君が忘れた物語

 「瑚子ちゃん〜!」

 「澪ちゃん!」

 夏目澪。中学生の頃の、私にとって唯一の友達と言えた彼女が、専門学生の姿になって私の前に座る。長く綺麗だったウェーブのかかった髪は、今はショートボブに赤のインナーカラーという風貌に変わっていて、より垢抜けた印象だ。そんな彼女とは、恵比寿(えびす)の適当なカフェで待ち合わせしていたのだった。

 「待たせちゃってごめんね、片づけが長引いちゃって……」

 上京をきっかけに再会してからあらためて交流していて、今では愛称で呼べる仲になっている。中学時代のクラスのアイドルは、今では私にとって心強い東京で唯一心を許せる相手だった。

 「コーヒーひとつで、お砂糖もミルクもなしで大丈夫です」

 さっと注文した澪ちゃんを見やる。

 奏多のことを追って東京の大学に通う私とは違って、澪ちゃんは美容師になるための専門学校に通っている。

 いつか髪型もメイクも全部自分でプロデュースしたいから、一番専門的なところから、ということで美容師への道をひとまずは進んでいるらしい。立派だなと、素直に思う。

 「全然大丈夫、作業してたから」

 そう言って操作していたスマホをバッグへと仕舞った。

 「……秋岡くんの、情報集め?」

 「ああ、うん。そうだよ」

 躊躇いがちに訊く澪ちゃんに、私は軽く首肯する。私が東京に来た目的は、大学に通って勉学に励むためでも、夢を叶えるためでもない。奏多を見つけるためだ。

 人数の多いいわゆるマンモス校に入学し、この記憶症状を活かして生活に必要なだけのアルバイトをこなす毎日だって、全部はそのためだ。

 「なんの連絡もなくいなくなっちゃった奴のことなんて忘れて……」

 「…………」

 「いや、今のは失言だったね、ごめん」

 「ううん、そう言いたい気持ちはわかるから。恋人に何も言わずに去っていく相手を想い続けても仕方ないってことくらいさ」

 澪ちゃんには、上京して交流が増えたタイミングで、自分の症状についてちゃんと話していた。奏多と付き合った経緯も、全部。

 奏多を探すことを手伝ってくれていて、言ってしまえば、いなくなった奏多に代わる理解者でもある。ただ、変に気を遣わせてしまうことだけは、心底申し訳ないと思いながら。頼れる人もほとんどいなくなって、いつもひとりで行動する今の私は、奏多と出会う前の自分のようにすら感じられる。

 「そういえば、私に話があるって言ってたよね」

 少し気まずい空気になりかけていたところを、私の言葉で断ち切る。

 「そうなの、実はね」

 そう言って、一間の逡巡(しゅんじゅん)を挟む。

 「瑚子ちゃん、きっと乗り気じゃないとは思うんだけどさ」

 「ん? どうしたの?」

 「秋岡くんのこと忘れろなんて言わないから、ただ、視野を広げてみてほしいなと思ってね」

 「うん?」

 妙に煮え切らないこの反応も、きっと私に気を遣ってくれているからなんだろうなと思う。

 「よければさ……私の友達を紹介しても、いいかな……?」

 その言葉で合点がいった。これはきっと、異性のことを言っているのだろう。

 「……新しい恋愛に積極的にはなれないと思うよ?」

 正直奏多以外の男性をそういう目で見れるとは思わないし、いつもの私なら丁重に断っているだろうけど、でもなぜか、この時はいいかなと、思ってしまった。

 私のことを考えて、私のためにと思ってしてくれていることを、断りたくないなと思った気持ちが一番だったと思う。

 「でもそうだね、いない人のことを追って、引きずってばかりじゃ、しょうがないもんね」

 それはきっと、自分自身に向けて言っているものだった。

 「うん、いいよ。澪ちゃんが紹介してくれる人なら、きっと素敵な人なんだろうし」

 私の返答を聞いて驚きとともに深く笑みを浮かべた澪ちゃんは、すぐさま紹介相手との対面の機会を設けた。

 四日後、同じカフェで挨拶がてらという名目で初対面することになったのだった。

 「はじめまして。柊木俊(ひいらぎしゅん)と言います。よろしくお願いします」

 簡潔な挨拶とともに、爽やかな笑顔を向けてくれる。その笑顔が最も映えるような長過ぎないナチュラルなセンター分けの髪型や、シンプルな服装の中の細やかな小物に気を遣っているところが、本物のおしゃれな人という印象を与えてくる。

 「歳はひとつ上なんだけど、私の同期なの。この人ほんと女運が無さすぎるから、私の友達の中のいい子代表である瑚子ちゃんの話をしたら食いついてきてね」

 私と柊木さんの間で繋ぎ役をしてくれている澪ちゃんが、そう説明してくれた。
 
 いい子代表というより、不憫(ふびん)代表って見えていそうなものだけど、なんて少し捻くれたことを思ってしまう。私のためを思って設けてくれた席なのも、きっと間違いないと思うから。

 「春木瑚子です。今日はわざわざありがとうございます」

 私も当たり障りのない挨拶を済ませておく。そんな私の社交辞令に対して、彼は心底嬉しそうに「お会いできて嬉しいです」と言ってくれた。

 初対面の距離感を掴みづらいような気まずい空気がある中で、会話も仲も進展しそうにないと思いながら、一応話を広げようかと思い紹介の中で気になったことに言及してみることにした。

