隣の席のあいつには、見えないものが見えているらしい

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 奏汰は吉祥寺に住んでいる。吉祥寺はJR中央線快速で新宿から12分程度、駅前は栄えている上に味わいのある店が多く、少し歩けば自然も豊かで、住みたい街ランキングの常連だ。奏汰の通う中高一貫の私立はこの街からバスで行けるところにあるため、彼は中学生のときから、吉祥寺にある祖母の家に暮らしている。

 中間テストも終わり、ようやく一息つけた5月下旬の金曜日。奏汰は久々に祖母の寿子とゆっくり夕食を摂った。
 マッサージ店を経営する祖母は忙しい。なので夕食については、奏汰はひとりで先に食べることも多い。しかし今日はテスト終わりということもあり、奏汰が具だくさんのカレーを作り、祖母が帰って来るのを待って一緒に食べた。そして祖母が食後のコーヒーをいれていたとき。

「あら、牛乳がない。しまった、買いそびれた……」
 祖母が困ったように言った。その声に奏汰は反応する。

「じゃ、俺買いに行ってくる! 食べ過ぎだから腹ごなしもしたいし!」

 それを聞いて祖母はすこし心配そうな顔をしたが、近場だからと思ったのか、「気をつけてね」と言った。


 時刻はもう21時近く。夜の散歩は少しドキドキする。とりあえず駅前のコンビニに行こうと大通りを歩いていると、前に見慣れた後ろ姿を見付けた。

 しっかりとした肩幅に、すらりと高い身長。艶のあるストレートの黒髪。普通の学ランが、まるで高級ブランドのシックなスーツみたいに見えるスタイルのよさ。右隣の席の、高城陽翔だった。

 高校に入学して同じクラスになり、隣に彼が座ってからは、いつもこっそり眺めていた。男子校とはいえ、陽翔のイケメンぶりは際立っていたため、やはり若干ざわついた。共学だったら今頃女子たちの熱視線を一身に浴びていたことだろう。

 とはいえ彼は愛想の良いタイプではないらしく、いつもけだるげで、近づくなオーラを発しているように見えた。昼食もイヤホンを付けたままもくもくと一人で食べている。友達いないのかな?と気になるものの、積極的に話しかけるのもはばかられた。

 ――これはチャンスかも? 

 偶然の出会いは話しかけるきっかけになる。一緒にカフェにでも行ければ、友達になれるかもしれない。奏汰は中学校で少し(つまづ)いたことがあり、その分高校では友達を沢山作ることを目標にしていた。

 心に野望を抱え、小走りで陽翔と距離を詰めようとした。なにしろ足の長さが違うので、奏汰が早足になる必要がある。けれど信号に阻まれたりして、なかなか追いつけない。
 
 やがて駅に着き、陽翔は構内へと入っていく。慌てて追い掛けるが、金曜日の夜は通行人も酔っ払いも多い。人混みを泳ぐようにかき分けて進んでいると、陽翔が公園口の出口を抜け、街のほうへ歩いていくのが見えた。

 ――待ってってば!

 焦る気持ちを抑えながら懸命に追うが、目の前でまた信号が変わってしまった。じりじりしながら彼の行く先を目で追うものの、今にも見失ってしまいそうだ。

 信号が変わり、慌てて駆けだした。もう小走りではなく全速力で。すると陽翔がドンキの前で立ち止まり、陳列棚の商品を見ているのが見えた。

 声をかけよう、と思った瞬間、陳列棚の隣、陽翔の傍に佇む女の姿が目に入った。ちょうどバス停の前、皆が忙しく行き交う中、黒いゴスロリ風のワンピースを着た女は、俯いたまま歩道の一点を見つめている。
 ウェーブのかかったロングヘアが俯いた顔を隠しており、その輪郭は半紙に書いた墨の文字みたいに、どこか滲んでいるように見えた。

