままになっていた。
主に大きな二つの部屋に区切られ、片方の部屋は葡萄を潰したり混ぜたりするような機械が設置されている。
もう片方の部屋は、清志朗の家の地下でみた牢に似ていた。
殺風景で、刺々しい。
壁には茶色く変色した血の跡が何重にも飛び散り、鉄臭い気がした。
折れたバッドや、黒ずんだ刃物。ハンマー、ペンチ。
「……晴柊、早く行こう。」
「そうだな……。」
この部屋で犠牲になった人間の悲鳴が、まだ響いているような気さえした。
作業所の横には、農工具やワインの瓶なんかも散らかっている。
それを横目で見ながら作業所を出る。
葡萄畑はすぐに見つかった。
「すごい、本当に葡萄畑だ……。」
鬱蒼と木々が茂る中、そこだけは背の低い木々が等間隔に並んでいた。地面は雑草はなく肌色の土が見えており、整然としていた。
「これがワインの原料……。あ、今の時期は葉は付いてないんだな。……ん?」
晴柊は葡萄の枝の先に雫が溜まるのを見た。
その雫は、人の悲しみの涙のように、ぽとり、ぽとりと静かに落ちる。
「……本当に、この下に人が……。」
「晴柊。おろしてくれる?」
奏七多の静かな要望に、晴柊はそっと奏七多を下ろした。
奏七多は痛む足を庇いながら、葡萄畑の地面を撫でた。
冷たい。
───にぃちゃん。にぃちゃん。
「晴、風っ、晴風……っ。」
土下座するように、固く冷たい土に頭をつけた。
ここにいるのか?ここに、俺の弟は。
「晴風……。」
奏七多は視界の端に、鈍く光る銀色のものを見つけた。
木の根に押し上げられるように見えている、銀の破片。
「あっ……。」
「奏七多っ!」
晴柊の抑止も聞かずに、奏七多は足を引き摺りながらそれに近づく。
倒れ込むような格好で銀のものの横に寝転ぶと、震える手で周りの土をどかした。
「奏七多、それ……。」
「……07、07……。う、うう、ああああ!!」
「奏七多っ。」
泣き崩れる奏七多を、晴柊が支える。
奏七多の手にあるのは、銀色の心臓。
ペースメーカーだ。
嗚咽を繰り返し、しゃくり上げ、顔を真っ赤にして泣いた。
晴風は、こんな、こんなところに……!
子供のように泣き続けて、奏七多はその場に倒れ込んだ。
ここから見える世界は、平らな土と、鬱蒼と茂遠くの木々だけ。ひどくつまらない世界。
「ごめん、お父さん、お母さん。ごめん、晴風。ごめん。ごめん……。」
奏七多は地面に頭を打ちつける。
何度も、何度も。
「クソっ、クソッ、くそッ!!」
その度に、奏七多の目からは涙がぼろぼろとこぼれた。
「絶対殺してやる!この村の奴ら!全員!!絶対に!!」
晴柊が奏七多を強く抱きしめた。
「…奏七多、今は一度抑えてくれ。見つかったら不利だ。俺たちも村人に捕まってしまう」
「う、う、うぅ……。」
奏七多は頷く。晴柊が「立てるか?」と肩をかすと、奏七多は大人しく晴柊に身を預けながら立ち上がった。
その時、晴柊が人の足音に気付く。
「行くぞ。早くこの狂った村を出よう。」
