恋愛ごっこ

 学期末試験が近付いて、いつもは閑散としている図書館の自習室も賑わいを見せていた。
 数Ⅱのテキストを眺めては、あたしは溜息を吐く。
 密かな決意は既に挫けそうになっていた。

 年が明けたら、最終学年になるのはもう間近。
 夏前までは、このまま附属大学の内部選考試験を受けるんだろうな。と漠然とした思いがあったのだけど、この秋からの予備校通いで、少し自分の中での方向性が変わったのだ。

 外部受験に挑戦してみよう、という云う意志はまだ、担任しか知らない。
 国公立を視野に入れるつもりだから、苦手教科の克服は大前提だった。

 成績はそれほど悪い方では無かったし、あたしの通う中等一貫校の学力レベルは自慢では無いが、都内でもトップクラス。
 けれど、問題は数学。
 羅列された数式を説明する文章を眺めているだけで眠気に誘われる。
 指数、対数、微分、積分。呪文に聞こえる。

 諦めるようにテキストを閉じて、背凭れに寄りかかるとタイミング良く、上から声が降ってきた。

「口、開いてるぞ」

「如月……と、足立」

 俺はおまけかよ。とどこかの芸人のように突っ込む足立に「そうだな」と無慈悲な台詞を吐いて、如月はあたしの隣の椅子を引く。

「ここ、いい?」

「どーぞどーぞ。大歓迎。ついでに数学教えて」

 言いながら如月の目の前に数学のテキストを置くと「しょうがないなぁ」と目を細めた。

 あの夏の日が過ぎて、それから秋の帰り道を経て、あたし達の間はまた少しだけ距離を戻したような気がする。
 スマホの発信履歴が増える事が無いのは、あたしがまだ如月への想いを引き摺っているからで、それでも三日に一度くらいは、電波に乗ってお互いの通話アプリでは、下らない言葉の文字列が行き交っている。

(今、学食。今日のB定はオムライスだって!)
(寒くなったねー)
(冷え性はまだ克服してないのかよ)
(部活がんばれー。あたしは帰る)
(暗くなるの早くなったし、気をつけて帰れよ!)
(新作のお菓子買ったよ)
(太るぞ? お兄さんに差し入れなさい)
(や・だ!)

 如月が『今日、うち来る?』とメールする事も、あたしが『今日、家に行ってもいい? ていうか行く』と打つ事も、無くなっただけで。
 あたしたちの関係は、友達予備軍と云っても良いのでは無いだろうか。

 積まれたテキストの間から飛び出していた紙をひっぱりだした足立が、唐突に声をあげた。

「え、お前、外部受けんの?」

 足立が手にしているのは、先日配られた進路調査票。
 と云っても外部受験希望か内部進学希望のどちらかに丸をするという簡単な物で、あたしの調査票には迷うことなく外部の方に丸がつけられている。

「ちょ! 声でかいよ! 足立」

 目を丸くさせている足立に消しゴムを投げつけると、彼は何度か瞬きを繰り返した後「すげーな」と感嘆したように声をもらす。

「えーでも何でまた外部受けようと思ったんだよ? うちの大学だったら楽なのに。学部も多いし」
「ま、色々あるんだよ。なーんて」

 じっと押し黙ってしまった如月を横に、あたしは饒舌になる。

「うちの大学にも一応希望学部はあるんだけどさ、私立だから高いのよ学費」

 五年も私学に通っておいて今更のような発言に、足立は首を傾げた。

「だから、第一志望は国立なんだ」

「へええええ」

「しかも、北海道」

「はぁ!? まじで?」

 どうしてまだ誰にも言ってない話を、こんなにもペラペラとあたしの口は語るのか。
 その理由は明白だった。隣に如月が居るからだ。
 何気ない会話のうちで、あたしが遠くに行く意志がある事が伝われば、好都合。

