君が忘れた物語

 季節が巡った。瑚子と会うことのなくなった寂しい季節ばかりになってしまった。

 その間に、毎週欠かすことなく鈴さんの元へと通い、それと同時に暇を作らない勢いでアルバイトを詰め込んだ。卒業した後にひとり暮らしするための貯金をしておく必要があったことと、なにより行動も思考も止めてしまったら、その瞬間から自分の中に蓄積している記憶が、少しずつ削がれ落ちていく気がしたからだった。

 「この半年間は、ほとんど症状の進行はなかったね」

 そう鈴さんは言ってくれていたし、医師にも「驚くほど進行していない」だの「薬の効きがいい」だの言われたのだけど、そして症状の進行がほとんどないことは喜ばしいことなのだろうけど、この半年間で一度も治る希望を抱けるような言葉を聞けなかったのは、俺を酷く絶望させた。

 それに、今でこそ慣れてきたものの、症状の進行を遅らせる薬の副作用が、かなり苦しかった。身体が慣れるまで何度も戻して、げっそりしたねと、なにも知らないクラスメイトやバイト先の人たちに言われる始末だった。

 でも、おかげで今もまだ自分の中の記憶が、抜け落ちている感覚はほとんどなかった。

 瑚子に会いに行こうとした最後の日に感じた、忘れるという恐怖を抱かずに済んでいた。

 そうして一見は何事もなく、俺は高校を卒業した。

 瑚子のことを想ってカウンセラーを目指した夢は、瑚子がいない日々には必要なくなってしまって。いずれ記憶を失うと、そう決まっているように告げられている症状のせいで進学にも就職にも乗り気になれなかった俺は、家族にも迷惑をかけないために家を出るだけ出て、生活のためのアルバイトと、治療に専念するための時間に重きを置いていた。

 幸い未だ生活に大きな支障はなく、スムーズに引っ越して、生活を落ち着けることもできていて、そのままの生活を一年続けていた。

 しかし。

 「病み上がりでキツいなら、まだ来なくていいよ?」

 「申し訳ありません!!」

 俺の内側に潜んでいた(かげ)りが、少しずつ俺を侵食し始めている感覚があった。

 高校時代から続けている飲食店のアルバイトを体調不良で一週間ほど休んだ後のシフトだった。ちょうど繁忙期に混み合っていた店内で、俺は唐突に立ち止まり、頭が真っ白になってなにをしたらいいのかわからなくなってしまったことがあった。忙しなく動く店員の邪魔になり、いつもは穏和なチーフの口調も、少し角が立っているくらいだった。

 その忙しなさを処理しきれないことは、新人時代にはよくあるのだけど、長く続けているアルバイトで、いくら忙しいとはいえ混乱するなんてことはもうないと思っていた。それに、この周囲の状況や自分がすべきことが一瞬にしてわからなくなる感覚には、覚えがあった。瑚子に会いに行こうとした最後の日のことだ。

 鈴さんは、そんな俺の話を聞いて、なにかを(ひらめ)いたように言葉を紡いだ。

 「奏多くん、症状が進み始めているっていうことは、きっとこれから色々なことを忘れていくんだと思う」

 向き合いたくない現実をあえて言葉にすることで、鈴さんは〝私がついている〟という意志を誇示しているのだと伝わってくる。

 「ただ、ひとえに記憶といっても、いくつか種類があるから、考え方によっては記憶を長持ちさせることもできるかもしれないの」

 そうして希望となる言葉を続けてくれる鈴さんの存在は、俺の心の支えだった。

 「現状、以前となにも変わりなく覚え続けられてることってある?」

 「そうあらたまって言われると難しいな。意識していないところで忘れていることばかりかもしれないですから」

 そう言いながらも考える。

 目の前にいる鈴さんはもちろん、ここに来るまでの道。毎日書いている日記も欠かすことはなく、親のこと友達のことも、忘れているって感じではない。まだちゃんと保てている。

 なにより、瑚子のことは、一秒たりとも気持ちも記憶も褪せることなく俺の胸の内にある。

 そんな俺の思考を読み取っているのか、鈴さんは確信を持ってこう言った。

 「今思い浮かんだことには、きっと共通点がある。特に強く残っているものには」

 「共通点?」

 疑問がそのまま口をついて出た。

 「そう。強い印象が残っているのはもちろんだけど、より鮮明に記憶されているのは、きっと日々の習慣化した時間における記憶なんだよ」

 聞いたことあるかもだけど、と前置きをして鈴さんは話を続ける。

 「記憶には、大きく分けて長期記憶と短期記憶があるのね。簡単に言うと、計算の仕方や一般的な知識なんかは長期的に記憶される、言わば定着した記憶。逆に、テスト前に一夜漬けしてその場しのぎで頭に入れた情報は、維持できる時間も短いから短期記憶になるの」

