「いらっしゃい! 来てくれてありがとう」
「こちらこそ、呼んでくれてありがと」
そう店員らしい言葉を並べた俊くんは、営業後に間借りしている美容室に私を招待すると人懐っこい笑みを浮かべた。
恋人とも友人とも呼べない、名前のない関係性。よく友達以上恋人未満、なんて言い方をする人がいるけど、そんな曖昧な関係を不純だと断じていた私自身が、その曖昧さに身を投じていた。私の人としての意志の弱さに辟易としてしまう。
「まだまだ練習中だけど、瑚子さんの髪を担当できて嬉しいよ」
澪ちゃんと同じ学校の俊くんも、当然美容師志望で、そんな彼からカットモデルをお願いされたのだった。「抜け駆けするなー!」なんて怒っていた澪ちゃんには笑ってしまったけど。
「どんな髪型にしますかー?」
「えっと、どうしよう」
奏多といた頃はボブカットくらいの長さだったけど、奏多と会わなくなってからは容姿に対する頓着も薄くなっていて、今は背中あたりまで伸びている。
「お任せ、って言ったら迷惑かな?」
「任せてよ! 一番似合う髪型に仕上げるから」
自信満々にそう言い切った俊くんは、最初にシャンプー台へと促した。
「瑚子さん、軟毛で綺麗な髪質してるから、よければ染めてみない? 綺麗に染まると思うよ」
「じゃあそれもお任せします」
なんとなく髪を染めることに抵抗があったのだけど、自分を変えたいという気持ちがあるのか、いいかなという気になり全部を任せることにした。
「こんな素敵なモデルさんがいると腕が鳴るなあ!」
楽しそうに言いながら私の髪を優しく洗ってくれる。「お湯の温度はいかがですか〜」と、わざとらしく美容師っぽい質問をおどけてしてくる俊くんに、少し笑ってしまう。澪ちゃんからも俊くんは切るの上手だから安心していいと言われているので、素直にどう変化するのか楽しみにしている自分もいる。
シャンプーを終えると次はカットだ。切ってから髪を染めて、最後に調整でまた少し切る、そしてヘアセットして出来上がりと、そんな手順を踏むらしかった。
「そういえば、この間勧めてもらった小説、読んだよ! ものすごかった、今でも強い余韻が残ってる」
私の大して手入れされてない伸び切った髪を、軽快な音を奏でながらサクサクと軽妙に整えていく。そんな細かな動作を必要とする手元の動きを緩めずに、雑談に思考を割けることに感心してしまう。
「たまには小説に触れるのもいいなぁって思ったよ、教えてくれてありがとう!」
私は今までの人生で、強い刺激のものを無駄に記憶しないよう、娯楽を吟味する生活を送ってきたのだけど、その中だと小説にはある程度触れてきた。脳内で描写の制限ができるから、比較的に受け止めやすい娯楽だったのだ。
だから、私からも何か話題を提供できればと思って、すでに映画化もされているベストセラーにもなった小説を紹介したのだった。
「こちらこそ読んでくれてありがとう。楽しんでもらえたのなら何よりだよ」
「有名作なのに、どうしてかまだ観ていなかったから、いい機会だった」
「このタイミングで観るためだったのかもね」
柊木俊という人間には、もう慣れてきていた。以前までは人との関わりを断ち、奏多が現れるまでは人に慣れるなんて感覚がわからなかったくらいなのに、今ではすんなりと相手を受け入れられるようになっている。
俊くんがいい人だから、というのはもちろんあるのだと思うけど。あの映画に行った日から今日まで、ふたりきりで会うことも何度か重ねてきたけど、あの日以来私に触れようとはしてこないし、変に迫ってくることもない。そんな彼の誠実性は、確実に信頼という形となって私の中に積み上がってきている。
「じゃあ、今のタイミングで俺たちが出会ったのにも、なにか意味があるのかな」
「 返答しづらいからやめて」
「はははっ、ごめんごめん」
こんなふうに、私を困らせるとわかっていても構わずに積極的になることは、たまにあるのだけど。
「それで本題なんだけどさ」
ある程度髪を切り終えると、次にはカラー剤を髪に満遍なく塗りはじめる。髪質を傷ませないために、今回は脱色はせずに色を入れるだけの施術だった。
「本題って?」
「メッセージでも言ったと思うんだけど、今日は話したいことがふたつあって。ひとつは、今度誘いたい場所があるんだ」
