目無し村


小さな嗚咽が聞こえて、目が覚めた。
眠りは深い方だが、人の泣き声には敏感な質だった。
そっと、目を開ける。
その声は、隣の同室者から聞こえていた。

下の部屋では、ゆり子さんが起きたところだった。独り言を聞くに、トイレに起きたらしい。辰朗さんはぐっすり眠っている。いびきが聞こえる。
廊下を挟んで隣の部屋の田中さんと佐藤さんは、順番に睡眠をとっているようだ。
彼らはお互いを呼び合うときは、田中雪也と、佐藤マサルではない。雪白 藤矢(ゆきしろ・とうや)と、珠鬼 薫(たまき・かおる)。これが二人の、お互いの呼び名。理由は分からない。
家の外はまだ静か。鳥の鳴き声さえ聞こえない。ということは、まだ日の出前だろう。川の音が大きい。昨日の雨で少し水量が増えたんだろう。


「……の、せい……。」


隣で眠る同室者は寝言をこぼす。
ぽとり、ぽとりと、涙も流している。
部屋は暗く、おまけに眼鏡もかけてないから、顔は見えない。でも呟く声は、酷く辛そうだ。後悔と、悲嘆、懺悔。叫びの代わりに、透明な雫がまた蕎麦殻の枕に落ちる。
悪夢だろうか。起こしてやろうか。

身体を起こし、眼鏡をかけて少し考える。

暗闇に目が慣れると、ぼんやりその輪郭が浮かんだ。
両腕を顔に置き、目と口元を隠すように泣いている。

……まだ、やめておこう。

少し心配に思いながら、また布団に身体を横たえた。

この耳で知ってしまったことには、触れない、関わらない。そして、記憶しない。
それが、十六年の人生で習得した、「生きるためのルール」だった。

俺の聴力は、生まれつき異常に良かった。分かりやすく言い換えるなら、聴こえ“過ぎ”だった。
音が聴こえることに加えて、微かな音の違いや震え、強弱、距離感、全てが精密に聞き取れてしまう。


───幹人…、生きて、た……!


ふと、清志朗の家で聞こえた、老婆の声が蘇る。
奥歯を強く噛み締め、両手で耳を塞いだ。

あの時、すぐにでも駆けつけたかったが、強く目を瞑って耐えた。
清志朗が、「そういうものだ」という言い方をしていたからだ。
中祈の家族は、それで成り立っているんだ。
当人たちがそれで良しとしているなら、簡単に首を突っ込んではいけない。

忘れろ。思い出すな。
自分なんかが関わるべきじゃない。

あの家は、少し変わっていたが、清志朗の声はどこまでも穏やかだった。
だから、それでいいんだ。


耳を塞ぐ腕の力を強める。
腕の筋肉の軋む音の中、また頭の中に別の声が蘇った。


───なんだあの二人。都会の高校生か?

───虎太朗は何をしてる。予定と違う。

───四人は多いだろ。清志朗さんの指示か?


この村に入った時に聞こえた、村人同士で耳打ちされていた声だ。
会話の内容は分からない。
でも、それでいい。それでいいんだ。
きっとこれは、“村人だけに許された会話”だ。
だから忘れろ。忘れろ。
考えるな。
関わっちゃいけない。


誰かの秘密に立ち入るには、必ず代償が必要になる。
そしてその代償を払うのは、必ずしも自分だけとは限らない。

俺だけならどうなってもいい。

でも……。


腕の力を緩めると、静寂が訪れた。
隣で眠る同室者の方を見る。

繊細で感受性が強い、なのにやたら強がり。
毒舌の裏で、いろいろな気持ちを抱えている。
泣きそうだったり、怯えていたり、愉しんでいたり。
弟に似ているせいか、不思議と構ってやりたくなる奴だった。
それでいて、笑うと子供みたいに無邪気だった。きっとあの時の彼が、一番彼の本質に近いのだろう。
常にツンと仏頂面をしているせいか、彼の笑顔を見たときは、思いがけず良いものを発見したような喜びがあった。
心から漏れ出たような、純粋な、小さな笑い声。
距離が縮まったような感覚が、嬉しかった。
あの声が、また聞きたいと思った。