葡萄畑を出て、作業所が見える木の影に入る。
そこには、ゆり子と男性の姿があった。
「虎太朗がいないのよ。今、お父さんが探しに行ってるけど……。虎太朗、今年の、お、鬼を……、やらないといけないのに……。」
「肥料はもう運ばれてきてるぞ?一旦作業所に入れておくな。殺しは清志朗さんも来てからだから、まだ大丈夫だろ。」
「そうね、清志朗さんは、先に取り引きですものね。」
不安気に周りをキョロキョロ見回すゆり子。
会話の内容から、これからあの作業所で行われることを想像し、二人は身震いした。
「ね、奏七多くん。こっち。」
「え?」
「あ!」
大きな声を出しそうになった晴柊は、自分で自分の口を手で塞いだ。
そこにいたのは、虎太朗だった。
「そこ。見て。」
「な、何……?」
突如現れた虎太朗に驚きながらも、虎太朗がさし示した方を二人して見上げる。
そこには木のうろに隠すようにおかれた虫かごがあった。
奏七多の代わりに晴柊がうろを覗き込む。
「虫かごと、……中は手紙……?虎太朗さん、これは何……あれ?」
「いない……?」
虎太朗がいたはずの場所は、誰もいない。
「晴柊、さっきの───」
「っ!伏せろ!!」
晴柊に突然頭を掴まれ、奏七多は頭を下げさせられる。
背後にガン!と音が響き、恐る恐る顔を上げると、そこには斧が刺さっていた。
「う、うそ……。」
「クソガキ共!今年の肥料はお前達だ!!」
「逃げろっ!!」
真っ赤な目で、手首や口から血を流した清志朗が、鬼のような形相でこちらに向かってきた。
持っていた鍬を振り上げる清志朗に、奏七多は地面の砂を投げつけた。
すかさず、晴柊が足払いし、清志朗は大きな音をたて、背中から倒れた。
「ちょっ!バカ!俺は置いてけよ!」
「奏七多こそバカだな!置いて行ったら死ぬぞ!?」
「バカァ!?それ、晴柊にだけは言われたくないから!」
奏七多を肩に担いだまま、晴柊は全速力で走り出す。
背後には清志朗。逃げる道は湖の方しかない。
「アイツらを捕まえろ!!」
よく通る清志朗の声。いつものような穏やかさはなく、本性が剥き出た地獄の底から響くような声だった。
ガン、ガン、ガンッ!
重い鉄を打ち付けるような激しい音に二人の体が跳ねる。
清志朗が鍬を作業所の機械に叩きつけていた。
「野郎共ォオ!ガキが湖の方へ逃げた!殺せ!殺せ殺せ殺せェェエエエ!!」
「いっ、ヤバ!晴柊ッ!うぇっ。」
「分かってる!舌を噛むぞ!」
晴柊が木の根を軽やかに飛び越えると、腹に衝撃が来て小さく呻く。
口を閉じ、晴柊の背中越しに湖の向こうを盗み見ると、複数本の光の筋が見えた。
懐中電灯だ。
「向こう側行っても殺されるって!」
「清志朗と戦うよりは勝算がある!息止めろッ!」
「はっ、ガチッ!?ぅブッ!」
次の瞬間には、水面に体が打ち付けられる感覚。
綺麗な湖だと聞いていたが、本当に美しい湖だった。
水は澄み、水面に浮かぶ舟の背や、ふよふよと流れる灯籠が、水中からも幻想的に見えた。
ドボンッ!!バサァッ!