カラー剤の独特な人工的な匂いが漂うふたりきりの店内に、彼の真剣さが伝っていく。
俊くんとは何度かふたりで会っていて、私の気になっているカフェや、お互いに観た映画の舞台になった聖地などに行くことが多く、同じような場所だろうとあたりをつけていた。
「聖地巡礼するの?」
「それは、そうなんだけど……」
やけに歯切れの悪い答えだった。今までは遠慮しがちではあってもここに行きたい、という要望は素直に言ってくれていたものなのに。
「そんなに言いづらい場所なの?」
「……とりあえず言うだけ言ってみる」
あれだけ積極的な言葉をかけてくるのに、いまさらなにを躊躇っているのだろうと思わなくもないが、念のため多少の心の準備をする。
「行きたい聖地が、この作品なんだ」
カラー剤で髪をコーティングして、固定のために頭にラップを巻いたところで、自由になった手でスマホを操作してその作品のキービジュアルの画像を表示した。
その作品は、私も小説で触れたことがあるので知っていた。内容は、余命僅かな主人公が死ぬまでにやりたいことリスト100なるものを作っていて、それを達成するために自殺願望のある同級生をひょんなことから巻き込んで、日本中を旅してまわり、そしてラストは思いもよらぬ……というような話だった。
なるほどな、と思った。
本作は、とにかく旅する描写が多く、命の燃え尽きる間際の美しさと、生命を強く感じさせる日本の美しい景色のコントラストが評価された映画作品であり、つまりは聖地となる場所がすべて遠いのだ。それこそ、日帰りでは厳しいくらいには。
「宿泊になるから、誘いづらかったんだね」
「そういうことです」
別に同じ部屋で宿泊すると言っているわけではないけど、異性と宿泊前提での遠出と考えると、抵抗感は拭えない。奏多と泊まった日々のことを思い出し、奏多の恋人だという強い自覚が罪悪感を生み出してしまう。
それに、この宿泊を承諾してしまったら、これが本当に奏多のことを諦めるきっかけになってしまいそうで、言いようのない恐怖を伴っていた。
「……ちゃんと考えさせてほしい。今すぐに答えるのは、ちょっと難しい」
結局、私は俊くんに対していつだって曖昧な返事しかしていない。不誠実だし、見様によってはキープしてると思われてもおかしくないような対応だ。よくないとわかってはいるものの、縋りたい過去と、変わらなきゃと焦る自分との間で葛藤が生まれているのもまた事実だった。
「ありがとう。すぐに断られるのではなく、ちゃんと考えてくれるだけでもすごく嬉しいよ」
そして「ただ、考えすぎも悩みすぎもだめだからね」と優しく釘を刺すことも忘れない。
同じ時間を共有するほど、いい人、優しい人という人物像が明確になってきているなと思ってしまう。
「話したいことふたつあるって言ってなかった?」
「そうだった、そうだった。もうひとつは、提案、みたいな話なんだけど。っと、その前に……」
話しはじめる前に、カラー剤を流すためのシャンプーに促される。丁寧に洗ってくれる上、トリートメントに、おまけとばかりにヘッドスパまでしてくれる。まさに至れり尽くせりだ。
「話を続けていくね」
あとは、気になる部分のカットとヘアセットで完成と、着実に施術は進んでいる。
「うん、お願い」
またも器用に手元を動かしながら、言葉を続けた。
「最初の方だったと思うんだけど、俺の姉の話をしたの覚えてない?」
聞かれてすぐに思い出す。そのくらいには印象的な人物であり、エピソードだった。もとよりなにも忘れることのない私だけど、印象に強い方がすぐに思い出せる。
「あのー、なんというか、強烈なお姉さん?」
「ふははっ、強烈か、たしかに!」
私の反応に、やけに面白そうに笑って、さすがに手元の動きを止めてしまう。ひとしきり笑って、少し苦しそうだった。
「そうそう、その姉で間違いないんだけどさ」
また半笑いの俊くんは、それでもどうにか手と口を動かす。
「実は、そんな姉も今では立派にカウンセラーの仕事をしているんだ」
「カウンセラー……」
聞いていた話から作り上げていたお姉さん像から随分と乖離している職名に、一瞬惚けてしまう。
