たぶん如月はいつもと同じ調子だったと思う。
コンビニ行って来るから、留守番しといて。
そう、言い残してあたしと入れ替わるように、部屋を出て行った。
あたしはと云うと、いつもと同じ調子で、勝手知ったるなんとやら。
如月が一人で暮らしている部屋に転がり込んで、お菓子の袋を横に雑誌のページを捲っていた。
場所は数年の歳月を経て獲得した指定席。
部屋の本来の住人を追いやったシングルベッドのど真ん中。
ネイビーブルーのベッドカバーの上に寝転んで、同じ色をした枕に顎を乗せて。
手を伸ばせば届くところには、すっかり汗をかいたグラスが置いてある。
「それにしても、遅いなあ」
この部屋にあった新しい雑誌は凡て読みつくしてしまっていた。
あたしはごろんと体制をうつ伏せから仰向けに変える。
見慣れた天井の色。
蛍光灯の白。
夜更かしする時や語りに入る時に活躍する間接照明はオフにされたままで、この景色の中、自然に佇んでいる。
数時間フル稼働しているエアコンの音と、テレビから流れる誰かの笑い声。
それらの音が、家主を失った部屋の静かさを誇張しているようで、両方の電源をなんとなく切った。
スマホに手を伸ばすと画面には20:14の数字。
一体いつ、如月が部屋を出て行ったのか、正確な時間は判らなかったけど、あたしがこの部屋に押しかけたのが午後七時過ぎだったから、下手したら、小一時間ほど彼はコンビニで時間を潰していると云う事になる。
何度かスマホを開いたり閉じたりを繰り返して、あたしは通話アプリの一番上のアイコンを眺めた。
高校二年の夏ともなると、いよいよ大学受験対策の為に、いかにあたしたち私大附属校の生徒と言えども、多少は忙しくなる。
夏休みに行われる七日間に渡る補講の最終日。
打ち上げと称して友達とカラオケに行った後、あたしはこの部屋に乗り込んだ。
補講に関しては半分ほど免除されている野球部部員である如月とは、終業式の日以来まったく顔を合わせていなかったし、あたしの本格的な夏休みは今日から始まるのだ。
向うにとったら迷惑な話なのかもしれないけど、今朝家を出るとき持ってきたお泊りグッズが詰め込まれたカバンが、フローリングの床の隅にはちゃっかりと置かれてある。
もちろん、母親には女友達の家に泊まると、適当な嘘。
如月とあたしの間に、恋愛感情云々が全くと言って良いほど無いとは云え、そこはお年頃の異性同士。
周囲の目は中々に厳しいのだ。
お風呂こそ一緒に入ったりはしないけど、例えばこの狭いベッドの中で、話し疲れたあたし達は、気がついたら身を寄せあうように寝てしまっていた事もあったりする。
それで何も無いの? と友達に尋ねられ、あたしは決まってうんと頷く。
だって、あるわけ無いじゃない。
相手は如月なんだから。
壁にかけられた時計の長針が6の数字を指し示した頃、スマホを握り締めて、部屋を出た。
合鍵は持っていないけど、部屋に明かりがついていれば、きっと誰も留守にしているとは思わないだろうから。
大丈夫だと、言い聞かせるようにして、ローファーをつっかけた。
ぽつりと頬を打った、さして冷たくも無い雫に驚いて顔を上げると、どうやら雨が降り始めたらしく。
電灯の下の少し明るくなった空間に、細い線が描きこまれ始める。
一番近いコンビニは徒歩一分。
外から伺って目当ての人物が店内に居ない事を確認すると、次に移動。
この辺りは競合店が犇めき合っていて、その時の気分によっていく店を選ぶ事が出来るのが利点だと思っていたのに、今日ばかりは文句の一つも言いたくなってくる。
先ほどから何度かかけている通話アプリも電話も、如月まで繋がることは無く、メッセージを残してください。という無常なガイダンスが流れるばかりだった。
結局、如月がどこにいるのか検討もつかず、諦めて帰ろうと駅の反対側まで来てしまったあたしは、歩道橋をあがる。
そのうち、帰ってくるだろう。
子供じゃないんだし、自分の家の近所で迷子になるなんて、それこそありえないし。
何故、ムキになって如月を探し続けていたのか、自分で自分に首を傾げ、それからすっかり濡れてしまった髪や体に苦笑をもらす。
しっかりと降り始めた雨を、反射させるように流れるテールランプの向う。
見慣れた街並みなのに、たぶん今日まで気がつかなかった空間が切り取られて浮かぶ。
ビルの間にぽつんとあるお情け程度の公園で、木製のベンチが三つほどあるばかりのそこは、オフィスで働いている人たちの憩いの場所なのだろうか。
歩道橋の上で足を止めて、あたしはその見つけたばかりの公園に、見覚えのある顔を見た。
道路を流れていく車は途切れることが無い。
その瞬間、その音さえも、何もかもが消え去り、あたしはただ息を呑むばかりだった。
――見てはいけない物を見てしまったような気がする。
雨に濡れて、肩を落として、背中を丸めて、眼鏡をはずして。
伏せられた視線は膝の上で握り締められた手を茫洋と見つめていた。
指先は白く、力が入りすぎているのか、関節が不自然に浮き上がっている。
普段ならバットやグラブ握っているはずのその手は、何かを掴むでもなく、離すでもなく、ただ――微動だにしなかった。
声を掛けるべきだったのかもしれない。
けれど足が動かなかった。
触れてしまえば、今まで大事にしてきたあたしたちの関係が壊れてしまう気がして、視線を切り、踵を返す。
エアコンを切っていた室内は温く、不快指数抜群。
電源を入れて、その真下に立ち、あわてて駆け戻った為に掻いた汗と濡れた髪がすっかり渇いた頃になっても、如月は戻ってこなかった。
あたしはベッドに横になる。
横向けに見える景色の中には、あたしが持ち込んだ私物が、いつもと同じ場所を陣取っていた。
このスタンスは心地が良かった。
異性間の友情が成り立つわけ無い、と友達は笑う。
あたしはきっと、そう言われる度に、自分たちは違うと胸を張っていたのだと思う。
けれど心の内に湧き上がって来る、よく判らない感情。
如月の横顔を思い出す。
雨に濡れて、肩を落として、背中を丸めて。
そして、あの手。
『留守番しといて』
一度として、そんな事をあたしに言った事が無いのに、気がつく。
それから、何度挑戦しても繋がらない電波。
カチリと、今まで欠けていたパズルのピースが嵌まる音がした。
――もしかしたら、何かと決別しようとしていた?
