18話 題:剥離
見慣れた道を歩いて、凛人の屋敷に到着する。相変わらず屋敷は白いまま俺たちの帰りを待っていたように思える。屋敷にも、この世界にも、もう俺たちしかいないのではないだろうか。そんな錯覚すら最早当たり前になっている。
「疲れたぁ〜」
伸びをしている凛人は、どこか強張った表情を浮かべている。余程疲れてしまったのか心配になるのと同時に、気づけなかった俺はとても愚かだった。これじゃあ俺の脳は捧げる価値がなくなってしまう。
「水飲も〜。修も飲む?」
「…もらおう」
冷蔵庫を開いて、随分冷やされた天然水が入ったペットボトルを凛人は取り出した。ガラスのコップに注がれた水は、凛人を純粋に映し出した。水が照明の光に当てられて輝く様は、凛人を引き立てる素材として十分だった。
「どーぞ」
差し出された水に、もし毒が入っていたとしても、それに気づいたとしても、君のためになるなら、いくらでも飲んでいい。望むのは君の幸せだけだから。
一思いに水を喉に通していく。冷えた水は胃に届いた感覚を鮮明に俺に伝達してくる。
……味もただの水で、特に代わりはないように思える。
「どう?美味しい?」
「…凄く美味しいよ」
「良かった。美味しくて」
「凛人から差し出されたものなら、何でも喜ぶさ」
「…………嬉しい」
目を細めて、凛人はそう呟いた。どんな表情でも彼は美しい。笑っていても、怒っていても、泣いていたとしても。剥離した顔も、きっと。
「……ねぇ、僕の部屋。来て」
君の部屋で良いの?穢れてしまわないかな?俺にとってそこは、究極の聖域だというのに。……それでも君が良いと言うなら。
「……良いよ」
凛人が席を立って、俺を置いていかないようにいつもより遅く歩いてくれた。先導して着々と部屋に接近していく。
過去のこの屋敷は、不気味な声が響いていたというのに。今では、歩く音と動いた時の服の擦れた音しか聞こえない。でも、呼吸の音は聞こえない。そこにいるのにまるで死んでしまったような錯覚は、もう慣れた。
引き戸を開いた時の音が屋敷内に響くだけで、吸い込まれることはなかった。
凛人の部屋は病室のようで、光を通さないカーテンがかけられていた。無機質とは呼べないその部屋は、命の重みを感じた。
「…何で部屋に呼んだの?」
「渡したいものがあったから」
なんだろうか。沢山の蟲の死体?死んだ鳥の頭?猫の足?例えなんだろうが、喜んでみせる。
「これ。修に似合いそうだからあげる」
渡されたのは、脳内で挙げたものなど一蹴した、凛人と似て非なる白いヒナギクだった。枯れてもいない、生きている、白いヒナギク。
「予想と全然違った。俺もまだまだだな」
「サプライズを当てられたら困るなぁ」
もう、舞台は完成した。後は言えばいいだけだ。
「…凛人にさ、前から言いたいことがあるんだ」
「なぁに?」
何を言うか、もう予測されているであろう自信に満ちた笑顔だった。
今だけは、余計な言い回しをしてしまいそうな脳を止めて、ただ直球でぶつけるべきだ。それがきっと、最善の選択だろう。
「俺…。凛人の、ことが」
この部屋の重い空気が、俺にのしかかってくる。
止めた脳が動こうとしてしまう。なんでこんなに緊張してしまうのだろうか。緊張なんて、今までしたことなかったのに。鼓動が加速した心臓の音も、きっと俺以外に聞き取られてしまう。
凛人は変わらない笑顔で俺の言葉を待っていた。ずっと待たせていたのに、凛人の前だけ意気地無しな俺を、今こそ殺すのだ。
「好きだ」
「俺と付き合ってください」
そう、言った後。重い空気が凍てついた氷塊に変化してさらに俺を押しつぶそうとする。
スラックスを引き裂いてしまいそうなくらいに強く握っていた。その手は震えて止まらないのに。
呼吸の音と心臓の鼓動は意図せずに部屋に響いてしまう。目の前の君はどう思っているのかな。情けない?それともまだ、意気地無しのままかな?