「それでさ、先日少しだけ瑚子さんの話をしてみたんだけど、すごい食いつきがよかったんだよ。ぜひカウンセリングさせて!とか、記憶に問題抱えてる人の話も聞くこと増えたから、よければ!なんて言ってたっけな。だから、どうかなと思って」
ありがたい話だと思った。
過去にカウンセリングを受けたことはもちろんある。自分の症状のせいで、様々な経験の記憶が精神的な負荷になって、毎日毎晩ずっと泣いていた時期があり、その時の学校の担任の先生が勧めてくれたのだった。でも、あまり効果はなく、人との接触を極力避けて 不慮の刺激から離れ、小説や勉学の知識を詰め込むという現実逃避をすることで、どうにか目を逸らし続けていた。
けれど、今の私はあらためてカウンセラーに頼りたいと思っていた。そこには、ある理由があるから。
「興味ある、かも」
「ほんと!? 姉貴、ちょっと変わってるし、カウンセラーのあり方もきっと普通とは違うと思うけど……。ああでも、大丈夫。リピーターは多いし、姉貴のところにしか通えないって言ってくれる人も多いから、そこは安心してほしい」
お姉さんの話になった途端に、映画のこと以上に饒舌になるあたり、心底慕っているのだなということがわかる。俊くんがここまで心を置ける相手だというだけで、それはもう信用に値する相手だと思った。
「ふふ、大丈夫だよ。お姉さんを信じる俊くんを信じてるから」
「…………」
私の言葉を聞いた俊くんは、手元の動きすら止めて、静止したように固まっていた。
「え、どうしたの」
「……そんな、いきなりずるいよ。そんなに嬉しいこと言われたせいで手元が狂いそうで止めちゃったじゃないか」
そう言われて然るべき人物だと思っているから、当然と思って言ったのだけど、そうあらためられると、真っ直ぐ伝えた言葉に少しの羞恥心が宿る。
話題を変えるように言った。
「お姉さんは、カウンセラーやってるっていうくらいなら聞き上手なんだろうなあ」
話を切り替えたことで空気が一変して、俊くんはまたカット作業に戻る。
「そうだね、危うさもあったけど、それと同じかそれ以上に、安心感や包容力があって、俺にとっては姉兼母親って感じだったかな」
そう聞いて、幼い頃から母親がいなくて、その寂しさを埋めるために映画を見始めたのだ、と言っていた記憶を鮮明に思い出す。
なるほど、お姉さんでありお母さんでもある存在。それは慕うわけだ。
「とっても頼もしいね。ぜひ、私も話を聞いてもらいたいな」
「それなら姉貴に話を通しておくよ」
もちろん、記憶症状の話もするとは思うけど、もとよりそこに関してのなにかを期待しているわけではない。
もうひとつの症状について、私は話を聞いてもらいたいと思っていたのだ。この記憶の話よりも、もっと周囲に話しづらい症状。
ひと言で表すなら、恋煩い。
恋愛で心を病んだ人がカウンセリングを受ける、なんて事例は、きっと枚挙に暇がないはずだ。そんな一例としてでいいから、話を聞いてもらいたかった。
澪ちゃんは奏多のことを考えない方がいいと言うし、両親はあえて奏多のことに触れてこない。どちらもきっと、私を考えてのことなのだとは思うけど、そうして気を遣ってくれている人たちに、私は心の内を晒せないと思ってしまっていた。
ただ、溜まりに溜まっている感情を、吐露したいがために、カウンセリングを受けたかった。
「完成だよ、ほら見て」
私が考えに考えているうち、ヘアセットまで終えた俊くんは、満足しているようにそう言った。
鏡には、様変わりした私が映っていて、自分だと理解はできるけど、別人みたいだなと感じられた。髪は地毛の黒から、光にあたると透き通るようにも見える上に自然体なナチュラルブラウンに変わって、肩口で切り揃えられた髪はヘアオイルで保湿されていることもあって、大人びた質感に纏まっている。
大人の女性っぽいな、というのが一番の感想で、その感想を自分の容姿に持てているという実感が後から追いついてきて、無性に嬉しさが込み上げる。
「え、すごい!! ありがとう、とっても素敵」
私の反応に、さらに満足気な笑みを深くした俊くんは、良かった、と頷いてくれた。
容姿を整えるだけで、気分が前向きになる。今の私なら、後ろ向きでネガティブな自分から変われるかもしれない、なんて少し思えた。
