君が忘れた物語

 抱き合ったあの日から、瑚子に対する気持ちはさらに過熱していた。今をどう幸せでいようか、という考え方から、これからも幸せでいるにはどうするか、という考え方に変わっていた。

 だから、将来の夢なんて持っていなかった俺は、ひとつの目標を得た。

 記憶に関する医者、もしくは瑚子の隣にいて生きやすいと思ってもらえるように、理解者ともなれる精神科医、またはカウンセラー。

 学校の成績すら大して優秀でもない俺は、もちろんそんな専門的な知識なんてない。だから、調べたり、学校に常駐しているカウンセラーの人に話を聞きに行ったりした。

 満ち足りた上に、恋人を想ってできた目標に向かう毎日は、特別で、幸せだと、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)して味わうように自分の今の幸福を実感していた。

  そんな日々が当たり前になりつつある中、当たり前ではない違和感があることに気づいた。 

 「ん……?」 

 書店に何かを買いに来たのに、何を買いに来たのかを思い出せなかった。日常の中でその程度の些細な不注意は誰にだって起こるようなことだとも思ったのだけど、そういった物忘れが、頻発するようになった。 

 学校の宿題、買い物の内容、部屋に置いたはずのスマホの場所、しまいには友達との遊びの約束まで。スッと頭から抜け落ちたように、言ってしまえばド忘れしてしまったみたいに思い出せなくなって、ふとした時に「あぁ」なんて呟きと一緒に記憶に蘇ってくる。

 そればかりか、心身にも僅かな違和感が浮かび上がる。頭痛や眩暈(めまい)が増えたり、寝入るのが遅かったり、途端に意味のわからない不安に襲われたり。それは、無視できる程度の違和感ではあったのだけど、気にしてしまうと、今までの自分ではあまり考えられない症状の連鎖でもあった。

 「それ、鬱の症状じゃない?」

 学校の相談室で、毎週のように話を聞かせてもらっているカウンセラーの先生に最近の違和感を事細かに話すと、そう返答があった。

 「奏多くん、いつもカウンセラーになるためにはどうすればいいのか、って話ばかり聞いてくるから、はじめてカウンセラーらしい仕事ができそう」

 「別にカウンセリングしに来たわけじゃないですよ」

 「そんなこと言って。症状がほぼ鬱症状だもの。そういう相手にこそ、私たちみたいなカウンセラーの出番なのよ」

 話を引き出そうと、俺の目に視線を合わせて待ち構えてくる。話すのはいいのだけど、本当に鬱になるような経験も兆候も精神状態でもなかったから、どう言ったものかと考えてしまう。

 「高校生でも鬱になんてなるんですか?」

 「なるなる。むしろ、今の時代家庭環境が悪いだとか、友人関係上手くいってないだとか、そういうパターンでたくさんあるから、昔より若い子たちが鬱になりやすい環境なんだと思うよ」

 「そうですか……。でも俺、めちゃくちゃ幸せですよ。可愛い彼女がいて、将来の夢も見えてきて、友達に困ることもなく。一般の高校生よりもずっと充実している自信があります」それがすべてにおける本音で、自分が鬱病になるだなんて想像も納得もできない。先生だって「そりゃあ満たされてるわ」なんて言って、簡単に納得してしまっている。

 「ご家族は? 上手くいってる?」

 「家族はー、あまり干渉しないですね。ひとりっ子で、母親はいなくて、父親は遅くまで仕事で、だから基本は放任主義です。俺としては、そこになにかストレスを感じるような 感情は持ったことないですね」

 瑚子や瑚子の家族との出会いで、そんな家庭を寂しいと感じていたんだと実感もしたのだけど、なんて心中で呟きながら。

 俺の話を聞いた先生は「そっかそっか」と軽くメモを取りながら、真摯に俺の話に向き合ってくれている。これが、カウンセラーとしてあるべき態度なのだろう。

 「もしも、症状が落ち着かなかったり悪化したりする場合は、病院に行った方がいいかも。とりあえずは私が様子見るから、毎週この時間にここに来ること」

 カウンセラーをやる人は、先生みたいに面倒見の良さも必要になってくるんだろうな、なんて思いながら「わかりました、ありがとうございます」と挨拶して部屋を出た。

 でも、翌週、カウンセラーの先生のもとを訪ねることはなかった。なかったというより、忘れてしまっていた。約束の日から二日ほど経過した時に、先生からの連絡でようやく思い出せたのだった。

