君が忘れた物語

 それからは、変わり映えのしない日々を過ごした。

 毎週鈴さんの元に通って、生活のためにアルバイトをこなして、様々なことを意識的に習慣化させながらどうにかひとり暮らしの毎日を送っていた。強いて変わったことと言えば、鈴さんの勧めで、元々目指していたカウンセラーの仕事を、補佐的な立場で学び始めたことくらいだ。まあ、本来なら瑚子のことを思って始めたことだから、虚しさは付き纏っていたけれど。

 「今日の診断も終わり!」

 鈴さんの快活な声音で、日々の習慣のひとつを終えた。

 一週間ごとに記憶の定着や、記憶障害の進行をある程度はかるために、過去の日記を使って検査らしきことをしているのだけど、緩やかに、少しずつ、でも確かに記憶を失いつつあるようだった。

 最初に日記に書いている事柄や、辞めた以前のバイト先などの人間関係は、ほとんど忘れてしまっていた。

 「ま、そうは言っても、人間って必要のない記憶は二週間もすれば忘れてしまうものだから、奏多くんの記憶にはそこで培った関係は必要なかったってことなんだよ」

 たしかに今でも連絡を取り合う人なんていなかったけど、そこまでの言い切りは清々しいと思って苦笑してしまう。

 「そう気にすることじゃない」

 「ありがとうございます」

 そうして、日々鈴さんの世話になっていて、足繁く通ってはいるのだけど、先週から少し鈴さんの様子がおかしかった。

 「今日の予定はもう終わったと思うんで帰ります」

 「えー、待ってよ〜。今日も五時まで暇だから、話し相手になってよ〜。なんなら夜ご飯(おご)るよー?」

 そんなことを言って俺を引き留めるのだった。今まで三年近く通っていた中で、そんなことはほとんどなかったのに。

 「話し相手は別にいいですけど、何か話したいことあるんですか?」

 「奏多くん、冷たいっ! いいじゃない、綺麗なお姉さんと過ごせて幸せでしょう!」

 「なんですか、失恋でもしましたか」

 「奏多くんとは違って失恋なんてしません〜」

 そう言われて反射的に鈴さんにデコピンをお見舞いする。「痛っ」と小さく悲鳴を漏らしておでこに手を当てて、こちらを非難するような視線を向けてくる。

 「先生に向かって失礼じゃない!?」

 「失言をするからです」

 そう一蹴した。

 「それにしても、鈴さん本当になにかあったんですか? 先週からちょっと変ですけど」

 「んー、まあ、ちょっとねえ」

 含みのある言い方に、少し興味が湧く。

 「その理由は、教えてくれないんですか?」

 「教えることはできないけど、こうして毎週私に時間をくれれば、いずれわかるよ」

 「言い切りましたね。毎週十七時まででいいんですか?」

 「そうだね、大丈夫」

 こうして真面目に話している時の鈴さんは、なにも誤魔化すことなく誠実でいてくれるから信頼が置ける。

 「じゃあわかりました。喉渇いたんで、飲み物だけ買ってきます」

 十七時まで滞在するのだという意思表示のためにバッグは鈴さんの元に置いたままにして、病院の自動販売機へと足を向ける。ここには通い慣れているから、迷うことも忘れることも早々ない。

 でも、この日はなにかが違った。

 待合所の近くにある自動販売機に辿り着いた時、妙な違和感、もしくは既視感があった。

  一見いつもと変わらないように見える待合所。いくつか見覚えのある患者さんも見受けられた。

 だから、ほんと些細な違和感だったのだろうけど、俺が自動販売機で飲み物を買った時、その違和感は、明確な形となり、音となり、俺に降りかかった。

 病院という場には少し似つかわしくない、垢抜けた同年代くらいの女性が、俺の方を見つめて立ち上がっていた。

 その女性が、俺の目にはとても美しく見えて、魅入ってしまって、俺も動作を止める。

 そして、女性はゆっくりと口を動かして、言った。


 「――――奏多?」