***
「すみません、虎太朗さんという方に教えてもらって来ました。電話を貸してもらえませんか?」
稲護の家には、インターホンが無かった。晴柊が玄関扉をノックして呼びかけるが、家人の反応はない。
「留守なんじゃない?」
「いや、そんなはずは……。」
「おーい、そこの二人。旅行のお客さんかい?」
晴柊が不思議そうに玄関扉に近付くと、田んぼを挟んだ向こうから男性の声がした。
声の主は、竹編みのカゴを背負った体格のいい五十代程の男性。
「稲護さん家は畑に行ってるけど、呼んでこようか?」
「あ、ありがとうございます!あの、僕たち間違えてここに来ちゃって。スマホも繋がらないから、電話を借りに来たんです。」
「あぁ、そういうことかい。この辺は電波が悪いらしいからね。外から来た人はよく困っているよ。ハハハ。」
会話を続けながら、大男は二人に向かい歩いてくる。
よく通る声に凛々しい眉。威圧感のある見た目ながら、物腰柔らかな口調で良く喋り、親しみやすそうな男だった。
「道中もダメだったかい?電波を拾う場所もあるらしいけど、僕ら村人はスマートフォンを使わないから知らないんだよなぁ。」
「え!スマホ無しで生活してるんですか!?僕のスマホはずっと圏外で繋がらないんです。」
「俺のは圏外じゃないですけど、電波弱すぎて無理でした。」
「ハハハ、そうかそうか。いやぁ不便な所で悪いねぇ。ここで生活する分には困らないんだけどね。ところで、君たちはどうやってここまで来たんだい?」
「僕たちはO市の××高校なんですけど、学校の勉強合宿に行こうとしてバスを乗り間違えて、しかも寝過ごしちゃって。それで虎太朗さんという人がここまで連れて来てくれました。」
「虎太朗が?ふぅん、そうだったのか。」
二人の目の前まで辿り着いた男は、朗らかな笑顔を浮かべ会話を続ける。
他人に良い印象を与える微笑み。しかし奏七多の目には胡散臭く映った。
虎太朗の名前が出た時の、ほんの一瞬の鋭い視線を見逃さなかったからだ。
「それなら、学校の先生に連絡しないとだね。分かった。稲護さん、お邪魔するよ。」
「「え?」」
大男は躊躇いもなく稲護家の玄関扉を開け、中に入る。
勝手知ったる様子で、玄関入ってすぐの廊下に鎮座する電話に手をかけた。
は?人ん家だよね?てか鍵は?
「学校の電話番号は分かるかい?」
「あ、えっと、はい。でも、いいんですか?その、勝手に入っちゃって……。」
「ハハハ!大丈夫だよ。この村にあるものは、みんなのものだからね。小さな村だから助け合いが大事なんだ。」
「そうなんですか。虎太朗さんが『村の人は家族みたいに仲がいい』って言ってたけど、本当だったんですね!」
「電話、俺がかけます。借りてもいいですか。」
「ああ。どうぞ。」
男から受話器を受け取り、学校の番号を押す。
その横で晴柊は男に村の話を聞いて笑い合っている。
コイツ、本当に他人と打ち解けるの早いな。
愛想がいいと言うか、警戒心がないというか……。
『はい。××高校です。』
「あ、一年四組の南奏七多と、一組の兎羽根晴柊です。今日、勉強合宿に参加する予定だったんですけど────。」
電話に出た教師に事の顛末を伝える。教師は心配する言葉を並べるが、その声には、猜疑心や面倒くさがる気持ちが透けて見えるようだった。
それもそうだろう。特に奏七多には、心当たりがある。
校則違反の格好で、授業は適当な嘘を並べてサボったり休んだり。教師からの信頼が薄いことは自分でもよく分かっていた。
現に、今回だって進級がかかっていなければ、適当にサボるつもりであった。
「親には自分から言うので連絡しなくていいです。夕方のバスでそっち帰ります。」
「あ、南くん。ちょっと替わってくれるかい?」
「え?」
柔らかく断り、しかし有無を言わさず受話器を奪われる。
電話口に手を当てて、「おじさんに任せてくれ。」と和かに言ってから一つ咳払いをした。
「成芽村代表の中祈 清志朗(なかおり・せいしろう)です。突然失礼します。ええ、はい。実はうちの村はバスの便が非常に少なくてですね。次のバスが出るのは三日後なんです。はい、はい。それでね、よければ、二人にうちの村の手伝いをしてもらいながら、帰りのバスが出る日まで泊まってもらおうと思ってて。ええ、そうなんです、却って危険ですからね。え?ハハハッ、大丈夫ですよ。はい、親御さんにもお伝えください。ええ、ええ。あ、こちらの連絡先ですが…。」
慣れている。
そう感じさせる口調だった。
声の柔らかさも間の取り方も、すべてが完璧だ。この人と話して、悪い印象を持つ人間はまずいないだろう。
それが逆に、奏七多の不信感を買った。
「では失礼します。……ハハハ、勝手に悪かったね。でも悪い話じゃないだろう?」
「帰りのバスは六時間後ですよね。どうしてそんな嘘吐くんですか。」
「あ、南。それは俺が見間違えていたみたいなんだ。ほら。ここに、土日祝日と火、木曜日は運休って書いてある。」
「は?ガチで?」
晴柊が差し出したのは一枚の紙。あのバス停の時刻表だった。
奏七多の電話中に、清志朗が電話台の下の棚から何かを取り出していた。その時取り出したのがこの紙だったのかと頭の片隅で考える。
時刻表には、確かに右端に小さな文字で断りが入っている。
ていうか週に三日しかバスないわけ?