 改まって、北海道の大学を受けようと思うんだよね。なんて云うのは厭らしいじゃないか。

 一応あたしは如月の、親友だった。
 それがどこを間違えたか如月に恋をして、告白して玉砕して。
 今またこうして友達の関係を修復しつつある段階にある。

 そんな微妙な関係の時に「あたし北海道に行こうと思っているんだよね」なんて、口にしたら、絶対に如月は何かのプレッシャーを受けると思う。
 無言の威圧と云うか。貴方があたしをフったから遠いところに行くんです、と厭らしい主張をしているようで。

 それはあたしなりに精一杯考えた結果だったのだ。
 さりげなく、大した事じゃないんだよ。と伝えたかった。

「北海道かー。いいなぁ、美味そうだし」

「受かればだよ」

「ま、そーだけど。応援するから受かれ! んで、遊びに行くから」

「実はこの間の模試でB判定だったの」

「まじで?」

「これが、マジなんだな。後は数学を克服すれば完璧」

「すげぇー」

 だから、教えて? とさり気なく隣を見る。
 右肘を机に付いて、手を頬に当てていた如月がゆっくりと此方を振り返った。
 口の端は緩やかに持ち上げられているけれど、眼鏡の奥の目が、笑っていない。

「いいよ。どこ?」

 あたしは、それに気が付かない振りをする。
 まさかあたしにそんな表情を向けるとは思わなかった。テキストを捲る指が震えてしまいそうだった。

 如月はポーカーフェイスが上手い。
 彼に憧れる女の子と云うのは、物腰が穏やかで、静かに言葉を紡ぐ彼を見ているのだ。
 本心をすっかりと柔らかな笑みで隠して接する如月を、あたしは知っている。

 それがあたしに向けられたのは、中等部の一年の時以来。
 あたしのクラスに編入してきた如月は、誰に対してもそういう態度を取っていた。

 けれど、この五年と云う月日の間で次第に如月の態度はあたしの前で融解していった。

 馬鹿笑いをするようになり、時にはすねたり、ロマンチックな映画に涙したり、甘えたり、悩んだり。
 あたしたちの年頃に相応しい沢山の表情を見せるようになった。それなのに――。

 今、あたしに向けられている笑み。
 今、あたしに応える声。
 取巻きの女の子達を見るような顔付きに、体が全身で拒絶を訴えている。
 これ以上、そんな風にあたしのことを見て欲しくなかった。

 折角また、友達に戻れると思っていたのに、本当にもう無理なのかもしれない。

 馬鹿な事を、した。
 如月に恋したことを後悔するつもりは無いけれど、その気持ちを伝えて、関係をこの手で崩壊させてしまったのは、悔やんでも悔やみきれない。

「あー……なんかもう、何処が判らないのかも判らなくってさ。それを自分なりに理解してから、教えて貰うよ」

 そしてあたしに残された手段は、此処から逃げ出す事だった。

「ちょっと、待て」

 逃げるように図書館を飛び出した瞬間、あたしの足は止められる。

「――本当に、外部受けるのか」

 ぎゅっと掴まれた腕が痛かった。

「聞いてないよ。そんな話」

「だって、言ってなかったもん」

「――友達、なのに」

 一瞬だけ躊躇したように、如月はその単語を口にする。

「だから、今言ったんじゃん。――友達だから」

 あたしの言葉に、如月の方が泣きそうな顔になり、眉根を寄せた。

「手、痛いよ」

 振り払うように如月の腕から逃れる。
 掴まれた場所はじんわりと熱を帯び、あたしの心を落ち着かなくさせる。
 かさりと足元で踊る枯葉をイライラしたように踏みつけながら、もうあの頃みたいに如月と笑い合えないのを漸く理解した。

 唇を引き結んで、絶対に言ってはいけない言葉を吐き出そうと、顔をあげる。

「もう、やめようね」

 如月が何かを答える前に言い切ってしまおう。

「もう、友達で居るの、やめようね」

 その後、どうやってその場を離れたのかは覚えていない。
 家に帰ってベッドに潜り込んで。
 
 泣いても泣いても、涙が枯れる事は無かった。