奏七多は、また深い眠りについたのか、静かな寝息を立てている。

この村から帰っても、仲良くできるといいな。

静かな眠気。

新しい友のことを考えていると、いつの間にか、穏やかな気持ちで眠りについていた。






朝。眩しさに目覚めた奏七多は、夢が見せた記憶の断片をすぐに思い出した。
同時に、深い悲しみと落胆を感じた。

俺の、“本当の”家族。


「最悪っ……、なんで急に、そんなこと……。」


目元を手で覆った。瞼は腫れて重く、顔には涙の跡が乾いて固まっていた。
自分は、寝ながら泣いていたのか。


「……、ダサッ。」


奏七多は今まで、その記憶に蓋をしていた。
それが、なぜか今、開かれてしまった。

奏七多自身、今の家族が本当の家族ではないことは知っていた。
小学校に上がる頃、奏七多を引き取ったのは、父方の遠い親戚。
引き取られる前の記憶は歯抜け状態で、本当の家族の記憶は一つもなかった。


『奏七多くんの家族は、悲しい事故で亡くなったんだ。』


そう聞かされ、定期的にカウンセリングも受けさせられていた。
奏七多は何も覚えてはいなかったが、「捨てられたんだ」ということを、感覚的に理解していた。


K県の泉深山。
その近くに、奏七多の母方の祖母が一人で暮らしていた。奏七多の5歳の誕生日に、奏七多と家族は、その祖母の家へ遊びに行っていた。
そして、奏七多の家族は消えた。
奏七多一人を、残して。

奇しくもここは、K県と泉深山を挟んだ反対側に位置するS市である。
村の奥に見える山を越えれば、奏七多の祖母の家のあった町があるということだ。

奏七多は、この村に来たことも、昨日から俺を呼ぶ声も、全てが必然のことだったように感じ始めていた。


「はぁ……。……てか布団?重過ぎ……、何?」


起きあがろうとして、自分の体の上に異様に重いものが載っていることに気づいた。
腿に錘でも乗せられているかのようだ。


「何、これ……。」


手探りで触れて、ようやく原因を特定した奏七多は思い切りそいつの顔を叩いた。


「降りて!」

「ぶはっ。」


元凶は望まぬ同室者、晴柊であった。
晴柊は、奏七多の身体に半分乗り上げた状態で、壁に足の裏を付けて寝ていた。
どんな寝方だよ?


「アンタ寝相悪すぎない!?寝ながら壁でも登るつもりなの!?」

「ああ……、すまな……い……。」

「謝りながらまた寝ないでくれる!?とにかくどいてってば!」

「わっ!」


身体を捻り、渾身の力で邪魔な脚を跳ね除けた。
寝起きの晴柊は、驚きの声を上げながらも綺麗な受け身を取る。
いや、受け身どころではない。
後転倒立のような謎の新体操技を披露される。
……何それ?


「……何が起きたんだ?」

「こっちのセリフだけど。何してんの?」

「すまない、よく見えなくて……。」

「アンタの奇行と視力は関係ないけどね。これ探してんの?」

「ああ、ありがとう。」


身を屈め、床を探し始めた晴柊に眼鏡を渡す。
視界が明瞭になるとようやく目が覚めたか、真っ直ぐに奏七多を見て口の端を少し上げた。


「南、おはよう。」

「ん。」


寝起きの端正な顔は、どこか隙のある、あどけない顔だった。
晴柊のアホ面を見て、奏七多は沈み込んでいたはずの気持ちが、ほんの少しだけ紛れたのを感じた。


「っ、な、何?」

「目、腫れてるな。待ってろ。」

「……。」


晴柊は急に奏七多の顔を覗き込むと、それだけ言って部屋を出た。
理由を聞くつもりはないらしい。

アホなくせに、変なところで気遣いする奴。

奏七多はあの日以来、いろんな人間と会ってきた。
腫れ物に触るように扱う人。
優しく接して、心の内を暴こうとする人。
わざとらしく寛容さをアピールして、信頼を得ようとする人。

それら全てが、奏七多には気持ちが悪かった。

それから奏七多は、棘のある言葉をわざと使うようになった。
自分を守るためだ。
毒付き、距離をとり、踏み込まれる隙を無くす。
そうやって、心の安全を守ってきたんだ。