「すまない。」
「はぁ……。アンタに騙されるの二回目なんだけど。てか、ガチでクソ田舎すぎる。怠すぎ。」
「ハハハ!クソ田舎か。南くんは素直だね。」
「あ、す、すみません。」
「いや、いいよ。本当のことだからね。それより、さっきの話、お願いしてもいいかい?この村に泊まってもらう間、手伝いを頼みたいんだ。」
「はい!もちろんです!できる事ならなんでも言ってください。俺は、体力と力仕事には自信があります!」
「ありがとう兎羽根くん。すごく助かるよ。実は明後日、この村で大事な大事な祈祷があるんだよ。」
「祈祷ですか?お祭り的な?」
「そうだよ。山神様に一年の豊穣を祈願する大切な祈祷なんだ。今はその準備で、村中のみんな忙しくてね。君たちが力になってくれると、とっても嬉しい。」
晴柊が二つ返事で了承し、奏七多は仕方なくそれに追随した。
三人が稲護家の玄関で話し込んでいると、遠くから軽トラのエンジン音が聞こえてきた。
清志朗に促され玄関の外に出ると、白い軽トラからは白髪の年配の男女が降りてきた。
虎太朗の両親というからどんな美男美女かと思ったが、日に焼けた肌にシミとシワの目立つ二人の顔は、至って平凡な年配夫婦という印象だった。
「まあまあ!清志朗さん、こんにちは。」
「ゆり子、お茶だ。お茶ををお出ししなさい。清志朗さん、客間にどうぞ。」
「いやいや、大丈夫だよ。すぐ戻るから。」
清志朗が断っても、ゆり子と呼ばれた女性は慌ててお茶の準備に行ってしまった。
電話で言っていた、「村代表」というのは本当の事らしい。この年配の夫婦は明らかに清志朗より年上だが、双方のやりとりを見れば、その上下関係は逆であることが明らかであった。
「辰朗さんたちだけかい?田中くんと佐藤くんは?」
「畑の周りの散歩をしながら帰りたいって言うので、置いてきました。大丈夫です。じきに帰ってきます。」
「そうかい。ああ、この二人は高校一年生の、兎羽根晴柊くんと、南奏七多くん。虎太朗に案内されてここまで来たらしい。月曜までここに滞在する。すまないが、ここで面倒を見てやってくれ。」
「虎太朗が?それはそれは、うちの愚息がすみませんでした。部屋はもう一つ空いてますから大丈夫です。当日までしっかりお世話させていただきます。」
「うん、助かるよ。夜の会合でも伝えるつもりだけど、二人にも手伝いもしてもらうように頼んでいるから。」
「はい。分かりました。ええと、兎羽根くんと南くんだね。ゆり子、二人を部屋に案内しなさい。」
「はいはい。まぁ本当に若いわねぇ。こっちのお部屋よ、来てちょうだい。」
清志朗に簡単に礼を言い、ゆり子に誘導されるまま二階へ向かう。
晴柊の背を追いながら、目だけでそっと玄関の方を見た。辰朗と呼ばれた爺さんと何やら言葉を交わす清志朗が気になったからだ。
気付かれぬように盗み見るつもりだったが、奏七多の視線は、清志朗の鋭い目にしっかりと捕捉されてしまう。
温度のない目に緊張が走り、奏七多は静かに視線を逸らした。
「うちは民泊なの。狭いし古い部屋だけど、我慢してね。」
「全然大丈夫です!泊めてくれてありがとうございます。」
階段を登った先には左右に襖があるが、奏七多達に当てがわれる部屋は、向かって左の部屋らしい。
左の部屋といえば、窓にオニヤンマの虫除けがついていた部屋だ。そして、赤い眼が覗いていた、あの部屋でもある。
ゆり子が襖に手をかけ、奏七多は緊張しながら、襖が開かれるのを見守った。
「わあ、桜が綺麗ですね!」
「今が一番いい時ね。窓を開ける時は網戸を閉めてね。桜の花びらが入って溜まっちゃうのよ。」
少々身構えていたが、もちろん部屋には誰もいなかった。不審な点もない。
赤い眼を見た南の窓は障子から柔らかな陽が差し込み、西の窓には桜の木の枝がすぐ側まで伸びていた。
ゆり子は一度部屋を出ると、反対側の部屋から布団を運んできた。
すぐに晴柊が手伝いに向かい、奏七多もそっちの部屋を覗き込んだ。
「ここ、誰か泊まってるんですか?」
「そうよ。田中くんと佐藤くんっていう、若い男の子たち。って言っても、あなた達よりは大人だけどね。」
「……そうですか。」
「ここだけの話、どうも駆け落ちの同性カップルっぽいのよね。佐藤くんなんか、いつも田中くんに耳打ちするように話すのよ。コソコソしちゃって、嫌な感じったらないわ。この成芽村に住みたいらしいけど、……ねぇ?」
ゆり子は嘲笑気味に言うと、同調を求めるように奏七多を見た。
奏七多に言わせれば、ゆり子の方がよっぽど「嫌な感じ」であったが、適当な返事をするだけで済ませた。
向かいの部屋の同性カップルなんかより、宿泊者の部屋にズカズカと入り込む宿主の方が、奏七多にとっては深刻な問題だった。
「そういえば、虎太朗さんは帰って来たんですか?」
「虎太朗?あはは。あの子はこの家には帰って来ないのよ。」
「え?」
「お父さんと喧嘩中でね。村の端に私の妹の家があるから、そっちに住んでるのよ。小さな村だから、顔を合わせないなんて無理なのにね。」
「そうなんですか。」
「虎太朗もお父さんも、いつまでも子供で困るわ。顔だけじゃなくて頑固な性格もそっくり。」
やれやれと肩をすくめ笑うゆり子に、晴柊はぎこちない笑みを浮かべた。
「顔は似てないと思います」と言いたげなのが、その表情を見るだけで伝わってきて少し笑ってしまう。
コイツ、愛想笑い下手すぎ。
「今からお昼ご飯作るから、少し待っててちょうだい。」
「それなら手伝います!野菜を切ったり剥いたりならできるので。な?南。」
「え。」
「あらァ、ありがとう〜!助かるわ。人数分作るの、結構大変なのよ。最近の男の子は家庭的なのね。」
「ちょっと、俺はやるなんて言ってないじゃん。」
「でも世話になるんだから、できることは手伝うべきだろ?大丈夫だ、俺も細かい作業は苦手だけど、家庭科の授業でやったことがある。南にも教えてやれると思う!」
「そういう意味じゃなくて、……はぁ。」
白い歯を零し子供のように無邪気な笑顔を向ける晴柊に、反論する気を削がれた。
まあいいか。
数日だけだし、畑仕事とか手伝うよりはマシだろうし。
二人は荷物を置くと、ゆり子と共に台所へ向かった。
*
「アンタよくこれで料理手伝うとか言ったよね!?」
「う……、でも、一応皮は剥けてる……。」
「皮っていうか、殆ど身だから!ジャガイモこんな小さくなってんじゃん!ピーラー当てる時に力入れすぎなんだって。」
「分かった、次は気をつける。よしっ、やってやるぞ!」
「待って、他のは俺がやる。アンタはこっちの鍋、かき混ぜてて。焦がさないでよ!?」
「そうか、分かった。すまない……。」
まだ被害にあっていないジャガイモを手に、奏七多はため息をついた。
晴柊に刃物を持たせてはいけない。
被害はジャガイモだけではない。キャベツの千切りはうどんサイズ、にんじんの銀杏切りは蛇腹、玉ねぎのみじん切りは辺りに破片を飛び散らせ肝心のサイズはバラバラ。