「瑚子さん、今日はありがとう。まだ精進する身ではありますが、これからもよければ担当させてください」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「その返答を、恋愛的にもしてもらえるように、もっと精進します」
「……また困らせるようなことを〜」
そんな会話をして笑みを交わす。このやり取りもこの時間も、私は心地よいものだと思い始めている。
「それじゃあ、俺は店の片づけしないといけないから、今日はバイバイかな」
「うん、そうだね」
「旅行の件は考えておいてほしい。きっとまた聞くと思うから」
「わかった」
「それと、姉貴にも話をしておくから、カウンセリングできる日程見えたら、そっちも連絡するね」
「ありがとうね」
そんな話をして、その場は別れた。
その翌日の夜、早速俊くんから連絡があり、お姉さんとのカウンセリングの日程の候補が送られてきた。とは言っても、そのどれもが水曜日の十七時から、ではあったのだけど。
最近はアルバイトと学校、そして偶に澪ちゃんや俊くんに会う、くらいの毎日だ。早いに越したことはないだろうと、一番直近の来週の水曜日に予約する旨を、俊くんにメッセージで送った。
【そうそう。姉貴が瑚子さんのこと事前に知っておきたいって言っているんだけど、名前や症状について、俺が知ってることは話しても平気?】
カウンセリングを円滑に進めるためだろう。私は肯定のメッセージを送って、その日を待つことにしたのだった。
しかし、カウンセリングの当日、お姉さんに急用ができたという理由で対面は叶わなかった。少し落胆した思いを抱えながら、俊くんとカフェで少し話して帰ることにする。
また翌週の水曜日にも予約をしたものの。
「姉貴、前の人のカウンセリングが長引いているから、また別の日でいいか、って」
「私は全然構わないけど……」
その日もそんな理由で、お姉さんには会えないとのことだった。私も予約を入れている身なのに、と気にかかる気持ちもあったけれど。
「いや、ほんとごめん。自由人な姉貴で……」
「こちらこそ、呼んでくれてありがと」
そう店員らしい言葉を並べた俊くんは、営業後に間借りしている美容室に私を招待すると人懐っこい笑みを浮かべた。
恋人とも友人とも呼べない、名前のない関係性。よく友達以上恋人未満、なんて言い方をする人がいるけど、そんな曖昧な関係を不純だと断じていた私自身が、その曖昧さに身を投じていた。私の人としての意志の弱さに辟易としてしまう。
「まだまだ練習中だけど、瑚子さんの髪を担当できて嬉しいよ」
澪ちゃんと同じ学校の俊くんも、当然美容師志望で、そんな彼からカットモデルをお願いされたのだった。「抜け駆けするなー!」なんて怒っていた澪ちゃんには笑ってしまったけど。
「どんな髪型にしますかー?」
「えっと、どうしよう」
奏多といた頃はボブカットくらいの長さだったけど、奏多と会わなくなってからは容姿に対する頓着も薄くなっていて、今は背中あたりまで伸びている。
「お任せ、って言ったら迷惑かな?」
「任せてよ! 一番似合う髪型に仕上げるから」
自信満々にそう言い切った俊くんは、最初にシャンプー台へと促した。
「瑚子さん、軟毛で綺麗な髪質してるから、よければ染めてみない? 綺麗に染まると思うよ」
「じゃあそれもお任せします」
なんとなく髪を染めることに抵抗があったのだけど、自分を変えたいという気持ちがあるのか、いいかなという気になり全部を任せることにした。
「こんな素敵なモデルさんがいると腕が鳴るなあ!」
楽しそうに言いながら私の髪を優しく洗ってくれる。「お湯の温度はいかがですか〜」と、わざとらしく美容師っぽい質問をおどけてしてくる俊くんに、少し笑ってしまう。澪ちゃんからも俊くんは切るの上手だから安心していいと言われているので、素直にどう変化するのか楽しみにしている自分もいる。
シャンプーを終えると次はカットだ。切ってから髪を染めて、最後に調整でまた少し切る、そしてヘアセットして出来上がりと、そんな手順を踏むらしかった。
「そういえば、この間勧めてもらった小説、読んだよ! ものすごかった、今でも強い余韻が残ってる」