しかしそれが、今は少し揺らいでいた。

アイツになら……、晴柊になら。
身の上話くらい、聞かせてやってもいい、なんて。


「はぁ。ヤなこと思い出して、感傷的になってんのかな……。」


やっと立ち上がり窓を開けると、澄んだ空気が部屋に入り込んだ。
窓の外は、早朝の黄色の光に輝く桜の木と、その向こうに広がる日の出前の田園風景。
夜と朝の境目の美しい景色。

肺いっぱいに冷んやりした空気を吸い込む。
そして視線は、その奥の泉深山へ。


「泉深、山……。」


家族が最後に向かった場所は海だと聞いていた。
しかし……。


───おいで。


昨日よりはっきり聞こえるその声。
今ならわかる。

これは、晴風の声だ。


「南、濡れタオルを持ってきた。これで冷やせ。」

「どーも。……ねぇ、兎羽根は聞こえる?あっちから、『おいで』って呼ぶ声。」

「声?俺には何も聞こえない。」

「昨日の田中って人の話じゃないけど、俺さ、この村に来てから、変な声が聞こえたり、見えたりすんの。」

「え……、ええっ!?……そ、それは、お化け的な……?」

「さぁね。でも俺、この村に来たのが偶然じゃない気がした。晴風に……、弟に呼ばれてここに来た気がする。」

「弟?」

「あのさ、聞いてくんない?俺の、子供のときの話。……誰かに、聞いて欲しい気分だから……。」


静かに目を見開く晴柊。
朝陽が、その横顔をゆっくりと照らしていった。
奏七多が強がりの仮面を一瞬だけ外すと、晴柊は綺麗な目元に優しさを滲ませ、小さく頷いた。





記憶に蓋をするほど辛かった過去の話も、出来事だけを淡々と話せば、たいして長くはならなかった。


「───それで、ここに来たのは偶然じゃない気がしてきたの。さっき言った『弟の声』は、半信半疑なとこもあるけど。」

「……そうか。」


晴柊は始終静かに話を聞き、ただひたすらに受け止めた。
下手な同情の言葉も、慰めの言葉も、勝手に涙することもなく。
その反応は、すごく晴柊らしかった。


「感想それだけ?こっちは十年来の秘密を明かしたって言うのにさ。」


奏七多が少し茶化してやると、晴柊は瞳を揺らし、微かに唇を動かした。
「感想を」という奏七多の冗談を間に受け、なんとか応えようとしているらしい。
狼狽える晴柊の様子が面白くて、奏七多は小さく吹き出した。


「じょーだん。感想なんか要らないから。言われる言葉なんて、想像つく───」

「つまり、お前は弟がいたんだな?」

「え?あー、そうだけど。」

「……お前が兄ってキャラか?似合わなすぎだな。」


ニヤリと笑う晴柊。
嫌味に聞こえるその言葉は、昨日奏七多が晴柊に言ったことを、そっくりそのまま真似したものだった。


「はぁ…。あははっ!本当に、アホなくせに、人をイラつかせることだけは天才だよね?」

「ははっ、ニヤけながら言われてもムカつけないな。」

「ニヤけてるんじゃなくて、嘲笑してるだけだから。呆れて笑ってんの。」


脊髄反射で言い返すも、やはり晴柊は気に留めない。
気恥ずかしくて奏七多の頬が少し赤くなったのを、気付いていたのかもしれない。

でもまあ、晴柊にならいいかと、奏七多は深く息を吐いた。


「それで、お前はどうしたいんだ?」

「は?どうって?」

「『来い』と呼ばれてるんだろ?行くのか?」


口籠もり、目を逸らした。
呼ばれている。だから、行かなければならないと感じてる。
でも、奏七多は怖かった。
幼い晴風にとって、自分はいい兄とは言い難かっただろう。
そんな自分を、なぜ呼んでいるのか。

冷たい何かが、背中をそっとなぞった気がした。


「別に。俺を捨てた家族に、俺は用無いし。」

「……怖いのか?」

「……だったら何?」

「俺も一緒に行くことならできる。」

「………そ。……それより今何時?そろそろ朝ご飯作らないと、みんな帰ってきちゃうんじゃない?」


お礼を言いかけて、口が素直に動かずに話を逸らした。
晴柊が言う前に、奏七多の頭の中には、晴柊が一緒に来てくれたら……という考えがよぎっていた。
しかし、怖がっていることを的確に見透かされ、しかも晴柊から同行を提案されたことで、奏七多のプライドが無駄に邪魔をした。