ゆり子が席を外してる間、必然的に奏七多は晴柊のフォローまで行い、ほぼ二人分の作業量をこなしていた。
「南は料理が得意なんだな。」
「俺は普通。アンタが下手なだけだから。」
「でも手際もいいじゃないか。料理、よくするのか?」
「………まぁ。親は基本家にいないし、姉貴も結婚して家出てったし。自分の分だけ、動画の見様見真似で適当に作るくらいだけど。」
「へぇ!すごいじゃないか!手先の器用さもだけど、南って、意外にマメでしっかりしてるよな。」
「は、はぁ!?ってか、俺のこと勝手に評価するの止めてくれない?偉そうなんだけど。」
「確かにそうかもな。すまない。でも本当にすごいと思ったんだ。」
「はー、もーうっさいな。どうでもいいでしょ俺のことなんて。はい、これも鍋に入れて。あと塩とって。」
少しだけ顔が熱くなるのを、拒絶の言葉で誤魔化した。
素直じゃない性格は、今に始まったことじゃない。直ぐに悪態をつく口も相待って、こんなふうに手放しに褒められることは経験がなく、胸の辺りがむず痒かった。
「ありがとな、南。」
「え?」
塩をまな板の横に置きながら、晴柊は爽やかに微笑み、純粋なお礼の言葉だけを残し、また鍋の前に戻ってしまう。
うざ。調子狂う。
バカだアホだと口悪く罵っている相手から、こんな風に笑顔を向けられるのも、初めてのことだった。
意味分かんない。
「あらァ、もうスープもできてるじゃない!助かるわぁ、ありがとう。夕飯の時もお手伝い頼んでもいいかしら?」
「はい!任せてください!な、南。」
「だから勝手に決めんなっての!」
昼食を作り終えると、二人は料理を持って清志朗の家へ向かっていた。
なんでも清志朗の家は、清志朗と年老いた母の二人暮らしで、周りの住民が“厚意で”食事を届けているらしい。
通りで、六人分にしても量が多いと思った。
清志朗の家まで行く途中で何人かの村人に会ったが、昼前に見かけた時とは態度が打って変わって、やたら親しげに声を掛けてくる人ばかりだった。
その割に、どいつも一様に貼り付けたような笑顔なのが気持ち悪いけど。
「なぁ南、清志朗さんの家に行った後、山の中を少し覗いて行かないか?」
「山?」
「虎太朗さんが教えてくれた泉深山。さっき辰朗さんから聞いたんだが、あの山の奥には、すごく綺麗な湖があるらしいんだ。明後日の豊穣祈願もそこでやると言っていた。」
「山登りしに行くってこと?パス。わざわざ疲れに行くなんて───。」
───おいで。
「え?……今なんか言った?」
「言ってないぞ?お前が話してたんじゃないか。」
「……うん。」
「おい、誰だよお前ら。」
「「え?」」
一瞬何かが聞こえた気がするも、荒い口調で声をかけられ思考が打ち切られる。
二人の行手を阻んだのは、目の下にクマを蓄えた色白の男だった。
ポケットに両手を突っ込み、やや猫背気味の姿勢。その後ろには、肘を抱え顔を逸らす背の高い眼鏡の男がいた。
「この村の奴じゃねぇな?高校生か?」
「はい、そうですけど……。」
「ガキがこんなとこに何しに来たんだよ。遠足か?」
色白の男の高圧的な態度にも怖気付くことなく、晴柊はここにいる理由を説明する。
この男は、ここの村人なんだろうか。
それにしてはこの村を「こんなとこ」呼ばわりするし、こんな露骨に攻撃的な態度の人間はいなかった。
「───それで、今から中祈さんの家にご飯を届けに行くんです。」
「ふぅん?中祈の家に……。」
色白の男は一通り晴柊の話を聞くと、顎に手を当て何か考える素振りを見せる。
後ろの長身の男は、銀フレームの眼鏡の奥から、目だけでチラチラとこちらを伺っている。
「よく分かった、間抜けな高校生共。お前らも稲護の家に泊まってるんだろ?俺たちもそこで世話になってんだよ。」
「あ、もしかして、田中さんと佐藤さんですか?」
「あー、そう、それそれ。俺が田中 雪也(たなか・ゆきや)。こっちが佐藤 マサル(さとう・まさる)な。なぁ、面白ぇ話してやるからよ、後で俺たちの部屋に来いよ。」
「え?あ、はい。」
「へへっ、よそ者同士、仲良くやろうぜ?」
清志朗の家に行くと言った途端、最初の態度とは一変して、田中はニヤニヤと口の端を上げ死んだ魚のような目で二人を見た。
ポケットに突っ込んだままだった手を出して、親しげに晴柊の背中をバシバシ叩く。
晴柊は痛がる様子は無いが、田中の態度の変化に少し驚いているようではあった。
「変な人たち。」
「そうか?」
「思わないの?アンタの感性、やっぱ理解できないわ。」
立ち去る二人を振り返ると、ゆり子の言う通り、佐藤がコソコソと田中に何か話しかけていた。
あれで本当にカップル?
二人に気を取られたままいると、急に振り返った晴柊の背中にぶつかってしまった。
「うわっ、熱っ!ちょっと、急に止まんないでよ。」
「……。」
「何?忘れ物?」
「あ、ああ、えっと、なんでもない。すまない。」
「はぁ。スープ溢れたわ。最悪なんだけど。」
「すまなかった。見せてみろ。」
「いいけど、別に。」
ぶつかった拍子にスラックスがスープで濡れる。
自分のハンカチを取り出し、奏七多の服を拭こうとする晴柊を制しながら、目の前の整った顔の同級生を観察した。
人を観察するのは、もはや奏七多の癖だった。昔からそうやって生きてきたからか、いつのまにか人の表情や態度から、嘘を見抜くのが得意になっていた。
晴柊は、何か隠している。
もっとも、コイツの動揺は、誰が見ても分かりやすいだろうけど。
「直ぐ乾くからいいって。それより早く済ませて戻ろ。着替えたいし。」
「分かった。」
帰りに山に寄る話は、そのまま立ち消えとなった。
清志朗の家は、村の奥、森を背にした場所にある立派な家だった。他の家とは一線を画する大きな門が、外からの視線を妨げている。門には「中祈」と書かれた立派な表札が掲げられ、稲護の家と違い、しっかり施錠されていた。
「二人ともありがとう。助かるよ。さぁ、上がって。」
「「お邪魔します。」」
家の中はどこか薄暗く、時計の秒針の音が聞こえるほど静かで、少しひんやりしていた。
広い土間は綺麗に片付いていて、本当に人が住んでいるのかと疑うほどこざっぱりしている。
案内され廊下を進み、茶の間に通された。
「食事は机の上に……おや?南くん、服を汚してしまったのかい?」
「あー、ちょっとこぼしちゃって。」
「そうだったのかい。良かったらうちの服を貸してあげるよ。ついておいで。」
「大丈夫です、歩いてたら乾いてきたんで。」
「いやいや、せめてものお礼だ。来なさい。」
「っ、……はい。」
何だろう、この人の有無を言わさぬ感じ。
家の中の雰囲気も手伝ってか、妙な圧力を感じる。晴柊にはそこで待つよう伝えて、清志朗は奏七多を連れて茶の間を出た。
ぐるりと廊下を回り、広い縁側を歩く。
縁側と言っても、映画やドラマで見るような日向ぼっこができる明るさはここには無い。
雨でもないのに、この家の雨戸は締め切られていたからだ。
「雨戸、閉めたままなんですね。」
「そうだよ。」