もし、そうだとしたら、友達なんだから、言ってくれればいいじゃない。
今までだってお互いに慰めあったんだから。
あたしは枕を抱き寄せて、胸に押し付けた。
ほんの少しの憤りと、焦燥。
憤りの正体は判るのに、焦燥の理由だけが掴めない。
やっぱり異性だから、言えない事もあるのかもしれない。
あたしがあの手に触れられなかったように、如月にも、あたしに差し出せないものが増えてきているのかもしれない。
溜息を落として、枕に顔を埋める。
鼻の奥がツンと痛んで、せり上がりそうになる涙を堪えるように、唇を噛み締めた。
胸が、理由もなく痛かった。
カタン、と鍵の開く小さな音。
あたしは我に返る。
慌ててベッドに倒れ込み、先程と同じポーズを取る。
雑誌を掴み上げて、適当なページを捲る。
今、言わなければいけない言葉は。
「遅かったじゃーん」
首だけ振り返って足をバタバタさせると、コンビニのビニール袋をがさりと揺らしながら、如月は「パンツ見えるぞ」なんて、いつもと同じ顔で笑った。
コンビニ行って来るから、留守番しといて。
そう、言い残してあたしと入れ替わるように、部屋を出て行った。
あたしはと云うと、いつもと同じ調子で、勝手知ったるなんとやら。
如月が一人で暮らしている部屋に転がり込んで、お菓子の袋を横に雑誌のページを捲っていた。
場所は数年の歳月を経て獲得した指定席。
部屋の本来の住人を追いやったシングルベッドのど真ん中。
ネイビーブルーのベッドカバーの上に寝転んで、同じ色をした枕に顎を乗せて。
手を伸ばせば届くところには、すっかり汗をかいたグラスが置いてある。
「それにしても、遅いなあ」
この部屋にあった新しい雑誌は凡て読みつくしてしまっていた。
あたしはごろんと体制をうつ伏せから仰向けに変える。
見慣れた天井の色。
蛍光灯の白。
夜更かしする時や語りに入る時に活躍する間接照明はオフにされたままで、この景色の中、自然に佇んでいる。
数時間フル稼働しているエアコンの音と、テレビから流れる誰かの笑い声。
それらの音が、家主を失った部屋の静かさを誇張しているようで、両方の電源をなんとなく切った。
スマホに手を伸ばすと画面には20:14の数字。
一体いつ、如月が部屋を出て行ったのか、正確な時間は判らなかったけど、あたしがこの部屋に押しかけたのが午後七時過ぎだったから、下手したら、小一時間ほど彼はコンビニで時間を潰していると云う事になる。
何度かスマホを開いたり閉じたりを繰り返して、あたしは通話アプリの一番上のアイコンを眺めた。
高校二年の夏ともなると、いよいよ大学受験対策の為に、いかにあたしたち私大附属校の生徒と言えども、多少は忙しくなる。
夏休みに行われる七日間に渡る補講の最終日。
打ち上げと称して友達とカラオケに行った後、あたしはこの部屋に乗り込んだ。
補講に関しては半分ほど免除されている野球部部員である如月とは、終業式の日以来まったく顔を合わせていなかったし、あたしの本格的な夏休みは今日から始まるのだ。
向うにとったら迷惑な話なのかもしれないけど、今朝家を出るとき持ってきたお泊りグッズが詰め込まれたカバンが、フローリングの床の隅にはちゃっかりと置かれてある。
もちろん、母親には女友達の家に泊まると、適当な嘘。
如月とあたしの間に、恋愛感情云々が全くと言って良いほど無いとは云え、そこはお年頃の異性同士。
周囲の目は中々に厳しいのだ。
お風呂こそ一緒に入ったりはしないけど、例えばこの狭いベッドの中で、話し疲れたあたし達は、気がついたら身を寄せあうように寝てしまっていた事もあったりする。
それで何も無いの? と友達に尋ねられ、あたしは決まってうんと頷く。
だって、あるわけ無いじゃない。
相手は如月なんだから。
壁にかけられた時計の長針が6の数字を指し示した頃、スマホを握り締めて、部屋を出た。
合鍵は持っていないけど、部屋に明かりがついていれば、きっと誰も留守にしているとは思わないだろうから。
大丈夫だと、言い聞かせるようにして、ローファーをつっかけた。
ぽつりと頬を打った、さして冷たくも無い雫に驚いて顔を上げると、どうやら雨が降り始めたらしく。