 形の見えていなかった違和感は、明確な鋭さを持って俺の喉元に突きつけられているようで、声に出し難い不安感と恐怖感を募らせ始めていた。

 そして、それから少しして、その違和感が形を成して、恐怖とともにそれと対峙(たいじ)することになる。

 それは、今年度ではじめての雪の予報が四日後に迫る、初冬のこと。瑚子のもとへ会いに行くと長らく楽しみにしていた約束の日だった。

 いつものように早朝のバスに遅れないよう瑚子に電話で起こしてもらって出発の準備をしていた。のだけど。

 三十分もした頃には自分がどうして外出の準備をしているのだろう、なんておかしな疑問を一瞬抱いた。でもスマホを確認するとすぐに瑚子に会いに行くのだということを思い出して。

 そうやって不可解な感覚を引きずりながら外へ出ると、その時にはもう、俺は、どこに何をしに行けば、瑚子に会いに行けるのか、判断ができなくなっていた。

 つまり、あれだけほとんど毎月のように会いに行っていた、その道筋を、忘れてしまっていた。

 その動揺のせいで、早朝ということもあり機能し切っていない脳みそはさらに思考を止めて、気づいた時には昼を過ぎていた。

 もう、会いに行けない時間だ、なんてことをぼーっと思い浮かべながら、どうにかメッセージだけ打ち込む。

 【ごめん、バス乗り過ごして、辿り着けそうにない】

 申し訳なさ以上に、当たり前にできたことができなくなっている恐怖心が、俺の心を埋め尽くしていた。

 どうして……。

 どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 答えのない疑問と恐怖は、簡単に平常心を蝕ませて、感情のコントロールを手放してしまう。

 「どうして……っ!!」

 当たる先のない感情は、ただ怒声として喉から吐き出されるだけだった。

 一拍を空けて、聞き慣れた着信音が響き渡る。スマホの画面には瑚子という文字。その文字列を見ただけで、自然と通話開始のボタンを押していた。

 「もしもし」

 通話が繋がったことを確認するや否や、すぐに愛おしい声が聞こえた。

 『奏多? どうしたの、なにかあった?』

 その心に優しく触れるような、慎重でいて温かな瑚子の声を聞くと、なにも言葉が出なかった。

 自分でも自分のことがよくわからず、取り乱して、楽しみにしてくれていた瑚子の気持ちも反故(ほご)にしてしまって。情けない自分に、心底嫌気がさす。

 「…………」

 『奏多……?』

 だめだと思った。このまま瑚子の声を聞いていたら、自分を保っていられる自信がなかった。その優しさに甘えて、自分でも理解できていないわけのわからない不安や恐怖を、感情のまま吐露してしまいそうで、ともすれば、瑚子を当たる相手にしてしまいそうで、それだけは嫌だった。

 俺は、瑚子の毎日を楽しみな記憶で埋め尽くして、生きることを楽しいと思ってもらいたくて、隣にいると決めたのだから。

 「……なにもないよ。というか、なにもわからない。ごめん瑚子、今日は会いに行けない」

 そう言い放ち、一方的に通話を切る。

 罪悪感で胸が痛む。それでも、通話を続けたまま、自分も瑚子も必要以上に傷つくようなことになるより、ずっとマシだと思った。

 瑚子にはまた、自分ひとりで抱え込んでる、なんて思われていそうだけど、でも瑚子を傷つけるなにかを抱えているのだとしたら、俺はそれに近づけたいとは思わない。

 何よりもまず、俺は、自分が何を抱えて、何を背負ってしまったのかを、知らなければならないのだ。

 瑚子とは違うアカウントを表示して、電話をかける。

 ほとんどコール音を鳴らさず、すぐに返答があった。

 『はーい、もしもしー? 奏多くんだよね、どったの』

 先生の軽快な返答を聞いても、今の荒んだ心が和むことはない。

 単刀直入に、

 「お願いします」

 聞いた。

 「信頼できる医者を紹介してください」