それ以上の言葉はなく、廊下の床板を踏む音と、秒針の音だけになる。
光を遮る黒い雨戸は、何かを閉じ込める檻のように見えて背中が寒くなった。
「兎羽根くんと南くんは、仲がいいのかい?」
「別に、違います。たまたま同じバスに乗り合わせただけって感じなんで。」
「そうかい。そうだ、南くんのご両親は何をされてるんだい?」
「……普通の、サラリーマンです。」
「きょうだいは?」
「姉貴がいますけど……。」
「他に親しい友人はいるのかい?」
「……何でそんなこと聞くんですか?」
奥の部屋の襖を開け、清志朗が電気を点ける。振り返った彼は、眉尻を下げ困ったように微笑んだ。
人の警戒心を解くような、柔らかい微笑みだった。
「ハハハ、すまないね。若い子と仲良くなる会話の仕方が分からなくてね。南くんみたいなお洒落でかっこいい子は、何に興味があるのかな。皆目検討もつかないよ。」
「……そうですか。」
「気を悪くしないでくれ。あ、恋人はどうだい?かわいい彼女とか、いるのかい?」
「いないですけど。」
不快だ。
俺自身への興味なんて微塵も感じられない。別の、何か明確な目的に沿って質問されているのを肌で感じた。
なるべく距離をとって、クローゼットを開ける清志朗を後ろから眺める。
後ろにもたれかかろうとすると、背後の襖がぼこんと思ったより大きな音を立てた。
「み……っ、みき、と………!」
「え……、ひぃっ!?」
突然足首を捕まれ、短い悲鳴を上げた。
骨のような指。しわしわの皮膚。
その手は、襖の向こうでねっとりと這いつくばる老婆から伸びていた。
部屋から漂う饐えた臭いが鼻を突き、思わず口元を押さえた。
暗い中にぼんやり浮かぶ乱れた白髪。剥き出しの目。老婆は口の端に白い泡を溜め、苦しげに息を荒げ、奏七多を見上げている。
「い、生きて……、生きて、た……!」
「……っ!」
「止めなさい。」
「あ゛ッ!み、幹人、幹人っ!」
清志朗は簡単に折れそうなほど細い老婆の腕を軽く払うと、ピシャリと障子を閉めた。
心臓が、バクバクと煩く鼓動していた。
「みっともないところを見せて申し訳なかったね。部屋を移ろうか。」
「……。」
「南くん?」
襖の向こうでは、老婆の啜り泣く声がまだ微かに聞こえている。
清志朗に大きな手で肩を叩かれ、奏七多はビクリと身体を震わせた。
「ハハハ、怖がらせちゃったかい?さっきのは僕の義母だよ。認知症を患っていてね。南くんのことも、別の誰かと勘違いしたようだ。すまなかったね。」
「……そう、でしたか……。」
「さぁ、兎羽根くんのところに戻ろう。そうだ。パンは好きかい?」
清志朗に背中を押され、雨戸で締め切られた縁側を歩き、茶の間に戻る。
心の中に動揺は残っていたが、茶の間でテレビを観る晴柊の後ろ姿を見て、やっと気持ちが少し落ち着いた。
「隣は台所なんだ。僕らはこっちにいるから、そこで着替えておいで。」
「……はい。」
言われるがまま、暖簾で区切られた奥の部屋に入る。
広い台所だ。
隣の部屋で晴柊と清志朗が談笑する声が聞こえる。
奏七多は一度だけ深呼吸をすると、手早く着替えを済ませ、二人のいる茶の間に戻った。
「南くん。サイズは大丈夫だったかい?」
「……、はい。……ありがとうございます。」
「南。今、清志朗さんにこのパンを貰ったんだ。美味しいからお前も食べたらどうだ?」
清志朗は奏七多に近づくと、目を細め、優しく微笑んだ。
清志朗の胡散臭い笑顔に、先ほどの老婆の姿が脳裏をちらつく。喉の奥が引き攣った。
「どうかしたのかい?」
「……いえ、ちょっと、疲れてて。」
「南、大丈夫か?」
「そうか。それなら、長く引き止めるのは悪いね。」
清志朗はちゃぶ台に戻ると、用意していたパンを二つ懐紙で包み晴柊に手渡す。
誰がどうみても、彼は親切で温和な男性だった。
「家の前まで送るよ。兎羽根くんも、僕の話に付き合ってくれてありがとう。」
「俺こそ、おやつご馳走様でした。約束通り、明日も来ますね。」
「え……。」
「楽しみにしているよ。明日もおやつを用意しておくから、三人で食べよう。」
「はい、楽しみです!」
にこやかな清志朗に見送られるも、寒々しい清志朗の家を後にする。
清志朗から渡されたのは、干し葡萄を練り込んだパンだった。手作りだろうか。綺麗に焼かれているが、とても食べる気にはなれなかった。
「そのパン、行きに声をかけてくれた葉生(はせ)さんが作ったらしい。猟師だって言ってたけど、パン作りもするなんて、すごいよな!」
「……そう。」
「清志朗さんから祈祷の話を聞いたけど、さっき言った湖に灯籠を浮かべて小舟を出すらしい。すごく綺麗だから、観に来ないかって言ってたぞ。」
「へぇ……。」
明るい調子で雑談をする晴柊に、生返事を返す。
先ほど見た老婆の姿が、声が、臭いが、記憶に焼きついて離れなかった。
能天気な同級生は、形の良い眉を寄せ、不思議そうに顔を覗き込む。
「……南、やっぱ何か変だな?どうかしたのか?」
「……。別に。なんか雨降りそうだし、早く戻ろ。」
「確かに、そうだな。」
晴柊はこの村に来て半日も経たないうちに、ここに順応しているように見える。
そんな奴に、あの老婆のことを言って、どれほどこの不快さや恐怖が理解されるのだろう。
他人の家の問題だ。忘れよう。
稲護の家に戻ると、清志朗から借りた気持ちの悪いズボンを脱ぎ、自分の着替えに履き替えた。
「南、田中さん達のところに行かないか?面白い話って何なのか、ちょっと気になるよな。」
「勝手にしなよ。俺は昼寝するから。」
「え、バスでも寝たのにか?」
「アンタ、マジでウザい。」
「ははっ!お前の悪態にも慣れてきたな。わかった。夕飯の手伝いの前には、ちゃんと起きろよ。」
清々しい笑顔で部屋を出る晴柊から目を逸らす。
早く帰りたい。
つまらない日常だったけど、ここで過ごす時間よりはマシだった。
どこにいても、独りきりであることには、変わりないけど……。
床に寝転がり、窓に張り付く桜を眺めた。
その花びらは、外の窮屈さに耐えかね、部屋に入れてくれと懇願しているように見えた。
ゆっくり瞼を閉じ、憂鬱な気持ちに沈んでいくと、徐々に訪れる眠気に身を任せた。
***
目覚めた時、幼い少年は広い和室に一人きりだった。
一緒に寝ていたはずの両親の姿はなく、しかしそれもいつものことだと、静かにため息をついた。
「起きたかい?」
「うん。」
襖を開けたのは、少年の祖母。
少年は布団から出ると、毛先が跳ねた黒い髪を、小さな手でぐしゃぐしゃと梳かしながら祖母の元へ向かった。
「お父さんとお母さんは?」
「センミさんにお散歩に行ってるよ。すぐ戻るよ。」
「そう。……お腹すいた。」
「そうだね。朝ごはんできてるから、ばあばと先に食べてようか。」
しわしわの手と手を繋ぎ、冷たい寝室を後にする。
祖母の家は、夏でも少し涼しい。いつもと環境が違うからと、両親は体の弱い弟をいつも以上に心配していた。
「お母さん、怒ってた?」
幼い少年は小さな声で尋ねた。