嫌な想像ばかりしていると、細く白い手がスラックスを強く握っている俺の手を優しく包み込んだ。冷たかった手も今の状況ならとても温かいものに変化する。
血が滲んでいない紅い唇が動いて、答えを出す。
「…喜んで」
その言葉を聞いたら、途端に重い物は無くなって何処かに消えていった。奇跡なのだろうか、それとも確約されていた未来なのか。どちらでも俺は喜ばないなんてことはできない。
「…本当に?」
「本当に!」
信じきれずに聞き返した俺に凛人はただ純粋に言葉を返してくれた。
「……は…あ」
一体どんな感情の声なのか、自分自身ですら分からなかった。気づけば凛人に抱き着いていた。凛人はきっと俺の事を変わらぬ笑みで見ていると思う。
気になって見れば、見たことない笑顔を浮かべていて。ウェディングドレスのような純白の肌に、一際目立つ紅い唇に俺はもう釘付けになってしまった。
「あっ…ちょっと」
「…うん?」
顔を近づけたら、凛人が戸惑いの声を出した。……いや、流石に早すぎたか。
「恥ずかしい……」
「えっ」
「目。閉じててよ」
言われたまま閉じると同時に凛人の手のひらの温かみを感じた。俺の目元に手を乗せている感覚だ。余程恥ずかしいのだと、新しく知った。
完全に真っ黒で凛人の白すら見えない中で俺は凛人を待つ。待っている間はまるで走馬灯のように凛人との思い出が流れ出てくる。
退屈を壊してくれた君から始まって、徐々に君のことを知って、仲良くなれて、君に飲まれる覚悟はもうとっくにできた。
「凛人…」
「大好きだよ」
その言葉はあの緊張が嘘みたいに自然に零れた。あの俺はもう、死んだのだろう。
すると突然、金属音が部屋に響き渡った。雰囲気にそぐわない冷たい金属の音は他の音を切り裂いて、全ての音を一瞬、無に変えた。
顔に当たっている手が微かに震え、凛人の聞き取れない小さい声が聞こえた。
手が俺の顔から外れて、そのまま目を開けると。
凛人が涙を流していた。
その顔は非情にも、美しく愛おしいものだった。
「どうした?凛人」
啜り泣く声を出している凛人の足元を見ると、銀色のメスが落ちていた。
それには血もついていなくて、俺から血が出ていることはなかった。
「…ごめん、な…さい……」
白い肌に涙が合わさると、ガラスを生み出しているように見える。
「いいのか?」
君になら殺されてもいいのに。俺を君に捧げることを許してくれないのかな。
「……いい…できない………」
でも、君がそうするなら。
「凛人。こっち向いて」
涙が溢れているその美しい顔に俺は優しく、口づけをした。
「俺の唇も、紅くなっちゃったかな」
「………うん。…あかい…」
涙はせき止められて、笑顔がまた戻ってくる。今日の凛人はどんどん剥がれていく。嬉しいくらいに。
「………ねぇ、修」
その笑顔のまま、きっとありのままの思いを伝えてくる。
「死なないでね」
凛人から、「死なないでね」という真反対の言葉が出た。彼はもう俺と一生一緒にいる決意をしてくれたのだ。それだけで俺はもう腹は膨れる。
「俺は一生凛人と生きるつもり」
「死んでも、絶対離さない」
「…僕も!」
きっと俺は計測も観測もできない世界にやっと足を踏み入れることができたのだろう。
「なら、今日は恋人記念日にしないとな」
「…修。ちょっと浮かれてる?」
「魂が体から出ていきそう」
「なにそれ。どっか行かないでよ」
綻んだ笑みを俺に見せてくれる。恋人になった君はより可愛く見える。
やっと、君に届いた。
「この関係は秘密…どころか誰にも分からないかもね」
「僕たちだけで生きていこう」
「そーだな」
未来永劫、君と運命を共にできる。史上最高の贅沢だろう。神様なんてもう気にしない。
剥がれた俺達は、ひたすら前に進むだけだ。