「!?」
そんな景色もぶち壊しである。
清志朗が岸につけれていた小舟に乗り込み、奏七多たち目掛けて鍬を振り下ろす。
あんなものに脳天を叩かれたらたまったものではない。
「(晴柊、放して!バラバラに逃げよう!)」
「(……。)」
「(晴柊!?)」
首を横に振った晴柊は薄く目を開けると、再びぎゅっと閉じ、奏七多を抱えたまま水底へ潜り込んだ。
静かな水底は、緊迫の闘争劇の中のほんの一瞬の休息と思えるくらいだった。
清志朗が奏七多たちを見失っている間に少し距離をとり、息継ぎのため灯籠の少ない場所で浮上する。
「あそこだ!いたぞ!」
「予備の舟を出せ!清志朗さんを援護しろ!」
「照らせ!照らせ!」
「あーもうウザッ!」
「奏七多!俺の踏み台になってくれ!清志朗の舟に乗り込む!早くッ!」
「待てェッ!ぶっ殺してやる!!」
「最悪っ!」
奏七多は深く息を吸うと水中に潜り込んだ。
追いついた清志朗は、頭を出している晴柊目掛けて勢いよく鍬を振り下ろす。
晴柊はするりと避け、逆にそれをつかみ返した。
「く……っ!」
「奏七多!」
急に引っ張られ、清志朗がバランスを崩した隙に、晴柊は奏七多を踏み台に清志朗の舟に飛び乗った。
すかさず清志朗の膝を狙い、清志朗は派手な水飛沫と共に湖の中に転落した。
「奏七多!こっちだ!」
「晴柊!」
奏七多は晴柊に腕を引っ張り上げられ、抱き止められるようにしてようやく舟の上に乗った。
そして、奏七多は水面を覗き込む。
清志朗の姿は見当たらない。
向こう岸からは予備の舟でこちらに向かってくる村の男衆がいた。
「清志朗がどこ行ったか分かんないけど、今のうちに逃げなきゃ!オールはどこ!?」
舟の縁を手探りする晴柊。妙な動きだと不審に思い顔を覗き込むと、眉を顰め、難しそうな顔をしていた。
「何?どっか痛いの?」
「……コンタクトが落ちたみたいで、よく見えないんだ。」
「え!?分かった、指示は俺が出すから、晴柊は聴くことに集中して!」
「すまない。」
「いいから!うわっ、もう来た!」
奏七多は見つけたオールを掴み上げ、晴柊の手に持たせる。
もう一本を手に取ると、晴柊に指示を出しながら力一杯漕ぎ始めた。
クソ重い。
こんなんで本当に進むわけ!?
「奏七多!追いつかれる!」
「これでも投げといて!」
水面に浮かぶ灯籠を拾い上げる晴柊に渡す。
晴柊は受け取った瞬間、軽やかに村人の舟に投げ込んだ。
バレーのトスを見ているようだった。
晴柊はよく見えていないはずなのに、それを命中させる。
「うわ、熱いっ!」
「舟に落とすな、引火する!水だ!」
向こうの舟が慌ててる間に懸命に距離をとる。
森だ。森に逃げ込んで姿を隠すしかない。
奏七多は近くの岸を目指し、次の逃走の算段を立てる。
「晴柊!あと少しで岸!飛び込んで、森に逃げるよ!」
「ああ、でも……!」
「俺が晴柊の目になるから!」
「!、ああ!」
奏七多が晴柊の手を掴むと、二人同時に湖に飛び込んだ。
人の手を持ちながら泳ぐのは難しい。
十メートルにも満たない距離を泳ぎ切ると、晴柊が先に湖から上がる。
「奏七多、手を。」
「ありが───、」
奏七多が晴柊の手を掴もうとした瞬間、晴柊は背後を振り返った。
晴柊の向こうからよろめきながら全力で走ってくる幹人の姿。
目に巻かれた包帯は取れ、抉れた片目が痛々しい。
手には割れた瓶。細い指が白くなるまで握り込み、晴柊目掛けて振りかぶる。
「これで、これでっ、俺はっ、生きられる……!死ねぇっ!」
「幹人さん!?」
「晴柊っ!避けて!瓶、割れた瓶を持ってる!」
「奏七多は来るなッ!」
奏七多が伸ばしかけた手を払い、湖に押し戻すと奏七多を守るように晴柊が立ち塞がる。