 ――あれは、やばい。やばいものだ。

 奏汰は足を止めた。生者の世界に混ざる、死者。いわゆる幽霊が奏汰には見える。それは魂だったり、残留思念だったりするのだが、人型を保っているものは魂である場合が多い。魂は体の傍からあまり遠く離れられないので、もしかするとこの近くで亡くなったばかりの女性かもしれない。

 ……というようなことは、マッサージ師でありながら、副業で心霊相談などもしている祖母から得た知識だ。

「ああいうものには、気付かれてはいけないよ。気付かれるとまとわりつかれる。無視しなさい」

 祖母の忠告を思い出し、無意識に右手首に触れた。そこには祖母からもらったお守りの腕輪がつけてある、のだが。

「あっ」

 カレーを作るときにキッチンで外してしまったことを思い出し、奏汰は青くなる。しかしそんなことはお構いなしに、商品を見ていた陽翔が歩き出した。次の瞬間、下を見ていた女がぐるりと首をまわし、陽翔を見る。そして陽翔の横に並んで動き出した。

「えっ」

 思わず声が出る。幽霊の女は、まるで陽翔の彼女みたいにぴったりと寄り添っている。もちろん行き交う人には見えていないだろう。見えているのはきっと自分だけだ、と奏汰は思う。

 陽翔は気付いているんだろうか、見えているんだろうか。疑問に思いながら、奏汰はまた足を速めた。もし気付いていないなら、良くない事が起こる前に引き離さねば。幽霊は一人のときに憑きやすい。そういうときは誰かが側に行けば、スッと離れていくことが多いのだ。

 陽翔と女はそのまま角を曲がった。洋服店や中華料理店の横を通り、静かな住宅街を抜けると、その先は井の頭公園だ。
 夜の公園になんの用なのか、それとも女に導かれているのか。追いつこうとしていた奏汰も、だんだん興味が湧いてきた。もう少し様子を見てみようと思い、今度は気付かれないように少し距離を取る。

 やがて緩やかな坂を下りて、井の頭公園に着いた。井の頭公園は開園100年を超え、広さは約43万平方kmを誇る広大な公園だ。様々な施設があるが、中でも有名なのは井の頭池だろう。広大な池の周りを遊歩道が囲み、春には見事な桜が楽しめる。しかし今では桜もとっくに終わり、桜の枝は緑の葉で覆われていた。

 遊歩道を歩く陽翔のそばに、女は相変わらずぴたりと寄り添っている。フリルのついた黒いワンピースの裾からは、墨汁のような何かが滴り落ちているように見えた。恨みや憎しみ、無念。それらが彼女の体から染み出している。

 都会の夜空は薄明るく、公園の中もそこまでは暗くない。とはいえ池は漆黒に見えるが、そこに渡された七井橋(なないばし)がライトアップされ、幻想的に浮かび上がっていて美しい。
 しかし陽翔はそれに見向きもせずに、すぐそばのベンチに腰を下ろした。女はベンチの傍にぼんやりと佇み、陽翔を見つめている。

 彼はそれに気づいていない様子で、学生服の上着を脱ぐと、持っていた紙袋から取り出したカーディガンを羽織った。そして学生服を紙袋に入れる。次いで取り出したのは、帽子とサングラス、そしてマスクだった。それを装着した彼を見て、奏汰は驚愕した。

 ――ふ、不審者だ!完全な不審者!

 そこにいたのはモデル並みの容姿を持つ男子高校生ではなく、完全に近寄りたくないタイプの男だった。夜なのにサングラスだし、帽子は垂れ耳ウサギの被り物だ。

 ――完全にやばいやつだ! 帰ろうかな?

 奏汰は迷った。女幽霊よりも陽翔のほうがやばい気がする。このまま何をするつもりなのかが読めなくて怖い。
 すると陽翔はまた立ち上がった。そして紙袋から取り出したのは小型のビデオカメラだった。それを構えて歩き出す。ますは立ち止まり、七井橋のほうを映しはじめた。

 ――なんだなんだ、撮影か?

 好奇心を刺激され、奏汰はまた陽翔のあとを追うことにした。