君が忘れた物語

 それは、高校生に向けられる言葉にしては、あまりにも無慈悲な宣告だった。

 「若年性アルツハイマーかと思われます」

 「若年性、アルツハイマー……」

 告げられた言葉を飲み込めずに口に出して呟く。聞いたことのある病名ではあったけれど、まさか自分に対してそう告げられる日がくるなんて思ってもみなかった。

 「現時点では完治するための薬はありませんが、秋岡さんの場合、比較的早期発見ができているので、できる限りの治療を頑張っていきましょう」

 医師の言葉はなにも脳に入ってくることはなく、反射的に「はい」程度の返事だけで済ませてしまう。

 「これからは対症療法になります。中核症状、つまりは認知機能の障害にはアリセプトという認知症の進行を遅らせる薬、心が不安定になる場合には抗精神病薬を使うかと思われます」

 難しい説明なんてしないでほしい。なにもわからないし、なにも知らない。そんなふうに言われてしまったら、俺が本当に重病を患っているみたいじゃないか。

 「って、俺のことだもんな……はは……」

 ほとんど音にならない声で自虐気味に笑う。

 アルツハイマーということは、記憶を、忘れていってしまうのだろうか。

 ひと通りの説明を受けて病院を後にするものの、これからどこに向かえばいいのかなんてわからなかった。別にアルツハイマーだから帰り道を忘れたっていうわけじゃない。こんな状態の俺がいていい場所なんて、あるとは思えなかっただけだ。

 「そうだ、瑚子に――」

 瑚子に話さなきゃ、とスマホを取り出して、でもやめる。

 俺が瑚子になにを話せばいいと言うのだろう。

 若年性アルツハイマーになりました。これからいろんなことを忘れていきます。だなんて言えるわけがない。

 なにも忘れることのできない瑚子を、素敵な記憶で満ちた毎日を送らせたいと思って付き合った俺が、そんな俺が逆にすべてを忘れていってしまうかもしれないだなんて……。


 「なんだよ、それ」

 皮肉にも、程があるだろ……。

 スマホを開いて今まで瑚子としてきたやり取りの数々を見返す。送り合った好きという言葉、お互いの生活を知らせる写真、何時間も繋いでいた通話の履歴。その全部の幸せな記憶を、写真フォルダに残すみたいに、できうる限り忘れないようにと心の奥底に閉じ込める。

 そうして、震える手をどうにか抑えつつ、意を決して『春木瑚子』と書かれたアカウントを、ブロックして非表示にした。

 瑚子にはもう、連絡は取らない。

 本当はちゃんとお別れをすべきなのかもしれないけど、明確な別れの言葉がない限り、俺は瑚子の恋人でいられる気がして、それが唯一、今俺を保ってくれているものだと思うから、それを手放すことはできなかった。

 瑚子ではなく、父親に、自分の抱えてしまったことを簡潔にメッセージで送る。ややあって【そうか。なにか必要なものがあれば言ってくれ】という返信があった。

 仕事がすべてというような父親にしては優しい言葉に、今は少し救われてしまう。

 でも、今さら父親に頼ろうとは思わない。自分でどうにかするしかないのだから。

 高校を卒業したらひとり暮らしをする。この症状を抱えてひとりで生きるだなんて、きっと無謀なことなのだろうけど、俺に他の選択肢はない。それが誰にも迷惑をかけないための選択だった。

 その考えがひとり歩きし始めたところで、けたたましい音が思考を中断させる。誰かからの着信のようだった。スマホを取り出すと、そこには『(すず)さん』と表示されている。カウンセラーの先生からだった。

 「もしもし……」

 『あ、奏多くん? 診断の結果出たー? 私が紹介したんだから、私にもちゃんと報告してよね』

 いつもの軽快な口調に少し安心する。様子の変わらない鈴さんと、そのことを〝いつもの〟と言えている自分自身の認識に。病名を告げられた途端に、自分が次々と物事を忘れていってしまうのではないかという恐怖感が、これからの未来が見えなくなってしまうと感じさせるほどの壁となって(そび)えているようだった。

