「駄目、先に寝る」
「そりゃないよー」
チラリと視線を寄越す如月に、悪いね。と答えれば、裏切り者ーとクッションが投げつけられる。
「だって、あたしの課題終わったもん」
夏休みの最終日。
毎年お決まりの光景だった。
暇人のあたしと比べて、強豪校の野球部員である如月の課題は、その三分の一が手付かずのまま。
「自業自得。って言うのは部活頑張ってる如月クンに対してあんまりだから……あたしの課題写させてあげてんじゃん」
そうだけど。と剥れた様にペンを放り出して頬杖を付き、如月はあたしを恨みがましそうに見つめる。
「もう、指が痛いよ」
「小学生みたいな事言うな。つかあたしに甘えるなキモい」
カリカリ、とノートを走るシャープペンシルの音に、少し右上がりの意外にも丁寧な如月の字を思い浮かべながら、あたしはネイビーブルーのシーツにさっさと潜り込む。
夢の世界へと旅立つのに数分もかからなかった。
――重い。あたしは抱き枕じゃ無いってば。
腰に巻きつけられた腕が、重い。
妙な圧迫感に目を開けると、どうやら眼鏡をかけたまま眠り込んでしまった如月の顔が目の前にあった。
肩越しにローテーブルの上を覗くと、几帳面に積み上げられたテキストやプリントが、課題を書き写す事を無事に終えたのを物語っている。
伏せられた睫毛が僅かに震え、それから如月の唇が微かに動いた。
「―――」
それはあたしも知っている女の子の名前で、この前まで彼が付き合っていた他校の子。
背が低くて人形のように色が白くて、とても可愛い子の名前。
「……バーカ。他の女の名前呼ぶなっつーの。あたしだから、いいけどさー」
案外、その子と別れたのも、更にその前の彼女の名を口にしたのが原因だったりして。
つんつんと頬を突付くと、子供のように眉を顰めて首を横に振る。
けれど、あたしの体に腕を巻きつけて眠りこける如月が、目覚める気配は一向に無い。
その瞬間、魔がさしたとしか、思えなかった。
あたしは眠る如月の頬に、そっと唇で触れたのだ。
「……え」
我に返って慌てて唇を手で押さえる。
自分の行動に驚きを隠せず、思わず飛び起きる。
カーテンがぼんやりと明るく見える。
朝が近付いているのだ。
活動し始めた鳥達のさえずりが、その向うに聞こえていた。
汗が額にジワリと浮かぶ。
――如月の寝息は、聞こえなかった。
ゆっくりと隣に寝ているはずの如月に視線を遣ると、眼鏡の奥の瞳が驚かれたように見開かれていた。
今、この瞬間。
きっとあたしも同じ顔をしている。
「あ、あたし……ごめん」
「――どうした?」
如月は視線を和らげる。
今の事がまるで無かったかの様に。
体の中心へ全身の血液が逆流する。
からからになった脳みそは、あたしの口へ無意識の伝令を下す。
そしてうわ言の様にあたしは、言葉を発す。
自分が、何を言っているのか、判らなかった。
「好き、――……なのかも、しれない」
如月が体を起こすのが、虚ろな視界の中に見えていた。
感覚を失った指が、のろのろと持ち上がる。
彼の表情を隠す、無粋なガラスを顔から取り去ってしまおうとしているようだった。
如月はそれに抵抗することなく、ただ静かな目であたしを見ていた。
「立っている姿とか少し長い髪とか――……ごつごつとした大きな手とか」
震える声は、零れ始めた涙に、たちまちの内に消えてしまいそうになる。
何も答えず、じっと耳を傾けるような仕草で、如月はあたしの言葉を待っていた。
「涙脆い所も、ご飯作るのが上手な所も、それから、それから、――」
彼が掠れるような声で私の名前を呼んだ。
躊躇いがちに伸ばされた指が、あたしの頬を撫で、目元を拭う。
「――ごめんな」
そして、あたしの短い夏は終わったのだ。
とても大切な『親友』を永遠に失うと云う、残酷な結果を伴って。