晴柊は振り下ろされるそれを、避けきれず腕を大きく切る。
「くッ……!」
「チャンスだ!加勢するぞ!」
二人を追いかけていた村人たちが舟を降り、晴柊に襲いかかる。
いくら聴力がよくても、視界が不明瞭な状態で囲まれた晴柊は、圧倒的に不利であった。
奏七多は水中に身を潜めると、空になった村人の船から懐中電灯を一つ回収する。
足の痛みなど忘れて、泳ぎ出した。
この村の住民が恐れていること。
それは、外に情報が漏れること。
自分の罪が露見し、清志朗から報復される。
それが怖いからだ。
水中から姿を現すと、村人達を懐中電灯で照らした。
スマホを掲げ、大声で叫ぶ。
「オイ!目無しの罪人!!アンタ達の悪行、全世界配信してるけど、いーの!?清志朗に脅されてやった殺人と、自主的にやってる殺人、罪の重が違うと思うけどー!?」
「なんだ!?なんでスマホを持ってる!?」
「辰朗が壊したんじゃなかったか!?」
「いいからアイツを止めろ!」
「奏七多……っ!」
「早く俺を止めないと、アンタ達なんかすぐ豚箱行き───!?」
突如足を引っ張られ、痛みに瞠目する。
奏七多のスマホを奪い取ったのは、清志朗だった。
「茶髪ッ!お前は最初から気に食わなかった!とっとと死ねェ!!」
「ゥ、ブッ……!」
頭を水中に押さえ込まれ、呼吸を塞がれる。
口からも鼻からも水が侵入し、息苦しさに必死にもがいた。
ここまでか。
俺はここで、死ぬんだ。
晴柊だけでも逃げ出せたら、いいんだけど……。
遠ざかる意識の中、強い光を感じた。
サイレンと、ヘリの音。
「そこまでだ!中祈清志朗、並びに成芽村の奴ら共っ!暴行罪で現行犯逮捕する!ガキ共から離れろっ!」
清志朗の腕の地下が弱まった隙に、最後の力を振り絞り水中へ逃げる。
奏七多になど目もくれず、清志朗は逃げ出す。
発砲音に驚き水面から顔を出すと、銃を構えた田中が威嚇射撃をしていた。
「君、危ないからこっちに来なさい。泳げるか?」
「佐藤、さん……。」
晴柊を保護した佐藤が、奏七多に向かって呼びかける。
足はもう限界だ。
腕の力だけで、なんとか陸へ戻った。
応援で駆けつけた警察官達に村人達が連行されていく。
幹人は意味を成していない言葉を叫びながら暴れ、取り押さえられていた。
「晴柊、大丈夫?」
「奏七多……。よく見えないが……、これは……。」
「ブッ、あははっ!あははは!俺たちの、勝ち!」
「わっ!ふっ、はははっ!良かっ、た……っ!」
晴柊の肩に勢いよく腕をかけ、ぐしゃぐしゃになった顔で互いに抱きしめあった。
疲れのせいか、死闘の後の開放感からか、込み上げる笑いも、涙も、抑えきれなかった。
「二人とも、怪我の手当がいる。あっちのヘリに向かおう。」
「あ、待ってください。奏七多、虫かご。」
「え?あ……。」
佐藤に背負われた奏七多は、佐藤に頼み、晴柊と共に先程の木に向かう。
木のうろに隠された、小さな虫かご。
中には折り紙で折られたクワガタらしきものと、四つ折りの手紙が入っていた。
「なんだ、それは?」
「奏七多に、渡してあげてください。」
佐藤が晴柊に言われるまま、奏七多にそれを手渡す。
手紙を開いた奏七多は、息を震わせた。
《おたんじょうび、おめでとう。せかいでいちばん、つよい、にいちゃん。いつも、あそんでくれて、ありがとう。ずっと、だいすきだよ!》
「う、うぅ……っ。」
「奏七多の、弟さんからの、メッセージみたいです。」
佐藤の背中で嗚咽をあげる奏七多を、晴柊は優しく撫でた。
サイレンと風の音に混ざり、奏七多の耳に懐かしい声が響いた。
───にぃちゃん。ありがとう。だいすきだよ。
fin.