「怒ってないよ。」
「……僕、弟じゃなくて、お兄ちゃんが欲しかった。一緒に遊んでくれるお兄ちゃん。」
「まだそんなこと言ってるのかい?お母さん、悲しんでたよ。だから、あとでごめんなさいしようか。」
「でも……、酷いのはお母さんだもん。」
俯き呟いた言葉は、祖母の耳には届かなかったようだ。少年は悲しみを堪えるように下唇を噛んだ。
「ねえばあば。僕は、本当にお父さんとお母さんの子?」
弟と比べて、大切にされてない気がした。
よく観察すると、髪の色や顔立ちも、両親と弟は綺麗なのに、自分だけが違っていた。
少年は、不安だった。
「まだ言ってるのかい?ちゃんと、お父さんとお母さんの子だよ。お腹が空いているから、不安になっちゃうんだよ。とにかくお食べ。」
座卓には、少年の好物が並んでいた。
本来なら五人で並ぶ机には、自分と祖母だけ。
お腹は空いてるはずなのに、どの料理も口にしたいと思えなかった。
正座したまま、ただただ料理を眺めていると、祖母が「そうだ。」とわざとらしく明るい声を上げた。床から立ち上がり部屋を出ると、包装紙に包まれた四角いものを持って戻って来た。
「お誕生日おめでとう。これ、ばあばからだよ。」
その瞬間、少年の目から涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
「どうしたんだい?どこか痛いのかい?」
焦る祖母なんて気にできないほど、涙は次から次へと湧き出てきた。
誕生日の朝くらい、両親を独り占めしたかった。誕生日くらい、自分を優先してほしかった。
最初のおめでとうは、お母さんに、言ってほしかった。
***
「すみません、虎太朗さんという方に教えてもらって来ました。電話を貸してもらえませんか?」
稲護の家には、インターホンが無かった。晴柊が玄関扉をノックして呼びかけるが、家人の反応はない。
「留守なんじゃない?」
「いや、そんなはずは……。」
「おーい、そこの二人。旅行のお客さんかい?」
晴柊が不思議そうに玄関扉に近付くと、田んぼを挟んだ向こうから男性の声がした。
声の主は、竹編みのカゴを背負った体格のいい五十代程の男性。
「稲護さん家は畑に行ってるけど、呼んでこようか?」
「あ、ありがとうございます!あの、僕たち間違えてここに来ちゃって。スマホも繋がらないから、電話を借りに来たんです。」
「あぁ、そういうことかい。この辺は電波が悪いらしいからね。外から来た人はよく困っているよ。ハハハ。」
会話を続けながら、大男は二人に向かい歩いてくる。
よく通る声に凛々しい眉。威圧感のある見た目ながら、物腰柔らかな口調で良く喋り、親しみやすそうな男だった。
「道中もダメだったかい?電波を拾う場所もあるらしいけど、僕ら村人はスマートフォンを使わないから知らないんだよなぁ。」
「え!スマホ無しで生活してるんですか!?僕のスマホはずっと圏外で繋がらないんです。」
「俺のは圏外じゃないですけど、電波弱すぎて無理でした。」
「ハハハ、そうかそうか。いやぁ不便な所で悪いねぇ。ここで生活する分には困らないんだけどね。ところで、君たちはどうやってここまで来たんだい?」
「僕たちはO市の××高校なんですけど、学校の勉強合宿に行こうとしてバスを乗り間違えて、しかも寝過ごしちゃって。それで虎太朗さんという人がここまで連れて来てくれました。」
「虎太朗が?ふぅん、そうだったのか。」
二人の目の前まで辿り着いた男は、朗らかな笑顔を浮かべ会話を続ける。
他人に良い印象を与える微笑み。しかし奏七多の目には胡散臭く映った。
虎太朗の名前が出た時の、ほんの一瞬の鋭い視線を見逃さなかったからだ。
「それなら、学校の先生に連絡しないとだね。分かった。稲護さん、お邪魔するよ。」
「「え?」」
大男は躊躇いもなく稲護家の玄関扉を開け、中に入る。
勝手知ったる様子で、玄関入ってすぐの廊下に鎮座する電話に手をかけた。
は?人ん家だよね?てか鍵は?
「学校の電話番号は分かるかい?」
「あ、えっと、はい。でも、いいんですか?その、勝手に入っちゃって……。」
「ハハハ!大丈夫だよ。この村にあるものは、みんなのものだからね。小さな村だから助け合いが大事なんだ。」
「そうなんですか。虎太朗さんが『村の人は家族みたいに仲がいい』って言ってたけど、本当だったんですね!」
「電話、俺がかけます。借りてもいいですか。」
「ああ。どうぞ。」
男から受話器を受け取り、学校の番号を押す。
その横で晴柊は男に村の話を聞いて笑い合っている。
コイツ、本当に他人と打ち解けるの早いな。
愛想がいいと言うか、警戒心がないというか……。
『はい。××高校です。』
「あ、一年四組の南奏七多と、一組の兎羽根晴柊です。今日、勉強合宿に参加する予定だったんですけど────。」
電話に出た教師に事の顛末を伝える。教師は心配する言葉を並べるが、その声には、猜疑心や面倒くさがる気持ちが透けて見えるようだった。
それもそうだろう。特に奏七多には、心当たりがある。
校則違反の格好で、授業は適当な嘘を並べてサボったり休んだり。教師からの信頼が薄いことは自分でもよく分かっていた。
現に、今回だって進級がかかっていなければ、適当にサボるつもりであった。
「親には自分から言うので連絡しなくていいです。夕方のバスでそっち帰ります。」
「あ、南くん。ちょっと替わってくれるかい?」
「え?」
柔らかく断り、しかし有無を言わさず受話器を奪われる。
電話口に手を当てて、「おじさんに任せてくれ。」と和かに言ってから一つ咳払いをした。
「成芽村代表の中祈 清志朗(なかおり・せいしろう)です。突然失礼します。ええ、はい。実はうちの村はバスの便が非常に少なくてですね。次のバスが出るのは三日後なんです。はい、はい。それでね、よければ、二人にうちの村の手伝いをしてもらいながら、帰りのバスが出る日まで泊まってもらおうと思ってて。ええ、そうなんです、却って危険ですからね。え?ハハハッ、大丈夫ですよ。はい、親御さんにもお伝えください。ええ、ええ。あ、こちらの連絡先ですが…。」
慣れている。
そう感じさせる口調だった。
声の柔らかさも間の取り方も、すべてが完璧だ。この人と話して、悪い印象を持つ人間はまずいないだろう。
それが逆に、奏七多の不信感を買った。
「では失礼します。……ハハハ、勝手に悪かったね。でも悪い話じゃないだろう?」
「帰りのバスは六時間後ですよね。どうしてそんな嘘吐くんですか。」
「あ、南。それは俺が見間違えていたみたいなんだ。ほら。ここに、土日祝日と火、木曜日は運休って書いてある。」
「は?ガチで?」
晴柊が差し出したのは一枚の紙。あのバス停の時刻表だった。
奏七多の電話中に、清志朗が電話台の下の棚から何かを取り出していた。その時取り出したのがこの紙だったのかと頭の片隅で考える。
時刻表には、確かに右端に小さな文字で断りが入っている。
ていうか週に三日しかバスないわけ?
