目無し村


窓から見える空には、厚い雲が覆い始めていた。
懐かしい夢を見ていた気がする。
奏七多は頬に違和感を覚え、手を当てると少し湿っていた。
背中の畳の感触と見慣れない天井に、己の不運な現状を思い出し深いため息をつく。
少し寝ても晴れることはない閉塞感。それに加えて、何故かほんの少しの寂寥感もあった。
こんな状況のせいだろうか。


「南、起きたんだな。」

「……何してんの。」


部屋に掛けられた時計を見るに、一時間以上昼寝していたらしい。
晴柊の声に体を起こすと、窓を背に正座する晴柊の姿を見た。床に置いたスポーツバッグを机代わりに、眉間に皺を寄せ何かを書き込んでいる。


「課題をやっていたところだ。」

「は?課題?」

「ああ。合宿でやるはずだった化学のワークだ。」


数秒、言葉が出なくなる。
つまり軽く絶句していた。
コイツ、マジで言ってんの?
こんな変な村に閉じ込められて、平常運転を貫いてるなんて、神経図太過ぎない?


「勉強やってるってこと?こんなとこで、こんな状況で、よくそんなことできるね?」

「ははっ。確かに勉強には不向きな部屋だけど、本当なら俺は勉強合宿に行くはずだったからな。だから、こんな机もない夕日の眩しい部屋でも、課題くらいはやるべきだろ?」

「はぁ……、違うって。そういう意味じゃないの。『こんなとこ』っていうのは、『こんな場所』ってことじゃなくて……。」


奏七多は思わず頭を抱えた。晴柊がわざととんちんかんなことを言ってる訳じゃないのは、顔を見れば分かる。
整った顔にキョトンとした目でこちらを見る晴柊には、悪意や誤魔化し、ましてや嘘なんて微塵も感じられなかった。
ふぅっと息を吐き、説明を諦めると少し脱力した。


「まぁいいや。てかアンタ、あの二人のところに行ったんじゃなかったの?話はもう終わったわけ?」

「田中さんと佐藤さんのことか?それならまだ行ってない。南と一緒に行こうと思ったから。」

「え、なんで?俺は別に、あの人達の話には興味ないけど。」

「変わった人達だったけど、『面白い話』を聞かせてくれると言っていた。それなら、南にも聞いてほしいと思って。ずっと不安そうなお前も、少しは気が紛れるかもしれないじゃないか。」

「……は?」

「なんか、お前が腹抱えて笑ってるところ、見てみたいなって思って。」


少し照れを滲ませながらも、優しく語る晴柊。
相変わらず文脈の理解力はポンコツで、言ってることも理解し難い。
しかし、奏七多は何故か心が少しだけ、心が軽くなるような気がした。


「あのさ、あの二人の言ってた『面白い話』って、ギャグとか漫談じゃないって分かってる?爆笑するような話じゃないから。アンタ読解力無さ過ぎない?」

「なっ……!」

「化学より先に、国語の勉強しなよ。そんなんだから、成績悪いんだよ。」

「成績が悪いのはお前も同じだろ。だから勉強合宿に行くことになってるんだから。」


何故、少し心地良い気がしてしまうんだろう。
気持ちの揺らぎを見透かされないよう、目を逸らし、得意の憎まれ口を叩いた。
売り言葉に買い言葉。案の定、単純な晴柊はムッとした顔で言い返してきて、奏七多は口の端が微かに緩むのを感じた。


「悪いけど、俺はアンタと違って勉強できなくて参加してるわけじゃないから。」

「え!それじゃあ、自主的に参加したってことか!?……なるほど、楽しみにしてた合宿に参加できなかったなら、不貞寝もしたくなるよな……。」

「……。」

「あ、そうだ。それならこの問題、教えてくれないか?合宿に自主参加するくらい勉強が得意なんだろ?」

「ヤだよ。なんでアンタのためにそんなことしてやんないといけないの。自力でやって。」


本当は、素行不良のせいで進級を楯に取られ強制参加させられているのだが、それを自ら申告する必要もないだろうと黙秘する。
晴柊の頼みを軽く一蹴し、部屋を出ようと立ち上がると、目の前の襖がノックされ開かれた。