見慣れた道を歩いて、凛人の屋敷に到着する。相変わらず屋敷は白いまま俺たちの帰りを待っていたように思える。屋敷にも、この世界にも、もう俺たちしかいないのではないだろうか。そんな錯覚すら最早当たり前になっている。
「疲れたぁ〜」
伸びをしている凛人は、どこか強張った表情を浮かべている。余程疲れてしまったのか心配になるのと同時に、気づけなかった俺はとても愚かだった。これじゃあ俺の脳は捧げる価値がなくなってしまう。
「水飲も〜。修も飲む?」
「…もらおう」
冷蔵庫を開いて、随分冷やされた天然水が入ったペットボトルを凛人は取り出した。ガラスのコップに注がれた水は、凛人を純粋に映し出した。水が照明の光に当てられて輝く様は、凛人を引き立てる素材として十分だった。
「どーぞ」
差し出された水に、もし毒が入っていたとしても、それに気づいたとしても、君のためになるなら、いくらでも飲んでいい。望むのは君の幸せだけだから。
一思いに水を喉に通していく。冷えた水は胃に届いた感覚を鮮明に俺に伝達してくる。
……味もただの水で、特に代わりはないように思える。
「どう?美味しい?」
「…凄く美味しいよ」
「良かった。美味しくて」
「凛人から差し出されたものなら、何でも喜ぶさ」
「…………嬉しい」
目を細めて、凛人はそう呟いた。どんな表情でも彼は美しい。笑っていても、怒っていても、泣いていたとしても。剥離した顔も、きっと。
「……ねぇ、僕の部屋。来て」
君の部屋で良いの?穢れてしまわないかな?俺にとってそこは、究極の聖域だというのに。……それでも君が良いと言うなら。
「……良いよ」
凛人が席を立って、俺を置いていかないようにいつもより遅く歩いてくれた。先導して着々と部屋に接近していく。
過去のこの屋敷は、不気味な声が響いていたというのに。今では、歩く音と動いた時の服の擦れた音しか聞こえない。でも、呼吸の音は聞こえない。そこにいるのにまるで死んでしまったような錯覚は、もう慣れた。
引き戸を開いた時の音が屋敷内に響くだけで、吸い込まれることはなかった。
凛人の部屋は病室のようで、光を通さないカーテンがかけられていた。無機質とは呼べないその部屋は、命の重みを感じた。
「…何で部屋に呼んだの?」
「渡したいものがあったから」
なんだろうか。沢山の蟲の死体?死んだ鳥の頭?猫の足?例えなんだろうが、喜んでみせる。
「これ。修に似合いそうだからあげる」
渡されたのは、脳内で挙げたものなど一蹴した、凛人と似て非なる白いヒナギクだった。枯れてもいない、生きている、白いヒナギク。
「予想と全然違った。俺もまだまだだな」
「サプライズを当てられたら困るなぁ」
もう、舞台は完成した。後は言えばいいだけだ。
「…凛人にさ、前から言いたいことがあるんだ」
「なぁに?」
何を言うか、もう予測されているであろう自信に満ちた笑顔だった。
今だけは、余計な言い回しをしてしまいそうな脳を止めて、ただ直球でぶつけるべきだ。それがきっと、最善の選択だろう。
「俺…。凛人の、ことが」
この部屋の重い空気が、俺にのしかかってくる。
止めた脳が動こうとしてしまう。なんでこんなに緊張してしまうのだろうか。緊張なんて、今までしたことなかったのに。鼓動が加速した心臓の音も、きっと俺以外に聞き取られてしまう。
凛人は変わらない笑顔で俺の言葉を待っていた。ずっと待たせていたのに、凛人の前だけ意気地無しな俺を、今こそ殺すのだ。
「好きだ」
「俺と付き合ってください」
そう、言った後。重い空気が凍てついた氷塊に変化してさらに俺を押しつぶそうとする。
スラックスを引き裂いてしまいそうなくらいに強く握っていた。その手は震えて止まらないのに。
呼吸の音と心臓の鼓動は意図せずに部屋に響いてしまう。目の前の君はどう思っているのかな。情けない?それともまだ、意気地無しのままかな?
