(未定)

ぐちゃっ、びちゃ。


水気をたっぷり含んだ柔らかな肉が潰される。器の中には、赤黒い液体が飛び散った。


「ねぇお願い、一緒にここを出るって言って…!」


黙々と作業をする男の背後で、女は、声を押し殺すようにして叫んだ。その頬は涙に濡れている。こんな真夜中に起きているのは、人ならざるものしかいないだろう。それでも女は、嗚咽さえ漏れぬよう声を殺していた。


「ここで見たことは、絶対に口外しない。だから、お願い…。」


縋るように男の背中に手を添える。その薬指には、金色の指輪がか細く光った。男は手を止め女に振り返る。


「そうか。」


男は虚な目で女を見、静かに呟く。


「残念だよ。」


静かな山間の村に一度だけ、鈍い音が響いた。
女の声が完全に消えると、小さな室内は、また作業の音だけになる。


ぐちょ、ぐちゃっ。


密やかに、執拗に、何度も、何度も、何度も…。





穏やかな春風が吹き抜けるのどかな山道。その真ん中で、車庫に入るバスを呆然と眺める二人の男子高校生がいた。
一人は着崩した制服に脱色した薄茶色の髪。もう一人は、制服を正しく着こなし、艶のある黒髪に綺麗な顔立ち。
車庫に収まったバスのエンジンが切られると、二人の間には鳥の囀りだけが軽やかに響いた。


「最っ悪、なんだけど。」


茶髪の少年はそう呟くと、隣に佇む黒髪の少年に怒りの矛先を向けた。


「ここどこ!?アンタ勉強合宿参加者じゃないの!?」


急に不満げな態度を剥き出しにされ、黒髪の少年は眉間に皺を寄せた。


「そうだが…。」

「だよね!?アンタが合宿のしおり持ってたからついてきたのに!」

「お前も合宿参加者か?」

「そうだよ!不本意だけどね!」


一枚の桜の花びらがクスクス笑うように二人の間に落ちる。春の麗らかな陽気に、木々の緑が柔らかく煌めいた。

二年生進級前の春休み。
二人は学校恒例の勉強合宿に向かうところだった。
しかし、あろうことか乗るバスを間違え、それに気付く間もなく寝過ごし、この辺鄙な終点で降りることになってしまった。
目覚めた時には、他の客は誰もいない。
ここにいるのは、不運な二人だけだった。


「あー、ほんと最悪っ。真面目そうな見た目だからってついてったのが間違いだった。」


微かな風に消されるほど小さな声で愚痴った言葉は、しかし「真面目そうな見た目」の彼の耳にはしっかりと届いていた。


「『真面目そう』って、俺のことか?ははっ。なんか、照れるな。」

「褒めてねーから!」


爽やかにはにかむ黒髪に、茶髪の男子生徒はげんなりと肩を落とした。
勉強合宿は任意参加の者と強制参加の者がいる。
二人は後者だった。素行不良と、成績不良。
「真面目そうな見た目」の彼は、口を開けば、中身は単純すぎる男であることが、いとも簡単に露呈した。
人の中身を見抜くことに自負のあった茶髪の少年は、珍しく自分の勘が外れたことを呪うしかなかった。


「はぁ…。アンタ名前は?」

「一年一組の兎羽根 晴柊(とばね・はるひ)だ」

「兎羽根ね。アンタのスマホ、電波入る?」

「おい、人に名前を聞いたなら自分も名乗れ。」

「はいはい。四組の南 奏七多(みなみ・かなた)。ねぇ、俺のスマホは圏外なんだけど?」


奏七多と名乗った茶髪の少年は、不機嫌を隠さずそう言うと、面倒臭そうな視線を晴陽に向けた。
整った顔にあどけなさを残す晴柊は、その目を丸く見開いてから自分のスマホを取り出した。