「すまない。」
「はぁ……。アンタに騙されるの二回目なんだけど。てか、ガチでクソ田舎すぎる。怠すぎ。」
「ハハハ!クソ田舎か。南くんは素直だね。」
「あ、す、すみません。」
「いや、いいよ。本当のことだからね。それより、さっきの話、お願いしてもいいかい?この村に泊まってもらう間、手伝いを頼みたいんだ。」
「はい!もちろんです!できる事ならなんでも言ってください。俺は、体力と力仕事には自信があります!」
「ありがとう兎羽根くん。すごく助かるよ。実は明後日、この村で大事な大事な祈祷があるんだよ。」
「祈祷ですか?お祭り的な?」
「そうだよ。山神様に一年の豊穣を祈願する大切な祈祷なんだ。今はその準備で、村中のみんな忙しくてね。君たちが力になってくれると、とっても嬉しい。」
晴柊が二つ返事で了承し、奏七多は仕方なくそれに追随した。
三人が稲護家の玄関で話し込んでいると、遠くから軽トラのエンジン音が聞こえてきた。
清志朗に促され玄関の外に出ると、白い軽トラからは白髪の年配の男女が降りてきた。
虎太朗の両親というからどんな美男美女かと思ったが、日に焼けた肌にシミとシワの目立つ二人の顔は、至って平凡な年配夫婦という印象だった。
「まあまあ!清志朗さん、こんにちは。」
「ゆり子、お茶だ。お茶ををお出ししなさい。清志朗さん、客間にどうぞ。」
「いやいや、大丈夫だよ。すぐ戻るから。」
清志朗が断っても、ゆり子と呼ばれた女性は慌ててお茶の準備に行ってしまった。
電話で言っていた、「村代表」というのは本当の事らしい。この年配の夫婦は明らかに清志朗より年上だが、双方のやりとりを見れば、その上下関係は逆であることが明らかであった。
「辰朗さんたちだけかい?田中くんと佐藤くんは?」
「畑の周りの散歩をしながら帰りたいって言うので、置いてきました。大丈夫です。じきに帰ってきます。」
「そうかい。ああ、この二人は高校一年生の、兎羽根晴柊くんと、南奏七多くん。虎太朗に案内されてここまで来たらしい。月曜までここに滞在する。すまないが、ここで面倒を見てやってくれ。」
「虎太朗が?それはそれは、うちの愚息がすみませんでした。部屋はもう一つ空いてますから大丈夫です。当日までしっかりお世話させていただきます。」
「うん、助かるよ。夜の会合でも伝えるつもりだけど、二人にも手伝いもしてもらうように頼んでいるから。」
「はい。分かりました。ええと、兎羽根くんと南くんだね。ゆり子、二人を部屋に案内しなさい。」
「はいはい。まぁ本当に若いわねぇ。こっちのお部屋よ、来てちょうだい。」
清志朗に簡単に礼を言い、ゆり子に誘導されるまま二階へ向かう。
晴柊の背を追いながら、目だけでそっと玄関の方を見た。辰朗と呼ばれた爺さんと何やら言葉を交わす清志朗が気になったからだ。
気付かれぬように盗み見るつもりだったが、奏七多の視線は、清志朗の鋭い目にしっかりと捕捉されてしまう。
温度のない目に緊張が走り、奏七多は静かに視線を逸らした。
「うちは民泊なの。狭いし古い部屋だけど、我慢してね。」
「全然大丈夫です!泊めてくれてありがとうございます。」
階段を登った先には左右に襖があるが、奏七多達に当てがわれる部屋は、向かって左の部屋らしい。
左の部屋といえば、窓にオニヤンマの虫除けがついていた部屋だ。そして、赤い眼が覗いていた、あの部屋でもある。
ゆり子が襖に手をかけ、奏七多は緊張しながら、襖が開かれるのを見守った。
「わあ、桜が綺麗ですね!」
「今が一番いい時ね。窓を開ける時は網戸を閉めてね。桜の花びらが入って溜まっちゃうのよ。」
少々身構えていたが、もちろん部屋には誰もいなかった。不審な点もない。
赤い眼を見た南の窓は障子から柔らかな陽が差し込み、西の窓には桜の木の枝がすぐ側まで伸びていた。
ゆり子は一度部屋を出ると、反対側の部屋から布団を運んできた。
すぐに晴柊が手伝いに向かい、奏七多もそっちの部屋を覗き込んだ。
「ここ、誰か泊まってるんですか?」
「そうよ。田中くんと佐藤くんっていう、若い男の子たち。って言っても、あなた達よりは大人だけどね。」
「……そうですか。」
「ここだけの話、どうも駆け落ちの同性カップルっぽいのよね。佐藤くんなんか、いつも田中くんに耳打ちするように話すのよ。コソコソしちゃって、嫌な感じったらないわ。この成芽村に住みたいらしいけど、……ねぇ?」
ゆり子は嘲笑気味に言うと、同調を求めるように奏七多を見た。
奏七多に言わせれば、ゆり子の方がよっぽど「嫌な感じ」であったが、適当な返事をするだけで済ませた。
向かいの部屋の同性カップルなんかより、宿泊者の部屋にズカズカと入り込む宿主の方が、奏七多にとっては深刻な問題だった。
「そういえば、虎太朗さんは帰って来たんですか?」
「虎太朗?あはは。あの子はこの家には帰って来ないのよ。」
「え?」
「お父さんと喧嘩中でね。村の端に私の妹の家があるから、そっちに住んでるのよ。小さな村だから、顔を合わせないなんて無理なのにね。」
「そうなんですか。」
「虎太朗もお父さんも、いつまでも子供で困るわ。顔だけじゃなくて頑固な性格もそっくり。」
やれやれと肩をすくめ笑うゆり子に、晴柊はぎこちない笑みを浮かべた。
「顔は似てないと思います」と言いたげなのが、その表情を見るだけで伝わってきて少し笑ってしまう。
コイツ、愛想笑い下手すぎ。
「今からお昼ご飯作るから、少し待っててちょうだい。」
「それなら手伝います!野菜を切ったり剥いたりならできるので。な?南。」
「え。」
「あらァ、ありがとう〜!助かるわ。人数分作るの、結構大変なのよ。最近の男の子は家庭的なのね。」
「ちょっと、俺はやるなんて言ってないじゃん。」
「でも世話になるんだから、できることは手伝うべきだろ?大丈夫だ、俺も細かい作業は苦手だけど、家庭科の授業でやったことがある。南にも教えてやれると思う!」
「そういう意味じゃなくて、……はぁ。」
白い歯を零し子供のように無邪気な笑顔を向ける晴柊に、反論する気を削がれた。
まあいいか。
数日だけだし、畑仕事とか手伝うよりはマシだろうし。
二人は荷物を置くと、ゆり子と共に台所へ向かった。
*
「アンタよくこれで料理手伝うとか言ったよね!?」
「う……、でも、一応皮は剥けてる……。」
「皮っていうか、殆ど身だから!ジャガイモこんな小さくなってんじゃん!ピーラー当てる時に力入れすぎなんだって。」
「分かった、次は気をつける。よしっ、やってやるぞ!」
「待って、他のは俺がやる。アンタはこっちの鍋、かき混ぜてて。焦がさないでよ!?」
「そうか、分かった。すまない……。」
まだ被害にあっていないジャガイモを手に、奏七多はため息をついた。
晴柊に刃物を持たせてはいけない。
被害はジャガイモだけではない。キャベツの千切りはうどんサイズ、にんじんの銀杏切りは蛇腹、玉ねぎのみじん切りは辺りに破片を飛び散らせ肝心のサイズはバラバラ。
ゆり子が席を外してる間、必然的に奏七多は晴柊のフォローまで行い、ほぼ二人分の作業量をこなしていた。
「南は料理が得意なんだな。」
「俺は普通。アンタが下手なだけだから。」
「でも手際もいいじゃないか。料理、よくするのか?」
「………まぁ。親は基本家にいないし、姉貴も結婚して家出てったし。自分の分だけ、動画の見様見真似で適当に作るくらいだけど。」
「へぇ!すごいじゃないか!手先の器用さもだけど、南って、意外にマメでしっかりしてるよな。」
「は、はぁ!?ってか、俺のこと勝手に評価するの止めてくれない?偉そうなんだけど。」