嫌な想像ばかりしていると、細く白い手がスラックスを強く握っている俺の手を優しく包み込んだ。冷たかった手も今の状況ならとても温かいものに変化する。
血が滲んでいない紅い唇が動いて、答えを出す。
「…喜んで」
その言葉を聞いたら、途端に重い物は無くなって何処かに消えていった。奇跡なのだろうか、それとも確約されていた未来なのか。どちらでも俺は喜ばないなんてことはできない。
「…本当に?」
「本当に!」
信じきれずに聞き返した俺に凛人はただ純粋に言葉を返してくれた。
「……は…あ」
一体どんな感情の声なのか、自分自身ですら分からなかった。気づけば凛人に抱き着いていた。凛人はきっと俺の事を変わらぬ笑みで見ていると思う。
気になって見れば、見たことない笑顔を浮かべていて。ウェディングドレスのような純白の肌に、一際目立つ紅い唇に俺はもう釘付けになってしまった。
「あっ…ちょっと」
「…うん?」
顔を近づけたら、凛人が戸惑いの声を出した。……いや、流石に早すぎたか。
「恥ずかしい……」
「えっ」
「目。閉じててよ」
言われたまま閉じると同時に凛人の手のひらの温かみを感じた。俺の目元に手を乗せている感覚だ。余程恥ずかしいのだと、新しく知った。
完全に真っ黒で凛人の白すら見えない中で俺は凛人を待つ。待っている間はまるで走馬灯のように凛人との思い出が流れ出てくる。
退屈を壊してくれた君から始まって、徐々に君のことを知って、仲良くなれて、君に飲まれる覚悟はもうとっくにできた。
「凛人…」
「大好きだよ」
その言葉はあの緊張が嘘みたいに自然に零れた。あの俺はもう、死んだのだろう。
すると突然、金属音が部屋に響き渡った。雰囲気にそぐわない冷たい金属の音は他の音を切り裂いて、全ての音を一瞬、無に変えた。
顔に当たっている手が微かに震え、凛人の聞き取れない小さい声が聞こえた。
手が俺の顔から外れて、そのまま目を開けると。
凛人が涙を流していた。
その顔は非情にも、美しく愛おしいものだった。
「どうした?凛人」
啜り泣く声を出している凛人の足元を見ると、銀色のメスが落ちていた。
それには血もついていなくて、俺から血が出ていることはなかった。
「…ごめん、な…さい……」
白い肌に涙が合わさると、ガラスを生み出しているように見える。
「いいのか?」
君になら殺されてもいいのに。俺を君に捧げることを許してくれないのかな。
「……いい…できない………」
でも、君がそうするなら。
「凛人。こっち向いて」
涙が溢れているその美しい顔に俺は優しく、口づけをした。
「俺の唇も、紅くなっちゃったかな」
「………うん。…あかい…」
涙はせき止められて、笑顔がまた戻ってくる。今日の凛人はどんどん剥がれていく。嬉しいくらいに。
「………ねぇ、修」
その笑顔のまま、きっとありのままの思いを伝えてくる。
「死なないでね」
凛人から、「死なないでね」という真反対の言葉が出た。彼はもう俺と一生一緒にいる決意をしてくれたのだ。それだけで俺はもう腹は膨れる。
「俺は一生凛人と生きるつもり」
「死んでも、絶対離さない」
「…僕も!」
きっと俺は計測も観測もできない世界にやっと足を踏み入れることができたのだろう。
「なら、今日は恋人記念日にしないとな」
「…修。ちょっと浮かれてる?」
「魂が体から出ていきそう」
「なにそれ。どっか行かないでよ」
綻んだ笑みを俺に見せてくれる。恋人になった君はより可愛く見える。
やっと、君に届いた。
「この関係は秘密…どころか誰にも分からないかもね」
「僕たちだけで生きていこう」
「そーだな」
未来永劫、君と運命を共にできる。史上最高の贅沢だろう。神様なんてもう気にしない。
剥がれた俺達は、ひたすら前に進むだけだ。
