君が忘れた物語

 「いらっしゃい」

 扉を開けると、微かに絵の具の匂いがして、ここだけが校舎から切り離された違う空間のようにも思えた。

 そんな美術室には既に夏目さんが待っていた。美術室の椅子に座っているだけでも絵になる子だと思った。ピンと伸びる背筋が意識の高さを(うかが)わせた。

 「夏目さん、今日はありがとう」

 「……ありがとう。よろしくお願いします」

 そう言うと、少し()り目気味の強い印象を受ける瞳の目尻を少し下げて「こちらこそ」と柔らかく微笑んだ。

 机には、おそらく化粧用品が入っているだろうポーチと、ヘアアイロンが置かれていた。

 「メイク道具までお願いしちゃってごめんね」

 「ううん。むしろこういうのすっごく楽しいから、嬉しい。私の持ってる物には限られちゃうけど、春木さんに合いそうなものをできるだけ持ってきたつもりだよ」

 用意周到な夏目さんだった。

 「美術室も人は誰も来ないと思うから安心してね。美術部員は実質私しかいないし、先生も教室の鍵を私に預けてきてるくらいだから」

 なんて苦笑して見せる。なるほど、夏目さん美術部だったんだ、と場所選びに納得した。

 夏目さんは早速メイク用品に手を伸ばした。必要な用品を取り出して完成までの工程を脳内でシミュレートしているようだった。その用品のひとつひとつがなにも知らない俺からしたらおままごとで使うおもちゃにも見えたけど、きっと女子からしたら宝の山なんだろう。

 そして、ついにメイクに取り掛かろうとしたところで、どうしてか俺の名前が呼ばれた。

 「秋岡くん」

 「……ん? はい」

 急な呼び出しに反応が遅れると、そんな俺の様子を少し(あき)れたように見やる夏目さんは強めの口調で言った。

 「秋岡くん、女の子のメイクは着替えと同じようなものなの」

 「はい?」

 「だから、あっちを向く!」
 
 「はいっ!!」