「確かにそうかもな。すまない。でも本当にすごいと思ったんだ。」
「はー、もーうっさいな。どうでもいいでしょ俺のことなんて。はい、これも鍋に入れて。あと塩とって。」
少しだけ顔が熱くなるのを、拒絶の言葉で誤魔化した。
素直じゃない性格は、今に始まったことじゃない。直ぐに悪態をつく口も相待って、こんなふうに手放しに褒められることは経験がなく、胸の辺りがむず痒かった。
「ありがとな、南。」
「え?」
塩をまな板の横に置きながら、晴柊は爽やかに微笑み、純粋なお礼の言葉だけを残し、また鍋の前に戻ってしまう。
うざ。調子狂う。
バカだアホだと口悪く罵っている相手から、こんな風に笑顔を向けられるのも、初めてのことだった。
意味分かんない。
「あらァ、もうスープもできてるじゃない!助かるわぁ、ありがとう。夕飯の時もお手伝い頼んでもいいかしら?」
「はい!任せてください!な、南。」
「だから勝手に決めんなっての!」
昼食を作り終えると、二人は料理を持って清志朗の家へ向かっていた。
なんでも清志朗の家は、清志朗と年老いた母の二人暮らしで、周りの住民が“厚意で”食事を届けているらしい。
通りで、六人分にしても量が多いと思った。
清志朗の家まで行く途中で何人かの村人に会ったが、昼前に見かけた時とは態度が打って変わって、やたら親しげに声を掛けてくる人ばかりだった。
その割に、どいつも一様に貼り付けたような笑顔なのが気持ち悪いけど。
「なぁ南、清志朗さんの家に行った後、山の中を少し覗いて行かないか?」
「山?」
「虎太朗さんが教えてくれた泉深山。さっき辰朗さんから聞いたんだが、あの山の奥には、すごく綺麗な湖があるらしいんだ。明後日の豊穣祈願もそこでやると言っていた。」
「山登りしに行くってこと?パス。わざわざ疲れに行くなんて───。」
───おいで。
「え?……今なんか言った?」
「言ってないぞ?お前が話してたんじゃないか。」
「……うん。」
「おい、誰だよお前ら。」
「「え?」」
一瞬何かが聞こえた気がするも、荒い口調で声をかけられ思考が打ち切られる。
二人の行手を阻んだのは、目の下にクマを蓄えた色白の男だった。
ポケットに両手を突っ込み、やや猫背気味の姿勢。その後ろには、肘を抱え顔を逸らす背の高い眼鏡の男がいた。
「この村の奴じゃねぇな?高校生か?」
「はい、そうですけど……。」
「ガキがこんなとこに何しに来たんだよ。遠足か?」
色白の男の高圧的な態度にも怖気付くことなく、晴柊はここにいる理由を説明する。
この男は、ここの村人なんだろうか。
それにしてはこの村を「こんなとこ」呼ばわりするし、こんな露骨に攻撃的な態度の人間はいなかった。
「───それで、今から中祈さんの家にご飯を届けに行くんです。」
「ふぅん?中祈の家に……。」
色白の男は一通り晴柊の話を聞くと、顎に手を当て何か考える素振りを見せる。
後ろの長身の男は、銀フレームの眼鏡の奥から、目だけでチラチラとこちらを伺っている。
「よく分かった、間抜けな高校生共。お前らも稲護の家に泊まってるんだろ?俺たちもそこで世話になってんだよ。」
「あ、もしかして、田中さんと佐藤さんですか?」
「あー、そう、それそれ。俺が田中 雪也(たなか・ゆきや)。こっちが佐藤 マサル(さとう・まさる)な。なぁ、面白ぇ話してやるからよ、後で俺たちの部屋に来いよ。」
「え?あ、はい。」
「へへっ、よそ者同士、仲良くやろうぜ?」
清志朗の家に行くと言った途端、最初の態度とは一変して、田中はニヤニヤと口の端を上げ死んだ魚のような目で二人を見た。
ポケットに突っ込んだままだった手を出して、親しげに晴柊の背中をバシバシ叩く。
晴柊は痛がる様子は無いが、田中の態度の変化に少し驚いているようではあった。
「変な人たち。」
「そうか?」
「思わないの?アンタの感性、やっぱ理解できないわ。」
立ち去る二人を振り返ると、ゆり子の言う通り、佐藤がコソコソと田中に何か話しかけていた。
あれで本当にカップル?
二人に気を取られたままいると、急に振り返った晴柊の背中にぶつかってしまった。
「うわっ、熱っ!ちょっと、急に止まんないでよ。」
「……。」
「何?忘れ物?」
「あ、ああ、えっと、なんでもない。すまない。」
「はぁ。スープ溢れたわ。最悪なんだけど。」
「すまなかった。見せてみろ。」
「いいけど、別に。」
ぶつかった拍子にスラックスがスープで濡れる。
自分のハンカチを取り出し、奏七多の服を拭こうとする晴柊を制しながら、目の前の整った顔の同級生を観察した。
人を観察するのは、もはや奏七多の癖だった。昔からそうやって生きてきたからか、いつのまにか人の表情や態度から、嘘を見抜くのが得意になっていた。
晴柊は、何か隠している。
もっとも、コイツの動揺は、誰が見ても分かりやすいだろうけど。
「直ぐ乾くからいいって。それより早く済ませて戻ろ。着替えたいし。」
「分かった。」
帰りに山に寄る話は、そのまま立ち消えとなった。
清志朗の家は、村の奥、森を背にした場所にある立派な家だった。他の家とは一線を画する大きな門が、外からの視線を妨げている。門には「中祈」と書かれた立派な表札が掲げられ、稲護の家と違い、しっかり施錠されていた。
「二人ともありがとう。助かるよ。さぁ、上がって。」
「「お邪魔します。」」
家の中はどこか薄暗く、時計の秒針の音が聞こえるほど静かで、少しひんやりしていた。
広い土間は綺麗に片付いていて、本当に人が住んでいるのかと疑うほどこざっぱりしている。
案内され廊下を進み、茶の間に通された。
「食事は机の上に……おや?南くん、服を汚してしまったのかい?」
「あー、ちょっとこぼしちゃって。」
「そうだったのかい。良かったらうちの服を貸してあげるよ。ついておいで。」
「大丈夫です、歩いてたら乾いてきたんで。」
「いやいや、せめてものお礼だ。来なさい。」
「っ、……はい。」
何だろう、この人の有無を言わさぬ感じ。
家の中の雰囲気も手伝ってか、妙な圧力を感じる。晴柊にはそこで待つよう伝えて、清志朗は奏七多を連れて茶の間を出た。
ぐるりと廊下を回り、広い縁側を歩く。
縁側と言っても、映画やドラマで見るような日向ぼっこができる明るさはここには無い。
雨でもないのに、この家の雨戸は締め切られていたからだ。
「雨戸、閉めたままなんですね。」
「そうだよ。」
それ以上の言葉はなく、廊下の床板を踏む音と、秒針の音だけになる。
光を遮る黒い雨戸は、何かを閉じ込める檻のように見えて背中が寒くなった。
「兎羽根くんと南くんは、仲がいいのかい?」
「別に、違います。たまたま同じバスに乗り合わせただけって感じなんで。」
「そうかい。そうだ、南くんのご両親は何をされてるんだい?」
「……普通の、サラリーマンです。」
「きょうだいは?」
「姉貴がいますけど……。」
「他に親しい友人はいるのかい?」
「……何でそんなこと聞くんですか?」
奥の部屋の襖を開け、清志朗が電気を点ける。振り返った彼は、眉尻を下げ困ったように微笑んだ。
人の警戒心を解くような、柔らかい微笑みだった。
「ハハハ、すまないね。若い子と仲良くなる会話の仕方が分からなくてね。南くんみたいなお洒落でかっこいい子は、何に興味があるのかな。皆目検討もつかないよ。」
「……そうですか。」
「気を悪くしないでくれ。あ、恋人はどうだい?かわいい彼女とか、いるのかい?」
「いないですけど。」
不快だ。