 『奏多くん〜? 秋岡奏多くん〜』

 ハッと意識を取り戻す。途端に膨れ上がる恐怖や不安が、鈴さんの声音で少し和らぐようだった。

 「すみません、なんですか」

 『なんですかって、ねえ。電話に出たのなら人の話をちゃんと聞きなさい。私にも診断の結果を教えてねって言ったんだよ』

 「なんかぼーっとしてました。診断の結果ですね、えーっと、若年性アルツハイマーって言われました」

 努めて普段通りの口調を意識して伝えた。気持ちが沈んでいることをあからさまに示したって仕方がないじゃないか。

 『それ、ほんと?』

 「はい。治療薬がないから、なんとかっていう薬で進行を遅らせようね、ってことで……」

 『今すぐ行くから、病院で待ってて』

 そんな真面目な鈴さんの声ははじめて聞いたというくらい、はっきりとした重みのある声音だった。

 そうして待つ時間十分もかからずに、鈴さんの姿が見えた。

 いつも身だしなみには気を遣っていて、整った状態の鈴さんが、少し髪を乱しながらも歩いてくる姿を見ると、どれだけ急いでくれたのかがよくわかる。

 「鈴さん、こんにち――」

 「奏多くん、こっち来て」

 そう言った鈴さんは俺の手を引いて、なりふり構わず歩を進める。先程俺が診察を受けた本館とは違う建物に、鈴さんのカウンセリング室なる部屋があった。

 一見するとただの診察室というような内装なのだけど、所々に鈴さんの所有物とは違うような玩具や衣類が置いてあって、異質な空間だった。

 「物は気にしないで。担当してる人の中に、こういう物がないと心が落ち着かない人がいるんだ」

 そうとだけ言って、適当な椅子に促されたので腰を下ろした。

 「それにしても、若年性アルツハイマーか……」

 「珍しいんですか?」

 「そうだねぇ、珍しいっちゃ珍しいんだけど、なにより高校生でなっていることが珍しい。若年性とは言っても、四十歳くらいの人が一番多い症状だからさ」

 こうして専門的なことを言っている姿を見て、ようやく本当に医療関係に携わるカウンセラーなのだなと、他人事のように考えてしまっていた。

 「たしかに治療薬や特効薬はない。進行を遅らせることも大事だけど、そもそも症状を意識しないように普通の生活を送れることが大事だね」

 「そうなんですね」

 俺の他人事のような反応に、鈴さんは眉を下ろして寂しそうな瞳を向けてきた。

 「とりあえずは、水曜日の十五時頃、私はここに必ずいるから来てほしい。なにがあっても毎週通って」

 「どうしてですか」

 「詳しいことはあらためて話すけど、こうして毎週通うような習慣化できる行動は大事になってくることだから」

 アルツハイマーの症状に大事なのだろうことは理解できた。俺のことを考えて言ってくれているのも伝わるから、そこは素直に頷く。

 ただ。

 「聞かせてください」

 専門の人から、ちゃんと聞いておきたかったことがある。

 「どうしたの?」

 「俺の記憶はどうなるんですか」

 そこの一点だった。

 「俺は、全部を忘れてしまうんですか」

 「そうだね、アルツハイマーの症状の進行を抑えられなくなったら、基本的なことはすべて忘れてしまう」

 「そうですか」

 感想はなにもなかった。その事実に対する感情を今は発現させるわけにはいかないから、無視をした。

 「もうひとつだけ」

 「なに?」

 「この症状って、行き着く先は死ですか」

 その言葉に場が静まり返る。俺の質問を受けた鈴さんは、俺のことをじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

 「……発症してから平均で八年、と聞いたことはある」

 きっと普段の先生なら「人が行き着く先は、誰だって死だよ」なんて言いそうなものだけど、今は違った。茶化すことも、誤魔化すこともなく、俺の求めている応答だけをしてくれていた。

 それがきっと、彼女なりの誠実さ、優しさなのだろうなと。

 八年。それは、長くも短くも捉えられる時間だ。あと八年しか生きられない、今十七の自分が二十五になる頃には……。なんて考えたら短く感じられる。でも、死の覚悟をしてすべてを諦める期間にしては長すぎるように思えた。

 「ただ、若年性アルツハイマーの症状進行は、ほんと個人差が大きいから、平均はあまりあてにならないかもしれない。あまりその数字に囚われちゃだめだよ」

 それだけいうと、もう帰っていいと言われた。言われたこと、自分の身に起きたこと、あとは純粋なショック。様々な感情で疲れているだろうと配慮してくれたらしかった。

 「あ、あと! これから毎日日記を書くこと。その日あったことや、大事な人間関係、そういうなにかを忘れかけたときに、これを見たら思い出せそう!なんて思える情報を、毎日日記として書いていってね」

 それを毎週持ってくること〜、と最後にはいつもの鈴さんらしい少し適当な口調になっていた。そこまで含めて鈴さんの優しさなのだと知っていた。

 「ありがとうございます」

 心からの感謝を口にして一礼する。そうして、俺は病院を後にした。