私の大して手入れされてない伸び切った髪を、軽快な音を奏でながらサクサクと軽妙に整えていく。そんな細かな動作を必要とする手元の動きを緩めずに、雑談に思考を割けることに感心してしまう。
「たまには小説に触れるのもいいなぁって思ったよ、教えてくれてありがとう!」
私は今までの人生で、強い刺激のものを無駄に記憶しないよう、娯楽を吟味する生活を送ってきたのだけど、その中だと小説にはある程度触れてきた。脳内で描写の制限ができるから、比較的に受け止めやすい娯楽だったのだ。
だから、私からも何か話題を提供できればと思って、すでに映画化もされているベストセラーにもなった小説を紹介したのだった。
「こちらこそ読んでくれてありがとう。楽しんでもらえたのなら何よりだよ」
「有名作なのに、どうしてかまだ観ていなかったから、いい機会だった」
「このタイミングで観るためだったのかもね」
柊木俊という人間には、もう慣れてきていた。以前までは人との関わりを断ち、奏多が現れるまでは人に慣れるなんて感覚がわからなかったくらいなのに、今ではすんなりと相手を受け入れられるようになっている。
俊くんがいい人だから、というのはもちろんあるのだと思うけど。あの映画に行った日から今日まで、ふたりきりで会うことも何度か重ねてきたけど、あの日以来私に触れようとはしてこないし、変に迫ってくることもない。そんな彼の誠実性は、確実に信頼という形となって私の中に積み上がってきている。
「じゃあ、今のタイミングで俺たちが出会ったのにも、なにか意味があるのかな」
「 返答しづらいからやめて」
「はははっ、ごめんごめん」
こんなふうに、私を困らせるとわかっていても構わずに積極的になることは、たまにあるのだけど。
「それで本題なんだけどさ」
ある程度髪を切り終えると、次にはカラー剤を髪に満遍なく塗りはじめる。髪質を傷ませないために、今回は脱色はせずに色を入れるだけの施術だった。
「本題って?」
「メッセージでも言ったと思うんだけど、今日は話したいことがふたつあって。ひとつは、今度誘いたい場所があるんだ」
カラー剤の独特な人工的な匂いが漂うふたりきりの店内に、彼の真剣さが伝っていく。
俊くんとは何度かふたりで会っていて、私の気になっているカフェや、お互いに観た映画の舞台になった聖地などに行くことが多く、同じような場所だろうとあたりをつけていた。
「聖地巡礼するの?」
「それは、そうなんだけど……」
やけに歯切れの悪い答えだった。今までは遠慮しがちではあってもここに行きたい、という要望は素直に言ってくれていたものなのに。
「そんなに言いづらい場所なの?」
「……とりあえず言うだけ言ってみる」
あれだけ積極的な言葉をかけてくるのに、いまさらなにを躊躇っているのだろうと思わなくもないが、念のため多少の心の準備をする。
「行きたい聖地が、この作品なんだ」
カラー剤で髪をコーティングして、固定のために頭にラップを巻いたところで、自由になった手でスマホを操作してその作品のキービジュアルの画像を表示した。
その作品は、私も小説で触れたことがあるので知っていた。内容は、余命僅かな主人公が死ぬまでにやりたいことリスト100なるものを作っていて、それを達成するために自殺願望のある同級生をひょんなことから巻き込んで、日本中を旅してまわり、そしてラストは思いもよらぬ……というような話だった。
なるほどな、と思った。
本作は、とにかく旅する描写が多く、命の燃え尽きる間際の美しさと、生命を強く感じさせる日本の美しい景色のコントラストが評価された映画作品であり、つまりは聖地となる場所がすべて遠いのだ。それこそ、日帰りでは厳しいくらいには。
「宿泊になるから、誘いづらかったんだね」
「そういうことです」
別に同じ部屋で宿泊すると言っているわけではないけど、異性と宿泊前提での遠出と考えると、抵抗感は拭えない。奏多と泊まった日々のことを思い出し、奏多の恋人だという強い自覚が罪悪感を生み出してしまう。
それに、この宿泊を承諾してしまったら、これが本当に奏多のことを諦めるきっかけになってしまいそうで、言いようのない恐怖を伴っていた。