電灯の下の少し明るくなった空間に、細い線が描きこまれ始める。
一番近いコンビニは徒歩一分。
外から伺って目当ての人物が店内に居ない事を確認すると、次に移動。
この辺りは競合店が犇めき合っていて、その時の気分によっていく店を選ぶ事が出来るのが利点だと思っていたのに、今日ばかりは文句の一つも言いたくなってくる。
先ほどから何度かかけている通話アプリも電話も、如月まで繋がることは無く、メッセージを残してください。という無常なガイダンスが流れるばかりだった。
結局、如月がどこにいるのか検討もつかず、諦めて帰ろうと駅の反対側まで来てしまったあたしは、歩道橋をあがる。
そのうち、帰ってくるだろう。
子供じゃないんだし、自分の家の近所で迷子になるなんて、それこそありえないし。
何故、ムキになって如月を探し続けていたのか、自分で自分に首を傾げ、それからすっかり濡れてしまった髪や体に苦笑をもらす。
しっかりと降り始めた雨を、反射させるように流れるテールランプの向う。
見慣れた街並みなのに、たぶん今日まで気がつかなかった空間が切り取られて浮かぶ。
ビルの間にぽつんとあるお情け程度の公園で、木製のベンチが三つほどあるばかりのそこは、オフィスで働いている人たちの憩いの場所なのだろうか。
歩道橋の上で足を止めて、あたしはその見つけたばかりの公園に、見覚えのある顔を見た。
道路を流れていく車は途切れることが無い。
その瞬間、その音さえも、何もかもが消え去り、あたしはただ息を呑むばかりだった。
――見てはいけない物を見てしまったような気がする。
雨に濡れて、肩を落として、背中を丸めて、眼鏡をはずして。
伏せられた視線は膝の上で握り締められた手を茫洋と見つめていた。
指先は白く、力が入りすぎているのか、関節が不自然に浮き上がっている。
普段ならバットやグラブ握っているはずのその手は、何かを掴むでもなく、離すでもなく、ただ――微動だにしなかった。
声を掛けるべきだったのかもしれない。
けれど足が動かなかった。
触れてしまえば、今まで大事にしてきたあたしたちの関係が壊れてしまう気がして、視線を切り、踵を返す。
エアコンを切っていた室内は温く、不快指数抜群。
電源を入れて、その真下に立ち、あわてて駆け戻った為に掻いた汗と濡れた髪がすっかり渇いた頃になっても、如月は戻ってこなかった。
あたしはベッドに横になる。
横向けに見える景色の中には、あたしが持ち込んだ私物が、いつもと同じ場所を陣取っていた。
このスタンスは心地が良かった。
異性間の友情が成り立つわけ無い、と友達は笑う。
あたしはきっと、そう言われる度に、自分たちは違うと胸を張っていたのだと思う。
けれど心の内に湧き上がって来る、よく判らない感情。
如月の横顔を思い出す。
雨に濡れて、肩を落として、背中を丸めて。
そして、あの手。
『留守番しといて』
一度として、そんな事をあたしに言った事が無いのに、気がつく。
それから、何度挑戦しても繋がらない電波。
カチリと、今まで欠けていたパズルのピースが嵌まる音がした。
――もしかしたら、何かと決別しようとしていた?
もし、そうだとしたら、友達なんだから、言ってくれればいいじゃない。
今までだってお互いに慰めあったんだから。
あたしは枕を抱き寄せて、胸に押し付けた。
ほんの少しの憤りと、焦燥。
憤りの正体は判るのに、焦燥の理由だけが掴めない。
やっぱり異性だから、言えない事もあるのかもしれない。
あたしがあの手に触れられなかったように、如月にも、あたしに差し出せないものが増えてきているのかもしれない。
溜息を落として、枕に顔を埋める。
鼻の奥がツンと痛んで、せり上がりそうになる涙を堪えるように、唇を噛み締めた。
胸が、理由もなく痛かった。
カタン、と鍵の開く小さな音。
あたしは我に返る。
慌ててベッドに倒れ込み、先程と同じポーズを取る。
雑誌を掴み上げて、適当なページを捲る。
今、言わなければいけない言葉は。
「遅かったじゃーん」
首だけ振り返って足をバタバタさせると、コンビニのビニール袋をがさりと揺らしながら、如月は「パンツ見えるぞ」なんて、いつもと同じ顔で笑った。