「お前らいつまで待たせんだよ。早く来い。」


不機嫌そうな田中が、覇気のない目で二人を見た。


「南、どんな話か楽しみだな!」

「……はぁ。はいはい。」


晴柊が爽やかに笑って能天気なことを言うのを見ると、不思議と苛立つことさえ無駄に思えた。


自室を出てすぐの向かいの部屋は、奏七多たちの部屋と左右対称な全く同じ部屋だった。
数日以上の滞在を想定するような旅行カバンが二つ置かれており、その横で眼鏡の男は顔を伏せ、薄い文庫本を読んでいた。
本の影からチラリと目だけでこちらを伺うと、直ぐに本に視線を戻す。無口な男。


「適当に座れよ。」


窓を閉めた田中は、晴柊を見てから床に胡座をかく。自分の前の床を顎で示し、二人に座るよう促した。
佐藤に読書をやめる気配はなく、話の輪に入る気はないらしい。


「なぁ、お前ら、この村に来て変なもん見たり聞いたりしたか?」

「「え?」」

「何でもいい、面白ぇネタがあったら言ってみろよ。」

「ネタ……?」

「変な声が聞こえたとか、あるはずがねぇもんを見たとか、妙な噂話を聞いたとか。もしくは、誰かから秘密の話をされたとか、さ。」


色白の男は、薄暗い目を愉快そうに細めて言った。
やはり妙な男だ。
清志朗の質問は明確な目的を感じるものだったが、田中の質問はどこか回りくどく感じる。
質問をしているようで、その答えには半分ほどしか興味が無さそうだ。
どちらかと言えば、今こうやって話を聞いている奏七多たちの反応を、じっくり観察することを目的にしているようだった。


「それって、お、お化け的な話ってことですか……?」

「無いですけど。俺たちを呼んだのはそんな話をするためですか?」


晴柊と奏七多は同時に各々の答えを口にし、顔を見合わせる。
そんな様子を見て、田中は静かに笑った。それから二人に顔を寄せると、声を潜めて話し出した。


「じゃあ俺から面白ぇ話を聞かせてやるよ。この成芽村はな、昔、〈目無し村〉って呼ばれてたんだよ。」

「は……?」

「目、ですか……?」

「おう。目だよ、目。」


田中が自身の暗い瞳を指した。
墨色に濁り、くまを拵えたその目は、精気を吸い取られた後の抜け殻のようだった。


「この目を奪われて、数日後には命も奪われる。この村に伝わる呪いだ。」

「呪……っ!?」

「村の人間は何も言わねぇけどな、事実だぜ?近くの町のジジババに聞けば口を揃えてこう言う。『目無しには入るな、生きて帰れねぇぞ。』ってな。」


背筋がぞわりと寒くなった。ここで見た、こちらを覗く赤い目が脳裏に蘇る。
動揺が見透かされないよう、奏七多はゆっくり瞬きをしてから田中を見返した。


「そうですか。それで、それを俺たちに言って、何を期待してるんですか。」

「可愛げのねぇガキだな。少しはそっちの黒髪みたいに、驚いたり怯えたりしたらどうなんだよ。」

「お、怯えてないです!」

「フッ。あのな、この話は続きがあんだよ。明後日、山の奥の湖で『祈祷』とやらがあるのは知ってっか?」

「まぁ……。」

「その『祈祷』が始まってからなんだよ。この村から〈目無し〉がいなくなったのは。」


田中の言う祈祷とは、山神様に豊穣を祈願するものだと、清志朗が説明していたものだ。
田中は口数が少なくなった晴柊の背中を軽く叩く。
その所作は、晴柊を気遣うためというより、あからさまな子供扱いを見せつけるかのようだった。