俺自身への興味なんて微塵も感じられない。別の、何か明確な目的に沿って質問されているのを肌で感じた。
なるべく距離をとって、クローゼットを開ける清志朗を後ろから眺める。
後ろにもたれかかろうとすると、背後の襖がぼこんと思ったより大きな音を立てた。
「み……っ、みき、と………!」
「え……、ひぃっ!?」
突然足首を捕まれ、短い悲鳴を上げた。
骨のような指。しわしわの皮膚。
その手は、襖の向こうでねっとりと這いつくばる老婆から伸びていた。
部屋から漂う饐えた臭いが鼻を突き、思わず口元を押さえた。
暗い中にぼんやり浮かぶ乱れた白髪。剥き出しの目。老婆は口の端に白い泡を溜め、苦しげに息を荒げ、奏七多を見上げている。
「い、生きて……、生きて、た……!」
「……っ!」
「止めなさい。」
「あ゛ッ!み、幹人、幹人っ!」
清志朗は簡単に折れそうなほど細い老婆の腕を軽く払うと、ピシャリと障子を閉めた。
心臓が、バクバクと煩く鼓動していた。
「みっともないところを見せて申し訳なかったね。部屋を移ろうか。」
「……。」
「南くん?」
襖の向こうでは、老婆の啜り泣く声がまだ微かに聞こえている。
清志朗に大きな手で肩を叩かれ、奏七多はビクリと身体を震わせた。
「ハハハ、怖がらせちゃったかい?さっきのは僕の義母だよ。認知症を患っていてね。南くんのことも、別の誰かと勘違いしたようだ。すまなかったね。」
「……そう、でしたか……。」
「さぁ、兎羽根くんのところに戻ろう。そうだ。パンは好きかい?」
清志朗に背中を押され、雨戸で締め切られた縁側を歩き、茶の間に戻る。
心の中に動揺は残っていたが、茶の間でテレビを観る晴柊の後ろ姿を見て、やっと気持ちが少し落ち着いた。
「隣は台所なんだ。僕らはこっちにいるから、そこで着替えておいで。」
「……はい。」
言われるがまま、暖簾で区切られた奥の部屋に入る。
広い台所だ。
隣の部屋で晴柊と清志朗が談笑する声が聞こえる。
奏七多は一度だけ深呼吸をすると、手早く着替えを済ませ、二人のいる茶の間に戻った。
「南くん。サイズは大丈夫だったかい?」
「……、はい。……ありがとうございます。」
「南。今、清志朗さんにこのパンを貰ったんだ。美味しいからお前も食べたらどうだ?」
清志朗は奏七多に近づくと、目を細め、優しく微笑んだ。
清志朗の胡散臭い笑顔に、先ほどの老婆の姿が脳裏をちらつく。喉の奥が引き攣った。
「どうかしたのかい?」
「……いえ、ちょっと、疲れてて。」
「南、大丈夫か?」
「そうか。それなら、長く引き止めるのは悪いね。」
清志朗はちゃぶ台に戻ると、用意していたパンを二つ懐紙で包み晴柊に手渡す。
誰がどうみても、彼は親切で温和な男性だった。
「家の前まで送るよ。兎羽根くんも、僕の話に付き合ってくれてありがとう。」
「俺こそ、おやつご馳走様でした。約束通り、明日も来ますね。」
「え……。」
「楽しみにしているよ。明日もおやつを用意しておくから、三人で食べよう。」
「はい、楽しみです!」
にこやかな清志朗に見送られるも、寒々しい清志朗の家を後にする。
清志朗から渡されたのは、干し葡萄を練り込んだパンだった。手作りだろうか。綺麗に焼かれているが、とても食べる気にはなれなかった。
「そのパン、行きに声をかけてくれた葉生(はせ)さんが作ったらしい。猟師だって言ってたけど、パン作りもするなんて、すごいよな!」
「……そう。」
「清志朗さんから祈祷の話を聞いたけど、さっき言った湖に灯籠を浮かべて小舟を出すらしい。すごく綺麗だから、観に来ないかって言ってたぞ。」
「へぇ……。」
明るい調子で雑談をする晴柊に、生返事を返す。
先ほど見た老婆の姿が、声が、臭いが、記憶に焼きついて離れなかった。
能天気な同級生は、形の良い眉を寄せ、不思議そうに顔を覗き込む。
「……南、やっぱ何か変だな?どうかしたのか?」
「……。別に。なんか雨降りそうだし、早く戻ろ。」
「確かに、そうだな。」
晴柊はこの村に来て半日も経たないうちに、ここに順応しているように見える。
そんな奴に、あの老婆のことを言って、どれほどこの不快さや恐怖が理解されるのだろう。
他人の家の問題だ。忘れよう。
稲護の家に戻ると、清志朗から借りた気持ちの悪いズボンを脱ぎ、自分の着替えに履き替えた。
「南、田中さん達のところに行かないか?面白い話って何なのか、ちょっと気になるよな。」
「勝手にしなよ。俺は昼寝するから。」
「え、バスでも寝たのにか?」
「アンタ、マジでウザい。」
「ははっ!お前の悪態にも慣れてきたな。わかった。夕飯の手伝いの前には、ちゃんと起きろよ。」
清々しい笑顔で部屋を出る晴柊から目を逸らす。
早く帰りたい。
つまらない日常だったけど、ここで過ごす時間よりはマシだった。
どこにいても、独りきりであることには、変わりないけど……。
床に寝転がり、窓に張り付く桜を眺めた。
その花びらは、外の窮屈さに耐えかね、部屋に入れてくれと懇願しているように見えた。
ゆっくり瞼を閉じ、憂鬱な気持ちに沈んでいくと、徐々に訪れる眠気に身を任せた。
***
目覚めた時、幼い少年は広い和室に一人きりだった。
一緒に寝ていたはずの両親の姿はなく、しかしそれもいつものことだと、静かにため息をついた。
「起きたかい?」
「うん。」
襖を開けたのは、少年の祖母。
少年は布団から出ると、毛先が跳ねた黒い髪を、小さな手でぐしゃぐしゃと梳かしながら祖母の元へ向かった。
「お父さんとお母さんは?」
「センミさんにお散歩に行ってるよ。すぐ戻るよ。」
「そう。……お腹すいた。」
「そうだね。朝ごはんできてるから、ばあばと先に食べてようか。」
しわしわの手と手を繋ぎ、冷たい寝室を後にする。
祖母の家は、夏でも少し涼しい。いつもと環境が違うからと、両親は体の弱い弟をいつも以上に心配していた。
「お母さん、怒ってた?」
幼い少年は小さな声で尋ねた。
「怒ってないよ。」
「……僕、弟じゃなくて、お兄ちゃんが欲しかった。一緒に遊んでくれるお兄ちゃん。」
「まだそんなこと言ってるのかい?お母さん、悲しんでたよ。だから、あとでごめんなさいしようか。」
「でも……、酷いのはお母さんだもん。」
俯き呟いた言葉は、祖母の耳には届かなかったようだ。少年は悲しみを堪えるように下唇を噛んだ。
「ねえばあば。僕は、本当にお父さんとお母さんの子?」
弟と比べて、大切にされてない気がした。
よく観察すると、髪の色や顔立ちも、両親と弟は綺麗なのに、自分だけが違っていた。
少年は、不安だった。
「まだ言ってるのかい?ちゃんと、お父さんとお母さんの子だよ。お腹が空いているから、不安になっちゃうんだよ。とにかくお食べ。」
座卓には、少年の好物が並んでいた。
本来なら五人で並ぶ机には、自分と祖母だけ。
お腹は空いてるはずなのに、どの料理も口にしたいと思えなかった。
正座したまま、ただただ料理を眺めていると、祖母が「そうだ。」とわざとらしく明るい声を上げた。床から立ち上がり部屋を出ると、包装紙に包まれた四角いものを持って戻って来た。
「お誕生日おめでとう。これ、ばあばからだよ。」
その瞬間、少年の目から涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
「どうしたんだい?どこか痛いのかい?」
焦る祖母なんて気にできないほど、涙は次から次へと湧き出てきた。
誕生日の朝くらい、両親を独り占めしたかった。誕生日くらい、自分を優先してほしかった。
最初のおめでとうは、お母さんに、言ってほしかった。
***