葡萄の甘い香りが充満し、匂いだけで酔いそうなほど芳醇だった。
「近くにはいない。行くぞ。」
「ん。」
「行くぞ」、と言われても、奏七多は晴柊の背中の上なので、あまり関係はないのだが、奏七多は、家族の墓との対面の瞬間が近づいていることに緊張していた。
作業所の大きな出入り口はシャッターが開かれたままになっていた。
主に大きな二つの部屋に区切られ、片方の部屋は葡萄を潰したり混ぜたりするような機械が設置されている。
もう片方の部屋は、清志朗の家の地下でみた牢に似ていた。
殺風景で、刺々しい。
壁には茶色く変色した血の跡が何重にも飛び散り、鉄臭い気がした。
折れたバッドや、黒ずんだ刃物。ハンマー、ペンチ。
「……晴柊、早く行こう。」
「そうだな……。」
この部屋で犠牲になった人間の悲鳴が、まだ響いているような気さえした。
作業所の横には、農工具やワインの瓶なんかも散らかっている。
それを横目で見ながら作業所を出る。
葡萄畑はすぐに見つかった。
「すごい、本当に葡萄畑だ……。」
鬱蒼と木々が茂る中、そこだけは背の低い木々が等間隔に並んでいた。地面は雑草はなく肌色の土が見えており、整然としていた。
「これがワインの原料……。あ、今の時期は葉は付いてないんだな。……ん?」
晴柊は葡萄の枝の先に雫が溜まるのを見た。
その雫は、人の悲しみの涙のように、ぽとり、ぽとりと静かに落ちる。
「……本当に、この下に人が……。」
「晴柊。おろしてくれる?」
奏七多の静かな要望に、晴柊はそっと奏七多を下ろした。
奏七多は痛む足を庇いながら、葡萄畑の地面を撫でた。
冷たい。
───にぃちゃん。にぃちゃん。
「晴、風っ、晴風……っ。」
土下座するように、固く冷たい土に頭をつけた。
ここにいるのか?ここに、俺の弟は。
「晴風……。」
奏七多は視界の端に、鈍く光る銀色のものを見つけた。
木の根に押し上げられるように見えている、銀の破片。
「あっ……。」
「奏七多っ!」
晴柊の抑止も聞かずに、奏七多は足を引き摺りながらそれに近づく。
倒れ込むような格好で銀のものの横に寝転ぶと、震える手で周りの土をどかした。
「奏七多、それ……。」
「……07、07……。う、うう、ああああ!!」
「奏七多っ。」
泣き崩れる奏七多を、晴柊が支える。
奏七多の手にあるのは、銀色の心臓。
ペースメーカーだ。
嗚咽を繰り返し、しゃくり上げ、顔を真っ赤にして泣いた。
晴風は、こんな、こんなところに……!
子供のように泣き続けて、奏七多はその場に倒れ込んだ。
ここから見える世界は、平らな土と、鬱蒼と茂遠くの木々だけ。ひどくつまらない世界。
「ごめん、お父さん、お母さん。ごめん、晴風。ごめん。ごめん……。」
奏七多は地面に頭を打ちつける。
何度も、何度も。
「クソっ、クソッ、くそッ!!」
その度に、奏七多の目からは涙がぼろぼろとこぼれた。
「絶対殺してやる!この村の奴ら!全員!!絶対に!!」
晴柊が奏七多を強く抱きしめた。
「…奏七多、今は一度抑えてくれ。見つかったら不利だ。俺たちも村人に捕まってしまう」
「う、う、うぅ……。」