「俺たちは民俗学の研究中に、この村のことを知った。目無しの話や祈祷の話は口外されてない。だからこっそり探ってやろうと思ってんだが、いまいち村人に信用されてねぇんだよ。この村のリーダーの中祈なんてもっての外だ。いやぁ、困った困った。」

「……。それで、誰も警戒しないであろう高校生を使って、情報収集したいってことですか。」

「話が早くて助かるな。でもお前、やっぱもう少し可愛げを持った方がいいぜ。こういう小さな共同体は、異物を嫌うんだ。特に、中祈清志朗みたいな奴はな。」

「余計なお世話ですから。てかそれ、経験談?」

「ハッ、うるせぇよクソガキ。」

「悪いですけど、その頼みは聞けないです。俺たちに何のメリットも無いですし。勝手に頑張ってください。」

「あーそうかよ。それじゃ、せいぜい俺たちの邪魔だけはするなよ。この村の呪いに当てられないように大人しくしとけ。」

「あまり子供扱いしないでもらえますか。自分の身くらい自分で守れます。話はそれだけなら、失礼します。」


一目、晴柊の方を見る。すると晴柊は僅かに目を見開き、直ぐに立ち上がると奏七多と共に田中達の部屋を出た。
自室に戻ると、しとしとと降り始めた雨が、窓に張り付く桜の花を濃く濡らしていた。


「南、なんで田中さんにあんなに攻撃的な態度をとるんだ?」

「別に。強いて言えば、ああいう、他人を舐めてかかってる軽薄な人間が嫌いなだけ。」

「そうか?そんな風には思えなかったけどな……。」


どんな感性してんだよ、と心の中で悪態をつく。
だが、本当は、清志朗の名前が出てきて少し過剰に反応してしまったところはある。
晴柊はじっと奏七多を見てから、何かひらめいたように「あ。」と声を漏らした。


「もしかして、『可愛げない』って言われて拗ねてるのか?」

「は?」

「安心しろ。南は口は悪いけど、中身は結構繊細だろ?そういうところ、南の『可愛げ』だと思う。」

「はぁ!?」

「実は俺の弟も南に似てるところがあるんだ。だから、なんか放っておかないっていうか、親しみ?湧くんだよな。」


爽やかに微笑む晴柊に、奏七多は空いた口が塞がらなくなった。
勘違い甚だしいどころではない。
何言ってんのコイツ。
『親しみ』?てか、『弟に似てる』?


「アンタ本当ムカつくわ。人のこと舐めすぎ。てかアンタが兄ってキャラ?似合わなすぎだから。」

「ははっ。そうそう、そういう感じ。お前らしくていいな。あ、そろそろ夕飯の支度の時間だ。行こう。」

「マジでうざ……。」


何を言っても勝てる気がしない。というか、暖簾に腕押し状態で、意味がない。
それ以上の口撃は疲れるだけだと諦め、不満をため息にして吐き出した。

もう一度、心の中で毒付く。
マジでうざい。







それは、夕飯もシャワーも済ませ、奏七多が部屋にドライヤーを持ち込み髪を乾かしている時だった。


「にぃちゃん。」

「え?」


子供の声がした気がしてドライヤーを止める。
部屋の中を見渡しても、誰もいない。唯一の同室者も、今はシャワーに行っている。

気のせいか。今日は色々あって疲れてるから、そういうこともあるよな。


「……。」


伏せ目がちに南の窓を見た。
今朝、奏七多が赤い眼をみた気がした場所だ。
窓から遠ざかり、部屋の隅、襖の真横に移動した。
別に怖がってないけどね?

心の中で言い訳し、再びドライヤーのスイッチを入れる。
家のドライヤーと違い使いにくい。このドライヤーで明日の朝もスタイリングするのかと思い内心うんざりする。
合宿用のスポーツバッグの中には、ワックスとヘアアイロンも入っているが、この家の小さな洗面所は、朝の身支度には不向きだろう。


───タッ、タッ、タタタタッ!