時間を確認しようとスマホを手に取った晴柊は、眉間に皺を寄せた。


「あれ?俺のスマホ、電源が付かない……あ、充電できてなかったみたいだ。充電コードが切れてる。」

「え?」

「ほら。寝てる間にやってしまったみたいだ。」


晴柊の手元の充電器は、根本が不自然に断線していた。まるで、鈍い刃物で削ったかのように断面はぼろぼろだ。
いくら晴柊の寝相が異常に悪かったとしても、寝てる人間が無意識にできるようなことではない。
つまり、作為的に行われたことは明らかだった。


「南の充電器、貸してくれないか?」


晴柊に言われ、嫌な予感を抱えながら自分のバッグを開ける。しかし、探しても探しても目当てのものは見当たらない。


「無い。てか、スマホも無くなってる。」

「え!」


盗まれた。
それ以外考えられない。
眼鏡の奥で丸く見開かれた晴柊の目を見返した。
目の前の、呆れるほど素直なこの男が、犯人であるわけがない。
寧ろ、晴柊以外は全員怪しいと奏七多は感じていた。

奏七多の脳裏には、清志朗の胡散臭い笑みが浮かぶ。
そして、死臭漂う部屋で、軟禁されている老婆の顔も。


「外と繋がる手段が、意図的に奪われた。そういうことじゃない?」

「意図、的……。」

「アンタのスマホは圏外だったし、バッテリー残量も少なかった。俺のスマホは、微かにだけど電波を拾う気配があった。それを知ってる人間が、やった。そう思わない?……あ!」


ハッとして、部屋を飛び出した。


「どうしたんだ?」

「……やっぱり繋がらない。この電話も、どこにも繋がらなくなってる。」


昨日、学校の人と通話したこの家の固定電話も、今は無機質な不通音しか鳴らない。
晴柊に受話器を渡すと、彼も思いつく番号へダイヤルするが結果に変わりなかった。


「壊れてるだけの可能性もあるんじゃないか?」

「何悠長なこと言ってんの。わざと仕組まれてるとしか思えない。」

「でも……、なんのために……。」

「外からの情報を遮断するため、もしくは、外に情報が漏れないようにするため。俺は、後者だと思う。」

「……。」

「やったのは、中祈清志朗。俺たちのスマホの状態を話したのは、アイツだけだし。」

「そう……か………。……でも、俺たちに親切にしてくれる人だったじゃないか……。」


晴柊の目が暗く濁った。困惑より、傷つきに近い。そんな表情だった。
奏七多はそんな晴柊をじっと観察した。
晴柊は人の善意を信じ過ぎている。
奏七多はそう思った。


「ねぇ。昨日、清志朗の家で俺が何を見たか、言ってなかったよね。」


晴柊の肩が小さく跳ねた。


「アイツはそんな人格者じゃない。だってアイツ、あの家で……、あの家の奥でアイツは───んっ!?」


晴柊が慌てて手を伸ばし、奏七多の口を塞いだ。その勢いで後ろの壁に軽く後頭部をぶつけ、じわりと痛んだ。
綺麗な顔に似合わず、力は強い。
奏七多は晴柊の手を剥がそうとするが、びくともせず、せめて目だけで抗議する。しかし、晴柊は玄関扉の向こうを鋭い目で睨みつけるばかりで、抗議の視線には全く気付かなかった。


「南、今は言うな。みんながもう帰ってくる。……先に食事の支度をしよう。」

「は?」


晴柊は顔を寄せると、自分の口元に人差し指を当てながら囁いた。
涼やかな目元はあくまで冷静で、冗談を言っているようではなかった。無駄に顔が整っているせいで、真剣な表情は妙に迫力がある。


「ちょっと待ってよ!なんでわざと話逸らそうとするわけ?」

「そんなつもりはない。」

「じゃあ何?別にまだ帰ってくる気配なんてないじゃん!適当なこと言って話そらすのやめてくんな───」


その時やっと、奏七多の耳にも遠くの方で響く足音が聞こえた。複数人なのは分かる。しか誰の足音かは断定できない。おそらく晴柊は、奏七多より先にこの音に気付いたのだろう。


「行くぞ。」

「……。」


しかしその足音がこの家の人の足音とも限らないではないか。
晴柊という男が、そこまで思慮深いとも思えない。

胸の内側に、不愉快な猜疑心が生まれる。

晴柊は、何を隠してる……?