「弱いけど、一応つながっている。」

「それじゃ、アンタから学校に連絡してくんない?あと親に迎え…あー、ダメだ。親も姉貴も今日は来れないわ。」

「とりあえず学校だな。かけてみよう。」


晴柊がスマホを操作する様子を尻目に、奏七多は幅の狭い道路を横断し、道の向こうにあるバス時刻表を確認した。
来た道を戻るバスの発車時刻は、夕方の四時。今から六時間後だ。


「はー、ガチでクソ田舎すぎる。」


ガードレールに手をつき、眼下に広がる緑と桜色の景色に悪態を吐くと深く項垂れた。
自然豊かな風景も、ツンと澄んだ空気も、奏七多の心を落ち着けることはなかった。
舞い散る桜の花びらを目で追いながら、ため息をつく。


「いつから、寝てたんだろ。」


その呟きは、土と緑の香りに溶けて消えた。


「南、何度か試してみたが、向こうに声が届かない。イタズラ電話だと思われたのか切られてしまった。」

「あーそ。それじゃ、電波拾えるところまで歩くしかないね。生憎、時間だけはあるみたいだから。」

「そうか。わかった。」


奏七多が時刻表を指し示すと、晴柊はすぐに承知して、数日分の着替えと勉強道具が入ったスポーツバッグを肩に掛け直した。
狭い道路を歩きだしたその時、陽気な声が二人を呼び止める。


「もしかして、困ってる?」


運転士の制帽を脱ぎ、小首をかしげる二十代前半くらいの男。
造り物のように美しい男だった。
透けるような白い肌に、柔らかい栗色の髪。目鼻立ちがはっきりした小さな顔には、人懐っこい微笑みが浮かべられている。
田舎のバス運転士ではなく、この山の神様や精霊と言われた方が腹落ちする見た目である。


「はい、電話が繋がらないんです。」


奏七多がその美貌に圧倒される横で、晴柊は即座に答えを返した。


「電話か。それなら、僕と一緒に来る?村の固定電話なら繋がるはずだよ。」


白いワイシャツの胸ポケットには、黒のプラ板でできたネームプレートに金色の文字が並んでいた。「中祈 虎太朗(なかおり・こたろう)」。それが彼の名前らしい。


「おいでよ。連れて行ってあげる。」


美しい彼は優しく目を細め、細長い指を誘うように差し出した。
美術品のような綺麗な顔が微笑むと、その名は日の光を受けて真っ白に反射した。


虎太朗の車は、美しい彼には不釣り合いな年季の入った白の軽バンだった。
所々の塗装が剥げ茶色く錆びた車体に、カーステレオから流れる曲は、懐かしい子供向け番組の曲ばかり。しかもどれもテレビサイズだった。


「この曲、懐かしいですね!日曜の朝にやってた、クワガタレンジャーですよね?子供の頃観てました。」

「晴柊くんも観てたんだ。僕も兄ちゃんと観てたんだよ。」


運転席の虎太朗と助手席の晴柊が、子供向けヒーロー番組の曲で意気投合し、会話に花を咲かせる。


「南はクワガタレンジャー知ってるか?」


助手席から晴柊が振り向くと、後部座席に座る奏七多は徐に瞼を閉じ、顔を逸らした。


「また寝るのか?」


何の気なく発された晴柊の言葉に、奏七多はパッと目を開き、不機嫌に睨み返してみせた。
バスで寝落ちしたせいでこんな事態になっている、という自分の落ち度を、他人から指摘されたようで無性に腹立たしかったからだ。


「奏七多くんは疲れちゃった?」


ルームミラー越しに優しく奏七多を見る虎太朗に、奏七多は眉を顰め刺々しく尋ねる。


「なんで俺の名前知ってるんすか。」

「さっき二人が話してる声が聞こえたからだよ。」


虎太朗は、鏡越しに目を合わせ嬉しそうに頬を緩めた。


「それなら、そっちも名乗ってください。」

「おい、南。」


今にも舌打ちでもしそうな奏七多を、晴柊が窘める。
もちろん晴柊の抑止は無視されるが、虎太朗も特に気に留める様子はなかった。


「僕は中祈虎太朗。これから案内する芽成村(めなしむら)で唯一の宿屋をやってるのが僕の実家だよ。」


奏七多は近い声で「そうですか」とだけ答え、背もたれに寄りかかった。
手元のスマートフォンは、たまに弱い電波を拾うものの、ずっと圏外を表示している。
役に立たないそれを、縋るようにぎゅっと握りしめた。