「にぃちゃん!」

「っ!」


こちらに向かって慌ただしく走って来る子供の足音。自分のすぐ横まで近づいて来たように聞こえ、咄嗟に襖から離れた。


「……。」


ドライヤーを止め耳を澄ますが、階下で辰朗がテレビを観ている音しか聞こえない。
いつまでも開かれない襖。
奏七多は唾を飲み込むと、引手に手をかけ、指先に力を入れた。
するすると静かな音を立てて拓いた視界を、そっと覗き込む。


「だれも……、いない……?」

「南くん、明日の朝ごはんなんだけど。」

「うわぁっ!?痛っ!」


突然、向かいの襖からゆり子が出て来て、大袈裟なほど驚いてしまう。
柱に頭をぶつけ、恥ずかしくて頬が少し熱くなった。


「あら、どうかした?」

「……そこに、いたんすか……。」

「そうよ、明日はキャベツ畑に行くって田中くんたちに話してたの。」

「そう、ですか。……あの、誰かの子供とか遊びに来てますか?」

「ええ?やだァ、寝ぼけてるの?子供なんていないわよ。この村はジジババばっかりなんだからね。それより明日の朝ごはんだけど、私たち畑に行ってるから───、」


ゆり子の言葉に固まる。子供はいない。
それなら、やっぱり聞き間違い……?
それにしてはハッキリ聞こえた。
ハッキリと「にぃちゃん」と呼ぶ、どこか聞き覚えのある声が……。


「あ、もしかして虎太朗さん来てます?お兄さんも一緒に来てるんすか?」

「来てないわよ。あとそのお兄さんって誰?うちの子は一人っ子なの。変なこと言わないで。それじゃ、私達は寝るから。朝ごはんよろしくね。」

「……。」

「南、ドライヤー使い終わったか?」


ゆり子と入れ違いで部屋に戻って来た晴柊を、奏七多は呆然と見上げた。
水気を纏った黒い髪と、清潔感のある白のシャツは、晴柊を少し大人びて見せていた。日中はコンタクトを使用していたようで、今の晴柊は黒縁のメガネを着用しており、彼の実力以上に思慮深く賢そうな印象を与えていた。
しかし、奏七多にとっては、今はそんなことはどうでもいい。


「ねぇ、虎太朗って人、兄がいるって言ってたよね?」

「そうだったな。」

「今おばさんが、虎太朗に兄はいないって言ってたんだけど。」

「ああ、聞こえていた。」

「アイツ、俺たちに嘘言ってたってこと?何でそんな嘘つく必要あんの?意味わかんない。」


奏七多たちをこの村まで運んできた、美しすぎる顔立ちの、悪魔みたいな男。
少なくとも奏七多の中の虎太朗の印象はそこまで落ちていた。
晴柊は眼鏡の縁を指の背で軽く押し上げると、なんてことない様子で続ける。


「あだ名じゃないか?」

「あだ名?」

「虎太朗さんはお前に『お兄ちゃんと呼んでいい』って言ってただろ?虎太朗さんにも、『兄』と呼ぶほど仲のいい人がいたんじゃないか?」

「……アンタにしてはまともな意見すぎてビビるんだけど。」

「ははっ、お前に褒められると照れるな。」


今朝と同じやり取り。
今朝は、奏七多は褒めてないとすかさず言ったが、今は全く褒めてない訳ではない。好きに受け取ればいいと黙ったまま、ため息と共に晴柊にドライヤーを渡した。
晴柊はニコリと微笑み礼を言うと、サラサラの黒髪を無造作に乾かし始めた。


「髪、傷みそう……。」


手持ち無沙汰になった奏七多は、充電が終わったスマホを手に取り、充電器をカバンに放り込んだ。
スマホは、相変わらず無きに等しい微弱な電波しか拾わない。
ネットが使えないとなると、本当にやることがない。
スマホもカバンに放り込むと、近くにあった晴柊の化学ワークが目に入った。
綺麗な顔立ちに反して、晴柊の書く文字はやや無骨だ。そしてその回答は、あらゆる化学の法則を無視した創造主視点の珍回答。
あまりに突き抜けすぎている回答に、奏七多は思わず吹き出した。