奏七多は頷く。晴柊が「立てるか?」と肩をかすと、奏七多は大人しく晴柊に身を預けながら立ち上がった。
その時、晴柊が人の足音に気付く。
「行くぞ。早くこの狂った村を出よう。」
葡萄畑を出て、作業所が見える木の影に入る。
そこには、ゆり子と男性の姿があった。
「虎太朗がいないのよ。今、お父さんが探しに行ってるけど……。虎太朗、今年の、お、鬼を……、やらないといけないのに……。」
「肥料はもう運ばれてきてるぞ?一旦作業所に入れておくな。殺しは清志朗さんも来てからだから、まだ大丈夫だろ。」
「そうね、清志朗さんは、先に取り引きですものね。」
不安気に周りをキョロキョロ見回すゆり子。
会話の内容から、これからあの作業所で行われることを想像し、二人は身震いした。
「ね、奏七多くん。こっち。」
「え?」
「あ!」
大きな声を出しそうになった晴柊は、自分で自分の口を手で塞いだ。
そこにいたのは、虎太朗だった。
「そこ。見て。」
「な、何……?」
突如現れた虎太朗に驚きながらも、虎太朗がさし示した方を二人して見上げる。
そこには木のうろに隠すようにおかれた虫かごがあった。
奏七多の代わりに晴柊がうろを覗き込む。
「虫かごと、……中は手紙……?虎太朗さん、これは何……あれ?」
「いない……?」
虎太朗がいたはずの場所は、誰もいない。
「晴柊、さっきの───」
「っ!伏せろ!!」
晴柊に突然頭を掴まれ、奏七多は頭を下げさせられる。
背後にガン!と音が響き、恐る恐る顔を上げると、そこには斧が刺さっていた。
「う、うそ……。」
「クソガキ共!今年の肥料はお前達だ!!」
「逃げろっ!!」
真っ赤な目で、手首や口から血を流した清志朗が、鬼のような形相でこちらに向かってきた。
持っていた鍬を振り上げる清志朗に、奏七多は地面の砂を投げつけた。
すかさず、晴柊が足払いし、清志朗は大きな音をたて、背中から倒れた。
「ちょっ!バカ!俺は置いてけよ!」
「奏七多こそバカだな!置いて行ったら死ぬぞ!?」
「バカァ!?それ、晴柊にだけは言われたくないから!」
奏七多を肩に担いだまま、晴柊は全速力で走り出す。
背後には清志朗。逃げる道は湖の方しかない。
「アイツらを捕まえろ!!」
よく通る清志朗の声。いつものような穏やかさはなく、本性が剥き出た地獄の底から響くような声だった。
ガン、ガン、ガンッ!
重い鉄を打ち付けるような激しい音に二人の体が跳ねる。
清志朗が鍬を作業所の機械に叩きつけていた。
「野郎共ォオ!ガキが湖の方へ逃げた!殺せ!殺せ殺せ殺せェェエエエ!!」
「いっ、ヤバ!晴柊ッ!うぇっ。」
「分かってる!舌を噛むぞ!」
晴柊が木の根を軽やかに飛び越えると、腹に衝撃が来て小さく呻く。
口を閉じ、晴柊の背中越しに湖の向こうを盗み見ると、複数本の光の筋が見えた。
懐中電灯だ。
「向こう側行っても殺されるって!」
「清志朗と戦うよりは勝算がある!息止めろッ!」
「はっ、ガチッ!?ぅブッ!」
次の瞬間には、水面に体が打ち付けられる感覚。
綺麗な湖だと聞いていたが、本当に美しい湖だった。
水は澄み、水面に浮かぶ舟の背や、ふよふよと流れる灯籠が、水中からも幻想的に見えた。
ドボンッ!!バサァッ!