「村の人たちは、みんな家族みたいに仲がいいんだ。奏七多くんも、僕のことは『お兄ちゃん』って呼んでいいからね。」


虎太朗の声はどこまでも優しい。
鏡越しに項垂れる奏七多を見つめるその瞳は、本当の兄弟を見るかのように慈しみに溢れていた。


「わあ、すごい桜並木だ!」

「綺麗だよね。ここを越えたら、芽成村だよ。」


晴柊の明るい声に奏七多も憂鬱な目で窓の外を見る。
桜のアーチが連なる道は、進むに連れ、桜が避けて通る道を示していくようだった。
そして桜の帷が開き、隠されていた村が姿を現す。


「着いたよ。」


桜並木の終わり、獣よけの柵で囲われた小さな村の入り口に車を停めると、虎太朗は二人に車を降りるよう促した。


「申し訳ないけど、僕は他に用事があるんだ。あの小川沿いにまっすぐ行くと、大きな桜の木がある。そこに『中祈』って表札の家があるから。僕の名前を言えば、きっと父さんと母さんが力になってくれるからね。」

「分かりました。親切にありがとうございました!」

「ふふっ、晴柊くんは元気で頼もしいね。」


照れながらも満面の笑みを浮かべる晴柊に、虎太朗は蕾が綻ぶような笑顔を向けた。


「奏七多くんも、またね。」


綺麗な手をひらひらと振る虎太朗を奏七多は一瞥し、語尾しか聞こえない程の小さな挨拶をして車を後にした。


「小川はあれだな。行こう。」

「ん。」


スマホの電波は不安定なまま。奏七多は使い物にならないそれをポケットにしまい、晴柊に続いて村に一歩踏み入れた。
その瞬間、背筋に寒気が走る。
視線。探るような視線が、舐め回すようにこちらを見ているのを感じた。


「どうかしたか?」

「…別に。」


振り返った晴柊に素っ気なく答えて、両ポケットに手を突っ込んだ。不安を感じていることを悟られるのが癪だった。しかし幸いなことに、奏七多は「ふり」をするのが得意だった。気付かないふり、無関心のふり、気の強いふり…。
晴柊の数歩後ろをついていきながら、つまらなそうな目で辺りを見回す。
小さな村の隅を走る小川には、桜の花びらがゆらゆらと流れている。小川の上流を目で追っていくと、小川は大きくカーブし、村の真ん中を通り、奥にある森に続いていた。山を背にした森は、木々が生い茂りその奥は暗い。人が出入りするのであろう森の入り口は、村に向かってぽっかりと大きな口を開けているようだった。

なんか、嫌な感じだ。


「のどかなとこだな。間違えて来てしまっただけだけど、これもいい思い出になりそうだ。」


能天気なことを言いながら先を歩く黒髪は、たまに後ろを振り返り奏七多の様子を伺った。


「何?」

「別に。どんな顔してるかと思って。」

「は?」

「口は偉そうだが、足音は慎重だと思ってな。」


爽やかに言う晴柊に、悪気というものは少しもないのだろう。それでも奏七多は不機嫌に目を細め、大きなため息と共に肩の力を抜いた。
目の前の無神経な男に、己の臆病さを見抜かれた苛立ちが、この村への恐怖を軽く凌駕したからだ。