「フッ、ヤバ……。」

「あ!」

「っな、何。」


ドライヤーを止めた晴柊は、サラサラの前髪の隙間から輝く目で奏七多を見た。
大発見をしたかのような喜びと驚きが表情から見て取れる。


「お前が笑うところ、初めて見た。」

「は……?」

「良かった。いい笑顔だな。」


白い歯をこぼし、屈託無い笑顔を向ける晴柊に、奏七多は困惑する。
何が『良かった』?
本当、意味わかんない……。


「あのね、笑ったっていうか、アンタが笑われてんの。分かる?」

「ん?」

「この問題。答えが『エタノール』になるところ、全部『メタノール』って答えてんの、ヤバ過ぎない?問題文に『酒の主成分』とまで書いてあんのに。メタノールなんか飲んだら死ぬよ?」

「待ってくれ、エタノールとメタノールって違うものなのか?」

「……マジで言ってんの?アンタ字読める?」

「読めるに決まってるだろ。」

「じゃあ教科書のここ。読んで。」


教科書を受け取り眉間に皺を寄せる。
眼鏡姿の端正な横顔は真面目そのもの。なのに頭の中は、晴れた日の青空のようにすっきりさっぱりしてる。
そのギャップを、奏七多はいつの間にか、面白いと好意的に思うようになっていた。


「じゃあここも間違ってるということか?どう解けばいいんだ?」

「へぇ、自分で気付けたんだ。これはさ、───。」


真剣な表情で質問をしてくる晴柊に、奏七多は面倒くさそうな態度を装ったまま、“仕方なく”答えていく。
そうやって、二人はしばらく穏やかな時間を過ごした。
クラスの話や教師の話といった雑談も交えながら、二人の距離は一足跳びに縮まった。


「南、すごいな!お前が教えてくれた通りに解いたら、始めて正解できた!」


二人が勉強を始めて、気付けば二時間が経っていた。
畳の上で胡座をかく晴柊が、身を乗り出して輝く目で言う。
膝に載せた問題集がくしゃりと音を立てるが、晴柊は気にしてないらしい。


「あと、教えてくれてありがとな。さっきは断られたけど、お前の教え方が上手くて、ついたくさん聞いてしまった。」

「ほんと、バイト代欲しいくらいなんだけど。」


机も椅子もない場所で二時間も勉強となれば、流石に身体は固まり、足は痺れてしまった。
晴柊の思考回路は単純過ぎて、引っ掛け問題には呆れるほど引っかかる。
しかし真剣な顔で説明を聞いて、懸命にペンを走らせる姿に、いつの間にか奏七多は絆されていた。もっとも、奏七多本人は、それを認めていないが。


「もちろんだ。何か礼をさせてくれ。俺がお前の力になれることがあれば、喜んで力になろう。」

「それはどーも。てかそろそろ寝ない?明日みんなは朝から畑行くから、俺たちで朝ごはん作っとけって、おばさん言ってた。」

「そうだな、分かった。ははっ、今日はとても気持ちよく眠そうだ。昨日より賢くなったしな!」

「知恵熱出んじゃないの?」

「熱?風邪はひいてないから大丈夫だ。俺は体力と健康には自信があるんだ。」

「あーそ……。じゃ、電気消すから。」

「ありがとう。」


奏七多が天井の真ん中に吊るされた照明の紐を引くと、室内は月明かりだけになった。
灰色に近い群青が部屋に落ちる。
静かな村。雨は止み、少し開いた窓からは、澄んだ春の風が流れ込んでいた。
疲労感が体を巡る。瞼を閉じ重力に意識を預けていると、奏七多の頭の中で、誰かに呼ばれるような声が響いた。


───おいで。


また、あの声だ。
昼間に聞いた、あの声。
これは、現実?夢?わからない。


───おきて、こっちに、きて。


よく聞けば、子供の声にも聞こえる。
自分と同い年くらいにも聞こえる。
不思議な声だった。


「僕は、山の奥にいるよ。」


急に声が鮮明に聞こえた気がした。


「見せたいものがあるんだ。」


何の話?てか、誰……?