足が半歩退いた。
奏七多は僅かに目を細め、目の前の男を伺った。


「アンタ、俺に何か隠してるよね。」

「……。」

「もしかして、アンタもこの村の人間と同じ、“清志朗側”ってこと?」

「そういうわけでは、ない……。」

「じゃあ何?アンタの今の行動、不可解なんなんだけど。俺が何を言おうとしてるのかも知らないくせに、聞く気すらないじゃん!」

「……。」


気まずそうに晴柊が視線を伏せた。
外の足音は着実に近づいている。
私物に手を出され、あからさまに外との接触を遮断された。奏七多の頭の中では、アラートが鳴り続けていた。
ここは異常だ。村の代表を名乗る清志朗も、そいつに隷属する村人も。

……じゃあ目の前の男は?
晴柊は、どうなんだ?
信じていいのか?


……俺は、信じたい。


「ねぇ、兎羽根……。アンタは、清志朗と俺、どっちを信じる?っていうか、この村にいる人間と俺。どちらか選べって言ったら、どっちに付く?」


奏七多は無意識のうちに晴柊の腕を掴んでいた。
信じたい気持ちが、手に力を込めさせる。


「俺を選ぶなら、一緒に来て。この村から逃げよう。今、すぐにでも。」


晴柊の目が大きく見開かれると同時に、玄関の扉が開かれた。


「戻ったぞ。」

「ただいま。あら、二人とも何してるの?ご飯はまだ作ってないの?」

「い、今から、すぐやります!な?南。行こう、来てくれっ。」

「はっ、ちょっと、放してよ!」

「何揉めてんだよ。痴話喧嘩は外でやれガキ共。」

「「痴話喧嘩じゃないです!」」


田中の不躾なからかいには律儀に言い返し、奏七多は晴柊に腕を引っ張られるようにして台所へ引き摺り込まれた。


「やっぱり男の子二人じゃ大変だったかしら。私もやるわね。着替えてくるから、そこのお野菜洗っといてくれる?」

「はい、やります!」

「……。」


台所に向かって呼びかけたゆり子に、晴柊は調子良く返事する。奏七多はそんな晴柊を軽く睨みつけた。
すぐにでも逃げたいって、言ってるじゃん。


「南。」


晴柊は奏七多に向き直ると、睨みつける瞳をまっすぐに見つめ返し、奏七多の両腕を優しく抑えた。


「な、何……?」


真剣な眼差しで見つめられ、困惑と緊張で身体がこおばった。
ゆっくり、晴柊が近付く。
こんな状況で、こんな場所で、しかも男同士でなければ、キス直前の恋人同士のように見える体勢だ。


「は、放せよ……!」

「いいから、聞いてくれ。」

「何、何が!?」


晴柊が端正な顔をぐっと近づけた。
頭突きでもされるんだろうか。
口を固く閉じた奏七多は、晴柊の意図が読めないまま、肩をすくめ目を強く瞑った。
なにかしらの衝撃が来るかと身体を硬くして身構えていると、耳元で晴柊がそっと囁いた。


「───俺は、奏七多を信じる。でも俺はまだここを出られない。……確かめたいことが、あるんだ。」

「え……。」

「あとで俺の秘密も話そう。だから、俺のことも信じてほしい。」


そう囁いた晴柊は、奏七多がぎこちなく頷くのを確認してやっと耳元から顔を離した。


「ありがとう、南。」


人との接触に慣れていない奏七多には、異常に緊張する距離感だった。
天然能天気野郎は、他人との距離もバグっているらしい。

奏七多が深いため息をつく横で、晴柊は爽やかに礼を言った。





朝食が終わり、居室に戻ろうとすると辰朗が二人を呼び止めた。
午前の畑仕事を手伝ってほしいと言う。
逃げようとしているのがバレたのかと、奏七多は眉を顰めた。
そこにすかさず割入ったのは、昨日より目の下のクマを濃くした田中だった。