「……ちゃんと考えさせてほしい。今すぐに答えるのは、ちょっと難しい」
結局、私は俊くんに対していつだって曖昧な返事しかしていない。不誠実だし、見様によってはキープしてると思われてもおかしくないような対応だ。よくないとわかってはいるものの、縋りたい過去と、変わらなきゃと焦る自分との間で葛藤が生まれているのもまた事実だった。
「ありがとう。すぐに断られるのではなく、ちゃんと考えてくれるだけでもすごく嬉しいよ」
そして「ただ、考えすぎも悩みすぎもだめだからね」と優しく釘を刺すことも忘れない。
同じ時間を共有するほど、いい人、優しい人という人物像が明確になってきているなと思ってしまう。
「話したいことふたつあるって言ってなかった?」
「そうだった、そうだった。もうひとつは、提案、みたいな話なんだけど。っと、その前に……」
話しはじめる前に、カラー剤を流すためのシャンプーに促される。丁寧に洗ってくれる上、トリートメントに、おまけとばかりにヘッドスパまでしてくれる。まさに至れり尽くせりだ。
「話を続けていくね」
あとは、気になる部分のカットとヘアセットで完成と、着実に施術は進んでいる。
「うん、お願い」
またも器用に手元を動かしながら、言葉を続けた。
「最初の方だったと思うんだけど、俺の姉の話をしたの覚えてない?」
聞かれてすぐに思い出す。そのくらいには印象的な人物であり、エピソードだった。もとよりなにも忘れることのない私だけど、印象に強い方がすぐに思い出せる。
「あのー、なんというか、強烈なお姉さん?」
「ふははっ、強烈か、たしかに!」
私の反応に、やけに面白そうに笑って、さすがに手元の動きを止めてしまう。ひとしきり笑って、少し苦しそうだった。
「そうそう、その姉で間違いないんだけどさ」
また半笑いの俊くんは、それでもどうにか手と口を動かす。
「実は、そんな姉も今では立派にカウンセラーの仕事をしているんだ」
「カウンセラー……」
聞いていた話から作り上げていたお姉さん像から随分と乖離している職名に、一瞬惚けてしまう。
「それでさ、先日少しだけ瑚子さんの話をしてみたんだけど、すごい食いつきがよかったんだよ。ぜひカウンセリングさせて!とか、記憶に問題抱えてる人の話も聞くこと増えたから、よければ!なんて言ってたっけな。だから、どうかなと思って」
ありがたい話だと思った。
過去にカウンセリングを受けたことはもちろんある。自分の症状のせいで、様々な経験の記憶が精神的な負荷になって、毎日毎晩ずっと泣いていた時期があり、その時の学校の担任の先生が勧めてくれたのだった。でも、あまり効果はなく、人との接触を極力避けて 不慮の刺激から離れ、小説や勉学の知識を詰め込むという現実逃避をすることで、どうにか目を逸らし続けていた。
けれど、今の私はあらためてカウンセラーに頼りたいと思っていた。そこには、ある理由があるから。
「興味ある、かも」
「ほんと!? 姉貴、ちょっと変わってるし、カウンセラーのあり方もきっと普通とは違うと思うけど……。ああでも、大丈夫。リピーターは多いし、姉貴のところにしか通えないって言ってくれる人も多いから、そこは安心してほしい」
お姉さんの話になった途端に、映画のこと以上に饒舌になるあたり、心底慕っているのだなということがわかる。俊くんがここまで心を置ける相手だというだけで、それはもう信用に値する相手だと思った。
「ふふ、大丈夫だよ。お姉さんを信じる俊くんを信じてるから」
「…………」
私の言葉を聞いた俊くんは、手元の動きすら止めて、静止したように固まっていた。
「え、どうしたの」
「……そんな、いきなりずるいよ。そんなに嬉しいこと言われたせいで手元が狂いそうで止めちゃったじゃないか」
そう言われて然るべき人物だと思っているから、当然と思って言ったのだけど、そうあらためられると、真っ直ぐ伝えた言葉に少しの羞恥心が宿る。
話題を変えるように言った。
「お姉さんは、カウンセラーやってるっていうくらいなら聞き上手なんだろうなあ」
話を切り替えたことで空気が一変して、俊くんはまたカット作業に戻る。
「そうだね、危うさもあったけど、それと同じかそれ以上に、安心感や包容力があって、俺にとっては姉兼母親って感じだったかな」