「最後のお願い。叶えてほしい。」


奏七多はやっと重たい瞼を薄く開いた。
そこに見えたのは、月明かりに照らされた輝く白い肌。
星でできた糸のように優しく煌めく美しい髪。
柔らかく緩められた口元と目尻。


「待ってるからね。奏七多“お兄ちゃん”。」


ガラス細工のように繊細で美しい顔立ちの男。

───稲護虎太朗だった。



***



「晴風、大丈夫?」

「へーき!ぜんぜんへーきだもん!」


病室に横たわる小さな男の子は、ベッドの横で手を握る母親に強気で答えた。
歳の頃は三、四歳。両親譲りの白い肌と栗色の髪。そして幼いながら美しい顔立ちをしていた。
ぷっくりした唇を尖らせ不満そうにそっぽを向く。
そんな息子の様子に、母親は下唇を強く引き攣らせると、引き涙をこぼした。


「平気じゃないって、言ってるでしょ!」


母親は少年の頬を包むように持ち、必死の顔で訴えた。
少年はビクリと肩を震わせる。
母親を見るビー玉のように澄んだ瞳は、縁までいっぱいに涙を溜めていた。


「……ご、ごめ……ごめ、なさ……うわぁああん!」

「晴風、晴風……、ごめんなさい、痛かったのは晴風なのに、ごめんね……、晴風……!」


母に抱きしめられた少年は嗚咽混じりに謝り続けた。
それは母親も同じことだった。


「ぼく、にぃちゃんといっしょに、あそび、たくて……!」

「うん、うん、そうだよね。ごめんね。ごめんね。……丈夫な体に産んであげられなくて、ごめん………。」


親子の涙声は、病室の外まで響いていた。
ベンチに座る黒髪の少年は、床に届かない足をぶらぶらと揺らし、擦りむいた膝を眺めていた。
傷口はまだヒリヒリと痛い。
木の根っこで打ちつけた脛も、まだじんじんと痛む。
怖かった。泣きたかった。
けど、泣かなかった。
お兄ちゃんは、泣いちゃいけないから。


「お兄ちゃん、パパは?」

「車。お財布、取ってくるって。」

「そっか。」


少年に話しかけたのは、先ほどまで弟の診察をしていた若い医師だ。
少年の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。


「お兄ちゃんも痛かったね。絆創膏貼るかい?車の絵がついた絆創膏があるよ。」

「……いらない。」


そんなものを貼っても、痛いのは治らない。
子供騙しだ。


「晴風くんを木登りに誘ったのは、お兄ちゃん?」

「……。」

「お兄ちゃんは、木登りが上手なんだね。晴風くんにも教えてあげようと思ったのかな?」

「……カブトムシ。」

「ん?」

「カブトムシが、いるかと思って。」

「ああ、そうか。かっこいいもんね、カブトムシ。先生も好きだよ。」

「クワガタレンジャー観てる?」

「……ごめんね、知ってるけど、観てはないんだ。」

「……。」


医師は眉を下げ、曖昧に笑った。
大人がよくやる顔だ。


「お兄ちゃん、晴風くんの体に、お守りが入ってるって話、ママから聞いてるよね?」

「……うん。」

「そのお守りはね、晴風くんが元気にいるために、とっても大切なものなの。だからお兄ちゃんも、晴風くんが危ないことをしないように見ててあげてほしいんだ。」

「……。」


黙り込んだ少年を少し見つめてから、医師は脇に抱えていた書類を取り出した。
難しい言葉がたくさん並んだ書類。
その中で、小さな手帳を取り出す。
ページをめくると、指先で、数字の羅列を指差し少年に示した。