 「ここまでは理解できてます」

 経験のある具体例で説明してくれているのは、ものすごくわかりやすい。

 「それでね、たとえば話すことや歩くことも、大きく見たときには、定着した記憶、つまりは長期記憶になるわけなんだけど」

 それが前置きというように、一拍あけて言う。

 「いくら記憶が失われていくからって、今まで歩けていた人が歩き方を忘れる、なんて考える方が難しいと思わない?」

 「それはそうですね。身体的に大きな欠陥でもなければ歩けなくなる印象はないです」

 「そうなんだよ。進行が進みすぎると支障をきたすことはあれど、歩けなくなることはなかなかない。つまりはね、覚えていられるんだよ」

 「覚えて、いられる……」

 「そう。習慣化された記憶は、脳ではなく、身体が覚えている。そうやって定着された記憶は、失われることはないんだよ」

 それは、記憶障害を抱える人にとっては、ある種の希望のようにも聞こえた。

 「記憶の定着が叶わない症状の人が、ピアノを毎日弾いていたら、脳では覚えられていないはずの曲を弾けるようになった、なんて話もあるくらいなんだから」

 つまり、なにを言いたいかと言うと、と話の要点を伝えてくれた。

 「身体に覚えさせれば、早々忘れることはなくて、本気で忘れたくないことがあるなら、今のうちから身体に覚えさせておけ、ってことだよ。その一環として、毎週ここに通うことと、日記を書くことを習慣づけているんだから」

 「そうだったんですね」

 そこまで説明されて、やっと得心がいった。俺の日々していることは、無駄ではないのだと思えるだけで、いくらか救われたような気持ちになる。

 「ただ、継続は大事で、今回のアルバイトのように、少し休んで触れてないだけで、途端に頭が真っ白になることもあるから、そこは注意してね」

 鈴さんの言葉が、俺の心の形を保ててくれている。感謝してもしきれないくらいだった。

 「ちなみに、奏多くんの忘れたくない記憶って、なに?」

 「そうですね、鈴さんとの時間も忘れたくないし、そうやって忘れたくないことだらけの楽しい人生ですけど、なによりも忘れたくないのは、彼女のことと、彼女と過ごした時間のこと、そして、彼女に抱いている気持ち、なんだと思います」

 「彼女……、それって前にもう連絡するのをやめたって言っていた、ココちゃん、だっけ?」

 「はい。スマホを開く度に一緒にいた時を思い出しているので、きっと身体が覚えていてくれるって、信じてます」

 そう言ってホーム画面を見せる。中には、幸せそうに笑う俺と瑚子のツーショット写真が設定されている。

 「聞いてよければ、なんだけど、どうして連絡取らなくなったの? やっぱり症状のせい?」

 「そうですね。症状のせいなんですけど、それは俺だけに限った話ではなくて、瑚子にもある症状があったからなんです」

 「ほうほう、気になる言い方をするねぇ」

 頬杖(ほおづえ)をつきながら、興味深そうに俺を見つめる鈴さんは、顎を少し動かすことで話の続きを促す。

 「瑚子は、多分俺の症状よりもずっと例の少ない、超記憶症候群って呼ばれる症状が生まれつきあって。見たものをすべてそのまま完璧に記憶し続ける、つまりはなにも忘れられなくなる症状なんです」

 鈴さんは頷きながら「ほー、そりゃあ珍しい。出会ったことないや」なんて能天気な反応を見せる。

 「まあそういうことなので、忘れられない彼女の隣に、これから彼女のことを含めたすべてを忘れていく俺がいるのは、とてつもなく辛いことだろうと思って、俺をいち早く過去にできるよう連絡を断ちました」

 「なるほどねぇ。私が相手だったらめちゃくちゃ怒ってると思うわ、その身勝手さ」

 「言葉もないです」

 瑚子は怒っているのだろうか。怒って吹っ切れているならそれでいい。ただ、変な引きずり方をしていないかというところが心配だった。

 「でも、ほんと大切だったんだね」

 「だった、じゃないです。今だって何より大切です」

 ぐはぁ、と変なリアクションを見せてくる。

 「私も、ココちゃんには勝てないか〜」

 なんておどけて言った鈴さんに「瑚子と出会ってない人生だったら、鈴さんを見ていたかもしれないですね」なんて軽口を(たた)いてやった。

 「そうだ、そんな彼女大好きな奏多くんに質問〜」

 「なんです?」

 「私の弟が、最近気になる子ができたって話していたんだけど、距離を縮めるためにおすすめなことって、なにかある?」

 鈴さんの弟の話は、前にも少し出ていた。優しくて真面目すぎて、つまらないけどめっちゃいい奴、と鈴さんは言っていた。鈴さんにそう言わしめる弟の選んだ相手も、きっと素敵な人なんだろう。なにかためになるアドバイスができたらと思ったのだけど、俺の人生経験から言えそうなことは少なかった。

 「うーん、俺の場合、消極的な瑚子に、押してだめなら押し倒せ、の精神で積極的にいってただけな気がするしなぁ……」

 「押してだめなら押し倒せか、はははっ、そうだった、恋愛になると奏多くんって馬鹿だったね」

 そう楽しそうに笑う鈴さんこそ、すごい恋愛していそうなものだけど、なんて思いながら、それでも、瑚子と明確に距離を縮めた記憶から、ひとつ提案してみた。

 「でも、お泊まりデート、みたいなのはすごい距離縮まったので、おすすめかもです」

 「お泊まりって、それ、ハードル高くない? 距離縮まったっていうより、ゼロ距離でしょ、それ」

 「いや、変な意味じゃないですよ!? ただ、たくさんの時間を共有できたら、普段見えない相手の姿が見えてきたりして、いいものだと思って……!!」

 再度愉快そうに笑いながらも「ありがと、そうアドバイスしてみる」と言って、さらに大きく笑った。

 こうして笑い合って話せている自分に少し安心しながら、瑚子に会いたい気持ちと、会えないという諦めの悲しみを、必死に抑えた。