「!?」
そんな景色もぶち壊しである。
清志朗が岸につけれていた小舟に乗り込み、奏七多たち目掛けて鍬を振り下ろす。
あんなものに脳天を叩かれたらたまったものではない。
「(晴柊、放して!バラバラに逃げよう!)」
「(……。)」
「(晴柊!?)」
首を横に振った晴柊は薄く目を開けると、再びぎゅっと閉じ、奏七多を抱えたまま水底へ潜り込んだ。
静かな水底は、緊迫の闘争劇の中のほんの一瞬の休息と思えるくらいだった。
清志朗が奏七多たちを見失っている間に少し距離をとり、息継ぎのため灯籠の少ない場所で浮上する。
「あそこだ!いたぞ!」
「予備の舟を出せ!清志朗さんを援護しろ!」
「照らせ!照らせ!」
「あーもうウザッ!」
「奏七多!俺の踏み台になってくれ!清志朗の舟に乗り込む!早くッ!」
「待てェッ!ぶっ殺してやる!!」
「最悪っ!」
奏七多は深く息を吸うと水中に潜り込んだ。
追いついた清志朗は、頭を出している晴柊目掛けて勢いよく鍬を振り下ろす。
晴柊はするりと避け、逆にそれをつかみ返した。
「く……っ!」
「奏七多!」
急に引っ張られ、清志朗がバランスを崩した隙に、晴柊は奏七多を踏み台に清志朗の舟に飛び乗った。
すかさず清志朗の膝を狙い、清志朗は派手な水飛沫と共に湖の中に転落した。
「奏七多!こっちだ!」
「晴柊!」
奏七多は晴柊に腕を引っ張り上げられ、抱き止められるようにしてようやく舟の上に乗った。
そして、奏七多は水面を覗き込む。
清志朗の姿は見当たらない。
向こう岸からは予備の舟でこちらに向かってくる村の男衆がいた。
「清志朗がどこ行ったか分かんないけど、今のうちに逃げなきゃ!オールはどこ!?」
舟の縁を手探りする晴柊。妙な動きだと不審に思い顔を覗き込むと、眉を顰め、難しそうな顔をしていた。
「何?どっか痛いの?」
「……コンタクトが落ちたみたいで、よく見えないんだ。」
「え!?分かった、指示は俺が出すから、晴柊は聴くことに集中して!」
「すまない。」
「いいから!うわっ、もう来た!」
奏七多は見つけたオールを掴み上げ、晴柊の手に持たせる。
もう一本を手に取ると、晴柊に指示を出しながら力一杯漕ぎ始めた。
クソ重い。
こんなんで本当に進むわけ!?
「奏七多!追いつかれる!」
「これでも投げといて!」
水面に浮かぶ灯籠を拾い上げる晴柊に渡す。
晴柊は受け取った瞬間、軽やかに村人の舟に投げ込んだ。
バレーのトスを見ているようだった。
晴柊はよく見えていないはずなのに、それを命中させる。
「うわ、熱いっ!」
「舟に落とすな、引火する!水だ!」
向こうの舟が慌ててる間に懸命に距離をとる。
森だ。森に逃げ込んで姿を隠すしかない。
奏七多は近くの岸を目指し、次の逃走の算段を立てる。
「晴柊!あと少しで岸!飛び込んで、森に逃げるよ!」
「ああ、でも……!」
「俺が晴柊の目になるから!」
「!、ああ!」
奏七多が晴柊の手を掴むと、二人同時に湖に飛び込んだ。
人の手を持ちながら泳ぐのは難しい。
十メートルにも満たない距離を泳ぎ切ると、晴柊が先に湖から上がる。
「奏七多、手を。」
「ありが───、」
奏七多が晴柊の手を掴もうとした瞬間、晴柊は背後を振り返った。
晴柊の向こうからよろめきながら全力で走ってくる幹人の姿。
目に巻かれた包帯は取れ、抉れた片目が痛々しい。
手には割れた瓶。細い指が白くなるまで握り込み、晴柊目掛けて振りかぶる。
「これで、これでっ、俺はっ、生きられる……!死ねぇっ!」
「幹人さん!?」
「晴柊っ!避けて!瓶、割れた瓶を持ってる!」
「奏七多は来るなッ!」
奏七多が伸ばしかけた手を払い、湖に押し戻すと奏七多を守るように晴柊が立ち塞がる。