「ここ、見て。これは、晴風くんの体に入ってるお守りのお名前。」

「……名前?『ぺーすめーかー』じゃないの?」

「おお、よく知ってるね。そうだよ。ペースメーカーって言うの。でも、お守りひとつひとつにもお名前があるの。晴風くんのは、これ。何か思い当たる数字じゃない?」

「………。」

「ヒント。この、『0707』は、『7月7日』って───」

「ぼ、僕の、誕生日だ!」

「そう!」


少年の癖のある黒髪を医師はワシワシと撫でた。


「晴風くんを守ってるのは、お兄ちゃんなんだよ。」

「……!」

「晴風くんがこのお守りが壊しちゃわないように、お兄ちゃんは守ってあげてね。」

「……う、うん。分かった。」

「偉いね。」


少しだけ、体が温かくなった。
怪我したところも、今は痛く感じなかった。
少年の父親が戻ると、医師は車の絵の絆創膏を少年に手渡し、父親と話し始めた。
少年は絆創膏を握り病室のドアに手をかける。
これは晴風に貼ってあげよう。
僕はお兄ちゃんなんだから。

その瞬間、反対側からドアが開かれた。
涙に目を腫らした少年たちの母親の姿だ。


「お母さん!晴風のところ、行ってくる。」

「……晴風は寝ちゃったの。また明日にしよう。」

「でも、ちょっとだけ!」

「もうっ、いい加減、言うこと聞いて!」

「……。」

「貴方はお兄ちゃんなのよ。しっかりして!貴方が危ない遊びをさせると、晴風は……っ、晴風が、しんじゃうかもしれないのよ…!?」

「……っ……。」

「……あ、ごめん、私、また……。」

「僕……、僕はっ……!晴風なんて、弟なんていらなかった!一緒に遊んでくれるお兄ちゃんの方が欲しかった!お母さんのバカ!みんな嫌い!お母さんもお父さんも晴風も、みんなしんじゃえ!!」

「ま、待って!」

「待って、奏七多!!」


両親の止める声も聞かず、少年は走り出した。
その叫びが、病室の弟の耳に届いていることにも気付かないまま……。







祖母の家にやってきたおじさん二人は、申し訳なさそうな顔で、捜査の結果を伝えていた。


「車と遺書が、海の近くで見つかりまして……。」

「もう一度よく探してください!うちの娘は自殺なんてする子じゃありません!しかも子供と一緒になんて……!そ、それに、昨日は三人で泉深山に行ってたって言ったじゃないですか!海なんて……!」

「お気持ちお察しします。しかし……。」


昨日の僕の誕生日に、結局みんなは帰って来なかった。
ばあばは僕と遊んでいたけど、途中からいろんなところに電話したり、出かけたり、忙しそうにしていた。


「お母さん、見つかったの?」

「奏七多……!だ、大丈夫だから。ばあばはお巡りさんと大事なお話してるから、向こうの部屋に行ってて。」

「ねぇ、お巡りさん、お母さん見つかったの?お父さんは?晴風は?生きてるよね?今日も病院に行ってるんでしょ?会いたい、会わせてよ!」

「………。」

「嘘よ……、うっ……、ううう……。」

「……みんな、僕が死んじゃえって、言ったから?」

「奏七多、そんなこと……っ、ゔッ!……ッ、ゔゔぁッ……!」

「お婆さん!?お婆さん大丈夫ですか!?おい、救急車だ!早く呼べ!」

「ばあば……?」


ばあばは突然胸を押さえると、泡を吹いて倒れ込んだ。見開いた目が僕を見る。

オマエノセイダ、オマエノセイダ───。

祖母の痙攣する体が、涙を流す血走った目が、苦しげに呻く喉が、僕を責めている。
呼吸が早くなる。
心臓がバクバク言っている。
視界が、歪む。


僕の、せいだ。

僕があんなことを言ったから。
だから、みんな、僕を置き去りにして……。


耳の奥に砂嵐が吹き荒れ、目の前が真っ暗になった。


「奏七多くん……っ!?」


平衡感覚が消え、床が抜けたような気がした。
自分を支えるおじさんが、必死に僕の名前を呼ぶ。

僕の意識は、そこで途絶えた。



***