 「女運がないって、なにかあったんですか?」

 「そうなんです、初対面でこんな話してもいいのかわからないですけど、聞いてもらっていいですか」

 その表情は、私よりも不憫そうに見えてしまったせいか、反射的に頷いていた。
 
 そうして、柊木さんの壮絶とも、不憫とも言えるような恋愛体験談が始まった。

 「俺、姉がいるんですよ。結構やんちゃな姉で、類は友を呼ぶと言いますか、姉の友人たちも同類の人種だったんですけど……」

 ひとつ目の話から、かなり踏み込んだものだった。

 「高校生の頃にした初体験が、そんな姉の友人による当て馬、だったんです」

 その告白に、澪ちゃんは笑いを堪えるように口元を手で覆っている。
 
 「姉のいない隙を狙って、初心(うぶ)だった俺に手を出してきて。男子高校生がそんな誘惑に耐えられるはずもなく。気づいた時には姉の友人に対して特別な感情を持ってしまっていたんです。けど、その人には強面の彼氏がいて、俺は目の敵に……」

 それが始まりでした、と話のオチとしても十分すぎるエピソードを、彼は話の始まりと言ってのけた。ほんと、どんな人生経験をしているんだ。

 結局、柊木さんのした経験は、姉の友人による不貞行為から始まり、浮気やストーカー被害、ネズミ講への勧誘まで、悪い出会いはなんでもござれというような相手と運悪く関係を持ってしまっていたらしい。

 「初対面なのに、早々からこんな話をしてしまって申し訳ない……」

 言わば(だま)されているわけだけど、でも、その理由も彼の言動を見ていてわかるような気がした。

 「春木さん、お飲み物のおかわりとかいかがですか?」

 私の手元にあるグラスが空だと把握するや、そんな声をかけてくれる。それだけでなく、店員さんに対する受け答えも懇切丁寧で、注文に困っているご老人の方にも気さくに声をかけてしまうような人。つまりは、とんでもなく優しい善人だった。

 「その過去の方々との出会いって、もしかして全部柊木さんが……えっと、なにかを手助けしたところから、とかじゃないですか?」

 柊木さんが都合よく、という言葉が出かけて慌てて言葉を探した。

 「え、なんでわかるんですか!?」

 その反応に、澪ちゃんが耐えきれないというように顔を横に背けて小さく吹き出していた。

 「まあ、なんとなく……」

 人が良すぎるあまり、疑うことをしないような人なのだろうと、その僅かな時間でも人柄を把握できてしまうほどわかりやすい人だ。そりゃあ騙しやすかっただろうし、依存もしやすかっただろうな、と。

 「街中で困ってそうだから声をかけたり、逆に声をかけられたから道案内した流れから連 絡先を交換したり、そんな形が多かったです」

 こんなにも真っ直ぐな人が存在しているだなんて信じられないとすら思ってしまう。奏多ですら、もう少し疑うことを知っていたのに。その上、やんちゃな姉と成長をともにしてきた彼がこんな人柄に育ったのは、突然変異か何かなのだろうか。

 そんな思考を巡らせていると、ふと笑いを堪えていたはずの澪ちゃんと目が合った。彼女は、また先とは違った笑みを湛えている。

 「いいでしょ」

 そのひと言を投げかけられてすぐに意図を理解する。つまりは、柊木さんのことをいい人でしょうと、そう訴えかけてきているのだ。

 たしかに、珍しく異性に興味を持っているのは事実だし、彼ほどの経験ではないと思うけど、私の抱える辛さを共感してくれる相手なのかもしれないなという気持ちはある。それが異性としてどうこう、という感情と結びつくかはわからないけど、他の男性と違うなと感じているのは間違いなかった。

 「柊木さん、連絡先を交換しませんか?」

 せっかく設けてくれた機会だし、相手のことも嫌だとは感じていない。だから私は自分からそう切り出した。

 澪ちゃんが少し驚いたような表情をしているのを横目で確認していると、柊木さんは「喜んで」と、最初よりもさらに自然で爽やかな笑顔を浮かべて言ってくれた。

 「春木、瑚子さん……」

 交換した連絡先を早速確認している柊木さんは、そんなふうに何度か私の名前を呟く。

 「瑚子って名前、すごく口馴染みのいい響きですね」

 「それは、どうも」

 「よければ、瑚子さん、と呼んでもいいですか? 下の名前で呼べた方が仲良くなれると思うんです」

 次は柊木さんがそう提案してくれる。呼び方の変化の重要性を私は奏多との経験から知っていたので、仲良くなるためにそれを快諾した。

 「では、私は俊くんと呼びますね」

 親しみを込めて異性のファーストネームを呼ぶのは、奏多以外でははじめてだった。

 不思議な感覚を覚えつつも、呼び捨てでないことに変な安堵感を覚えながら「俊くん」と確認するように口にした。


 泣いていた。

 
 気づいた時には涙腺が決壊していて、溢れ出る涙を止められずにいた。

 できる限り声を押し殺していたのだけど、涙だけは抑えられなかった。

 「瑚子さん、大丈夫……?」

 人目につかない場所に移動しても涙は止むことなく、そんな私の様子を見て俊くんは戸惑っているようだった。

 「……ごめんね」

 ようやくそれだけ言って、さらに涙を流し続けた。

 そんな有様になってしまった理由は単純で、ある恋愛映画を観たからだった。