晴柊は振り下ろされるそれを、避けきれず腕を大きく切る。
「くッ……!」
「チャンスだ!加勢するぞ!」
二人を追いかけていた村人たちが舟を降り、晴柊に襲いかかる。
いくら聴力がよくても、視界が不明瞭な状態で囲まれた晴柊は、圧倒的に不利であった。
奏七多は水中に身を潜めると、空になった村人の船から懐中電灯を一つ回収する。
足の痛みなど忘れて、泳ぎ出した。
この村の住民が恐れていること。
それは、外に情報が漏れること。
自分の罪が露見し、清志朗から報復される。
それが怖いからだ。
水中から姿を現すと、村人達を懐中電灯で照らした。
スマホを掲げ、大声で叫ぶ。
「オイ!目無しの罪人!!アンタ達の悪行、全世界配信してるけど、いーの!?清志朗に脅されてやった殺人と、自主的にやってる殺人、罪の重が違うと思うけどー!?」
「なんだ!?なんでスマホを持ってる!?」
「辰朗が壊したんじゃなかったか!?」
「いいからアイツを止めろ!」
「奏七多……っ!」
「早く俺を止めないと、アンタ達なんかすぐ豚箱行き───!?」
突如足を引っ張られ、痛みに瞠目する。
奏七多のスマホを奪い取ったのは、清志朗だった。
「茶髪ッ!お前は最初から気に食わなかった!とっとと死ねェ!!」
「ゥ、ブッ……!」
頭を水中に押さえ込まれ、呼吸を塞がれる。
口からも鼻からも水が侵入し、息苦しさに必死にもがいた。
ここまでか。
俺はここで、死ぬんだ。
晴柊だけでも逃げ出せたら、いいんだけど……。
遠ざかる意識の中、強い光を感じた。
サイレンと、ヘリの音。
「そこまでだ!中祈清志朗、並びに成芽村の奴ら共っ!暴行罪で現行犯逮捕する!ガキ共から離れろっ!」
清志朗の腕の地下が弱まった隙に、最後の力を振り絞り水中へ逃げる。
奏七多になど目もくれず、清志朗は逃げ出す。
発砲音に驚き水面から顔を出すと、銃を構えた田中が威嚇射撃をしていた。
「君、危ないからこっちに来なさい。泳げるか?」
「佐藤、さん……。」
晴柊を保護した佐藤が、奏七多に向かって呼びかける。
足はもう限界だ。
腕の力だけで、なんとか陸へ戻った。
応援で駆けつけた警察官達に村人達が連行されていく。
幹人は意味を成していない言葉を叫びながら暴れ、取り押さえられていた。
「晴柊、大丈夫?」
「奏七多……。よく見えないが……、これは……。」
「ブッ、あははっ!あははは!俺たちの、勝ち!」
「わっ!ふっ、はははっ!良かっ、た……っ!」
晴柊の肩に勢いよく腕をかけ、ぐしゃぐしゃになった顔で互いに抱きしめあった。
疲れのせいか、死闘の後の開放感からか、込み上げる笑いも、涙も、抑えきれなかった。
「二人とも、怪我の手当がいる。あっちのヘリに向かおう。」
「あ、待ってください。奏七多、虫かご。」
「え?あ……。」
佐藤に背負われた奏七多は、佐藤に頼み、晴柊と共に先程の木に向かう。
木のうろに隠された、小さな虫かご。
中には折り紙で折られたクワガタらしきものと、四つ折りの手紙が入っていた。
「なんだ、それは?」
「奏七多に、渡してあげてください。」
佐藤が晴柊に言われるまま、奏七多にそれを手渡す。
手紙を開いた奏七多は、息を震わせた。
《おたんじょうび、おめでとう。せかいでいちばん、つよい、にいちゃん。いつも、あそんでくれて、ありがとう。ずっと、だいすきだよ!》
「う、うぅ……っ。」
「奏七多の、弟さんからの、メッセージみたいです。」
佐藤の背中で嗚咽をあげる奏七多を、晴柊は優しく撫でた。
サイレンと風の音に混ざり、奏七多の耳に懐かしい声が響いた。
───にぃちゃん。ありがとう。だいすきだよ。
fin.



