君が忘れた物語

 「夜ご飯なにがいいー?」

 リビングの大きなソファにふたりでもたれならがら、少し猫撫で気味な声で、瑚子はそう聞いてきた。

 「ふたりでいたいから作るか宅配がいいな」

 「この街に宅配なんてありませーん」

 以前もお邪魔した瑚子の実家。俺がこっちに戻って来る度に、瑚子の家にお世話になっていた。いつも歓迎してくれる温かみをありがたく感じながら、もう俺の居場所のひとつだと思えるようになっている。

 ちなみに、恥ずかしさから付き合っていることをきちんと挨拶したわけではないけど、俺たちふたりの関係は察してくれていた。それなのに、街に戻って来る度快く迎えてくれて、宿泊すら許してくれるくらいだ。ものすごい信頼を感じるからこそ、それを崩さないようにと誠実さだけは努めて保っている。

 「でもそうだね、今日明日はお父さんもお母さんもいないし、何より付き合って二年記念日の日だから、ふたりきりの時間を過ごせたら嬉しいって私も思う」

 恋人同士になってから二年、その関係性に随分と慣れてきて、ふたりでいる時間を心地よく感じられている。

 外に出れば手を繋ぐし、人目がなければ抱きしめ合い、目が合えば自然とキスをする。そうできるくらい自然に、誰が見ても恋人らしい恋人だ。

 ただ、その先のことは何も進展してはいないのだけど。

 「ご両親に気を遣わせちゃったよなぁ、俺たちの都合に巻き込んでしまって申し訳ない」

 「ううん、お父さんもお母さんも、夏の休みを使って旅行してるからいいんだよ」

 「瑚子は行かなくて良かったの?」

 「私は、だって奏多と一緒にいたいから」

 そう素直な言葉を口にしてくれる。瑚子曰く、言いたいことを恥ずかしいからと我慢した方が、気づいた時には後悔していて記憶に残るからと、吹っ切って言うことにしたらしい。ただ、そういった意識させられる言葉を聞くと、それだけでスイッチが入ったように目を合わせて唇を重ねてしまう。

 嬉しいのだけど、俺は、その先のことをどうしても考えてしまうのだ。
 
 そういう(・・・・)気分になっても、その先には進めない。いくらキスをしたって、肌を触れるための手は動かさなかった。

 「それで、晩ご飯なににしようか」

 何もしていないけど、何もしていないからこそできた気まずい空気を和ませるために、努めて普通を装ってそう聞く。

 以前から、こういう空気になることはあった。恋人として時間を重ねているうちに、より異性を意識する瞬間が増えていった。その度に話を逸らしていて、瑚子もそれに合わせるようにすんなりと流してくれていた。だから、夏目さんが言うような不安を、そこまで は抱かせていないだろうと、そう決めつけていた。

 「奏多」

 でも、今日の瑚子は違った。真っ直ぐな眼差しが、俺を射抜いて離さない。空気を変えようと吐いた言葉も意味を成さず、少し重たくのしかかる空気に溶けていく。

 「ご飯は、なんだって食べたいもの作るから、だから今は私の目を見て、話も目も、逸らさないで」

 いつになく真剣な瑚子は、ひと文字ひと文字をはっきりと発声させて、慎重に問うた。

 「奏多、私のこと好き?」

 その質問をさせてしまった瞬間、自分の浅慮さ加減に嫌気がさした。恋人の俺よりも、友人の夏目さんの方が、ずっと瑚子の気持ちに寄り添っていたのだと実感する。

 「好きだよ。付き合う前よりも、付き合い始めよりも、今が一番」

 それが俺の口からすぐに飛び出した偽りのない言葉だった。

 「じゃあさ、どうして目を逸らすの」

 「いや、逸らしてなんか……」

 「逸らしてるよ。付き合う前も、今も。きっと私の症状のこと、記憶のことを気にして慎重になってくれているんだと思うけど、でもそれは他の人が私のことを腫れ物を扱うみたいな態度で接してくるのと変わらないよ」

 言われてハッとする。

 そして、次のひと言。

 「恋人には、私の症状じゃなくて、私のことを見ていてほしいよ……」

 悲しさとも切なさとも違う、寂しいような表情と弱々しいこの声音は、夏目さんの言う不安そのものだった。それを抱かせてるのも、自分の口から吐き出させてしまっているのも、一番好きな人にはさせたくない表情をさせているのも、全部俺のせいだ。

 「瑚子、ごめん」

 「うん」

 「瑚子の症状を言い訳にして逃げてた。もしも、はじめての経験が良くないものとして記憶されてしまったら、そう思うと怖くて動けなかったんだ」

 情けなく首を垂れてそう自白する。特別なことだからこそ、嫌な経験として記憶されるのが心底怖かった。

 けれど、大丈夫だよ、と次には優しい声音になってそんな俺の鼓膜を撫でる。

 「そんな心配しなくていいんだよ。私はね、相手が奏多なら、どんな経験になっても、それはもういい記憶なんだよ。たとえ欲望のまま我を忘れて迫られたとしても、それでもいい。私がその対象になれているなら、って思ってしまうくらいには、いいんだよ。それだけ好きだから」

 だから怖がらないで、と、言葉のまま俺を両の腕で包み込んでくれた。
 
 付き合ったあの日も同じようだったと思い出す。俺よりもずっと怖いはずなのに、不甲斐(ふがい)ない俺を慰めてくれている。俺は瑚子にとって誰よりも頼もしい相手でありたいはずなのに。

 「ありがとう、瑚子。もう迷わないし逃げないよ」

 「そういてほしい。奏多が相手なら私は全部を受け止めるよ」

 そう言ってくれる恋人がいる。ここまで迷いなく言い切るだなんてこと、なかなかできることではない。それだけの気持ちと覚悟を俺に示してくれている。

 それなら俺は応えなくちゃいけない、もう散々ではあるけど、それでもこれ以上恥をかかせるわけにも、(さら)すわけにもいかない。俺自身も強く覚悟して、瑚子の両肩を持った。
 
 言葉もなく口づけを交わす。そうしながら服の中に手を伸ばすと、なんの抵抗もなく言葉通り受け止めてくれた。気持ちを確かめ合って重ねて、想いのまま唇も重ねて、今度は身体も重ねる。

 こうして俺と瑚子は、この日、本当の意味で繋がった。