「何それ、余計なお世話なんだけど。俺のことは放っといてくんない?」

「そんなこと言って、迷子になってくれるなよ。」

「バス乗り間違える間抜けに言われたくないから。」

「間抜け…!?お前だって同じバスに乗ってた間抜けじゃないか!」

「はぁ。アンタ人をイラつかせることだけは天才的だね?」

「お前が勝手にイラついてるだけだろ、人のせいにするな。」


軽い睨み合いの末、黙って歩き出す。他に知り合いもいないこの村で、二人の目的地は同じ。この状況で、幼稚な言い争いほど無意味なものはなかった。


「はぁ。なんでこんな奴と一緒なんだよ。」

「それはこっちのセリフだ。元々お前が俺についてきたんじゃなかったか?」


どんなに小さな声で愚痴っても晴柊の耳にはしっかり届いていたようだ。
晴柊の言葉にぐうの音も出なくなった奏七多は、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「あ。あの家じゃないか?」


晴柊が指し示したのは、小川が大きく蛇行した先に見える、立派な桜の木と、一軒の家。村の真ん中に位置する、二階建ての古民家だった。


「虎太朗さんは宿屋だと言っていたが、見た感じは普通の家っぽいな。」


晴柊の言葉を聞きながら、何の気なしにその家を見上げた奏七多は、息を飲む。
二階の窓。薄く開かれた障子の隙間から、ジッとこちらを覗く、白い眼。


「南?大丈夫か?」


生唾を飲み込み、晴柊を見る。心臓がバクバクとうるさい。晴柊の端正な顔は、心配そうに奏七多を覗き込んだ。


「具合が悪いのか?」

「ねぇ、見えた?」

「何がだ?」

「二階の、窓に…。」

「窓?」


奏七多に言われ、晴柊は改めて二階の窓を見上げる。
一方の奏七多は視線を落としたまま、半歩だけ、黒髪の同級生に近付いた。
帰りたい。気味が悪い。ここは、嫌な感じがする。
怯える気持ちを隠しながら晴柊の横顔を見つめると、晴柊は素早く奏七多へ視線を戻した。その顔は、奏七多とは正反対に、無邪気な喜びに満ちたものだった。


「見たぞ!すごいな!」

「は?」

「オニヤンマだろ!?」


晴柊の意味不明なテンションと言葉に拍子抜けする。張り詰めていた恐怖心が一気に緩み、スマホのカメラを向ける晴陽の横で再び二階を見上げた。
障子はしっかり閉められている。
さっきのアレは、見間違いだったのか?
自問していると、晴柊のスマホから軽やかなシャッター音が聞こえた。目を輝かせオニヤンマを撮影する隣の同級生に、奏七多は冷ややかな目を向けた。


「アンタ、やっぱアホでしょ?」

「なんだ?また八つ当たりか?」

「あれは、どう見てもおもちゃ。虫除けかなんかでしょ。大体、オニヤンマが春にいるわけないから。」

「確かに。そうか。」

「アンタ本当にクワガタレンジャー観てたの?オニヤンマーが目覚めるの、初夏だったじゃん。覚えてない?」

「ははっ、そういえばそうだったな。って、やっぱりお前も観てたんじゃないか!」

「声うるさっ。いいから、もう行こ。」

「なぁ、お前はどのキャラが好きだった?」


奏七多が歩き出すと、晴柊もその隣を並んで歩き出す。
苛つく奴だけど、いないよりマシかもしれない。
そんな風に感じ始めていることに、奏七多はまだ気付いていなかった。





甘い香りの花々に囲まれ、鮮やかな羽の蝶が舞い踊る。
たわわと実った瑞々しい果実を求める小鳥は、差し出された白い指先に止まった。小鳥が可愛らしい声で囀るのを、虎太朗は美しい笑みで見つめていた。栗色の髪は日に透けて金色に輝き、白い肌は幻想的に光を纏っている。まるで、一枚の絵画のような光景だった。


「もうじきだね。」


美術品のように美しい男が、優しく囁く。


「喜んでくれると、嬉しいな。」


甘い甘い、蜜のような声。
指先の小鳥は、逃げるように飛び去った。
次の瞬間には、既に虎太朗の姿は消えている。
美しい花も果実も消え、残ったのは、寒々しい細い幹と、葉の抜け落ちた枝。そして、冷えた剥き出しの地面があるだけだった。