「オジサン、畑はコイツらじゃ足手纏いじゃないですか?」


そう言って今日も晴柊の肩を親しげに叩く。


「ただでさえ、明日の祈祷の準備で忙しいのに。それより家の周りの掃除、やらせた方が良いですよ。昨日、ヒガシの与四朗(よしろう)さんにも言われましたし。」

「あぁ、そうだったな。そうしよう。昨日の雨で桜のゴミもたくさん落ちてるしなぁ。二人とも、箒はこっちの納屋にあるんだよ、ついておいで。」

「……はい。」


田中は口の片端だけを吊り上げると晴柊の背中を軽く押した。
何を考えているのか分からないけど、畑仕事についていくよりは逃げ出す隙がありそうだ。

辰朗に竹箒を渡され、掃除に取り掛かる。
四人の背中が遠くなったところで、奏七多は晴柊に詰め寄った。


「で?さっきの話って?」

「……うむ。えっと、どこから話せばいいのか……。」

「はぁ?結論だけでいいから早くして。アンタの秘密って何なの?」


奏七多に急かされ、晴柊は足元に視線を落とした。
踏まれて傷んでところどころ茶色くなった桜の花びらは、綺麗とは言い難かった。


「俺は、……耳が、いいんだ。」

「…………は?」

「何でも、よく聞こえてしまう。」

「……はぁ。あのさ、ふざけてんの?そりゃあ、さっきもアイツらが帰ってくるのに早く気付いてたし、耳がいいのは事実なのかもしれないけどさ。秘密にするほどのことじゃなくない?何?それと、この村から出られないことと何の関係があるの?」


奏七多の苛立ちを含んだ声に、晴柊は顔を上げた。
澄んだ瞳は少し切なげで、奏七多の毒気は削がれる。
言い過ぎたかもしれない。
奏七多にとっては大したことではないが、晴柊自身にとっては秘密にしたいほどのことなんだから。

少し反省し、口を閉じて箒で地面を掃いた。
周りを見渡すと、この家の近所の家も、畑仕事や朝の家事に精を出している。
村人同士声を掛け合い、助け合って、支え合っているように見える。
しかし裏を返せば、この共同体は個々の境界線がひどく曖昧だった。
現に奏七多たちも、常に近隣住民たちの視線を感じた。
まるで、監視されているようだった。


「確かにお前の言う通り、それ自体は秘密にするほどのことではないかもな。」

「え?う、うん……。」

「でも厄介なのは、この耳は他人の秘密まで勝手に拾ってしまうところなんだ。」

「………。」

「お前がさっき言いかけた事、分かっているつもりだ。お前が連れて行かれた奥の部屋から、お婆さんの声が聞こえた。くぐもっていて、辛そうな声だった。その人のことじゃないのか?」

「え……。あ、あの距離で、聞こえてたってこと……?」

「ああ。お婆さんが床を這う、布と畳の擦れる音も聞こえた。半身を引き摺るような音だったから、恐らく足が悪いんだろう。それに『幹人』さんという人が恋しいみたいだったな。お前と会った後、ずっとすすり泣いていた。……気の毒なほど、悲しげに……。」


奏七多は絶句した。
「耳がいい」なんて言い方では甘すぎる。
あの部屋は、晴柊のいた部屋から廊下を挟んだ先の奥の部屋で、更に襖も閉まっていたし、テレビもついていた。
布切れの音まで聞こえるなんて、「異常」のレベルだ。


「この耳のせいで、俺は他人の秘密まで聞き取ってしまうことがあるんだ。……それで、清志朗さんの家でも、聞いてしまった。恐らく、清志朗さんの秘密を……。」


ごくりと唾を飲み込んだ。
周りの空気が急に冷たく感じ、皮膚がゾワゾワする。
これ以上、この話を聞いていいんだろうか。
箒の柄を握る手に力がこもる。
恐る恐る晴柊を見上げると、晴柊はまっすぐな視線を奏七多に向けていた。


「あの家にはもう一人、人がいる。」


晴柊の背後には泉深山。
その麓に鎮座する、清志朗の屋敷。


「閉じ込められているんだ。あの家の、……地下に。」


二人の間に、山から生ぬるい風が吹き込む。



───はやく、はやくおいで。おにぃちゃん。