そう聞いて、幼い頃から母親がいなくて、その寂しさを埋めるために映画を見始めたのだ、と言っていた記憶を鮮明に思い出す。
なるほど、お姉さんでありお母さんでもある存在。それは慕うわけだ。
「とっても頼もしいね。ぜひ、私も話を聞いてもらいたいな」
「それなら姉貴に話を通しておくよ」
もちろん、記憶症状の話もするとは思うけど、もとよりそこに関してのなにかを期待しているわけではない。
もうひとつの症状について、私は話を聞いてもらいたいと思っていたのだ。この記憶の話よりも、もっと周囲に話しづらい症状。
ひと言で表すなら、恋煩い。
恋愛で心を病んだ人がカウンセリングを受ける、なんて事例は、きっと枚挙に暇がないはずだ。そんな一例としてでいいから、話を聞いてもらいたかった。
澪ちゃんは奏多のことを考えない方がいいと言うし、両親はあえて奏多のことに触れてこない。どちらもきっと、私を考えてのことなのだとは思うけど、そうして気を遣ってくれている人たちに、私は心の内を晒せないと思ってしまっていた。
ただ、溜まりに溜まっている感情を、吐露したいがために、カウンセリングを受けたかった。
「完成だよ、ほら見て」
私が考えに考えているうち、ヘアセットまで終えた俊くんは、満足しているようにそう言った。
鏡には、様変わりした私が映っていて、自分だと理解はできるけど、別人みたいだなと感じられた。髪は地毛の黒から、光にあたると透き通るようにも見える上に自然体なナチュラルブラウンに変わって、肩口で切り揃えられた髪はヘアオイルで保湿されていることもあって、大人びた質感に纏まっている。
大人の女性っぽいな、というのが一番の感想で、その感想を自分の容姿に持てているという実感が後から追いついてきて、無性に嬉しさが込み上げる。
「え、すごい!! ありがとう、とっても素敵」
私の反応に、さらに満足気な笑みを深くした俊くんは、良かった、と頷いてくれた。
容姿を整えるだけで、気分が前向きになる。今の私なら、後ろ向きでネガティブな自分から変われるかもしれない、なんて少し思えた。
「瑚子さん、今日はありがとう。まだ精進する身ではありますが、これからもよければ担当させてください」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「その返答を、恋愛的にもしてもらえるように、もっと精進します」
「……また困らせるようなことを〜」
そんな会話をして笑みを交わす。このやり取りもこの時間も、私は心地よいものだと思い始めている。
「それじゃあ、俺は店の片づけしないといけないから、今日はバイバイかな」
「うん、そうだね」
「旅行の件は考えておいてほしい。きっとまた聞くと思うから」
「わかった」
「それと、姉貴にも話をしておくから、カウンセリングできる日程見えたら、そっちも連絡するね」
「ありがとうね」
そんな話をして、その場は別れた。
その翌日の夜、早速俊くんから連絡があり、お姉さんとのカウンセリングの日程の候補が送られてきた。とは言っても、そのどれもが水曜日の十七時から、ではあったのだけど。
最近はアルバイトと学校、そして偶に澪ちゃんや俊くんに会う、くらいの毎日だ。早いに越したことはないだろうと、一番直近の来週の水曜日に予約する旨を、俊くんにメッセージで送った。
【そうそう。姉貴が瑚子さんのこと事前に知っておきたいって言っているんだけど、名前や症状について、俺が知ってることは話しても平気?】
カウンセリングを円滑に進めるためだろう。私は肯定のメッセージを送って、その日を待つことにしたのだった。
しかし、カウンセリングの当日、お姉さんに急用ができたという理由で対面は叶わなかった。少し落胆した思いを抱えながら、俊くんとカフェで少し話して帰ることにする。
また翌週の水曜日にも予約をしたものの。
「姉貴、前の人のカウンセリングが長引いているから、また別の日でいいか、って」
「私は全然構わないけど……」
その日もそんな理由で、お姉さんには会えないとのことだった。私も予約を入れている身なのに、と気にかかる気持ちもあったけれど。
「いや、ほんとごめん。自由人な姉貴で……」



