君が忘れた物語

 食卓にはカレーをメインとした家庭を感じる料理が並びつつも、そのどれもがお母さんのこだわりを感じられるものだった。

 「奏多くんは、カレーの辛さなにがいい?」

 「え、辛さ選べるんですか?」

 「うちの人はみんなわがままだから、私は辛口、瑚子は中辛、お父さんが甘口って、カレーを作る度にどの辛さも(そろ)えているのよ」

 それだけで母の愛情というものを感じられる言葉に、俺は驚きを隠せなかった。

 「すごいですね……。じゃあ俺もわがまま、言ってもいいですか?」

 「もちろんもちろん!」

 なんだか嬉しそうに笑うお母さんに、俺は少し躊躇いながらも伝えた。

 「それじゃあ、全部の辛さを食べてみたい、です」

 それは食べ比べ的な意味合いで言ったものだったのだが、どうやらお母さんには違う意図で伝わってしまったみたいだ。

 「食べ盛りだものね!」

 そんなことを言って、俺の前に並んだのは、大盛りに注がれた辛さの異なるカレー三杯だった。

 俺はそれを、この食卓を囲むための試練だと思って、ひたすら口に運んだ。

 「奏多……無理しないでね」

 必死になっている俺を気遣って心配してくれる瑚子や、俺に対抗してか苦しそうにしながらも次々とおかわりしているお父さん、そんな食卓を楽しそうに見守るお母さん。この空間にこそ、きっと幸せという名前がつくのだろうなと、そんなふうに感じながら。

 思い描いて、憧れを抱いて、それでも諦めていた幸せの形を目の当たりにして。食べ進めていた手を、止めてしまった。
 
 少し(うつむ)き、何かから来る衝動をきつく目を瞑ることで抑える。

 「奏多、大丈夫……?」

 瑚子の心配に反応できずにいると、次第にお父さんとお母さんも心配顔を向けてくる。
 
 それでも、なにも返事はできなかった。
 
 声を出そうそうすると、喉の奥で空気が(かす)れて、上手く言葉にならない。

 「どうかしたの?」

 お母さんの声に、俺は「いえ」とどうにか音にしたところで、スーッと目尻から何かが伝う感覚に気づいた。

 「すみません……」

 涙に混じった声で謝る。

 こんなにも素敵な時間に、自分の意味不明な情緒で水を差したくはなかったのに。どうしても抑えられなかった。

 「あまりにも、幸せだなと、思って」

 絶え絶えになりつつも、言葉を続ける。

 「こんな時間を、ずっと過ごしてみたかった……」

 瑚子一家は、俺が落ち着くまで待ってくれた。気まずくならないように配慮してくれて、あらためて優しい人たちなんだなと、この家庭のもとで育ったからこそ、瑚子も優しい子になったんだなと、そう感じながら。

 そうして落ち着くと、俺はおもむろに話し始めた。

 誰にも話したことのない、自分の話。

 ずっと内にめて、外へ出さないように誤魔化し続けていた、自分の話。

 よくある話だと思う。

 両親が離婚して、両親ともに俺を引き取りたくなかったというだけの話。

 母親が失踪したから、結果的に父親に引き取られて。

 仕事ばかりで家に帰ってくることもままならない父親との家庭なんて、ほとんど築かれるはずもなく、ただ生きるために必要な場所、としてしか機能していなかった場所だ。

 おまけに、父親の仕事の都合で、いろんな場所へと引っ越しを余儀なくされてきた。その度に周囲の環境が変化して、俺の築いてきた人との繋がりがすべてリセットされる苦しさは、なかなか慣れないものだった。

 そんな家庭で、なにか新しい気持ちや気づきが生まれるなんてことはなく、それが俺の当たり前で、家庭の温かみなんてものは、俺にとってはフィクションでしかなかった。

 「だから、こうしてここで感じられている優しさや温かみが、本当はずっと欲しいと思っ ていたものだったんだなって、そう気づいて……」

 俺がそこまで話すと、お母さんは背中を()でてくれて、お父さんは涙目になりながら耳を傾けてくれていて、瑚子は真っ直ぐに俺を見て話を聞いてくれていた。

 「そうだったんだね。話してくれてありがとう。私は奏多のこと知れて嬉しいよ」

 瑚子が相変わらずの優しげな声音でそう言う。

 「もう! そんなの、いつでもうちに来なさいよ! 自分の家と思っていてくれていいんだから。ね、お父さん?」

 「ああ、もちろんだ」

 年頃の娘が、同い年の異性を家に連れてきて、初対面からこう言える父親なんて、なかなかいないんじゃないかと思う。本当に素敵な人たち、素敵なご両親だなと。

 「ここでは寂しいなんて気持ちとは無縁だから、いつでも来てね」

 ずっと誰かに言われたかった言葉を当たり前のように言ってくれる三人に、俺はもう一度だけひっそりと涙を流した。

 それは、目元を潤ませる俺に対するお父さんなりの気遣いだったんだろう。唐突にこう切り出した。

 「瑚子の症状の話は、もう聞いているかな?」

 「はい、瑚子さん本人から」

 「そうか……。瑚子から誰かに話すことも珍しいことなのだけどね」

 感慨深そうにそう頷くと、お父さんは、きっと瑚子が自分からは話さないだろう瑚子のことを話してくれた。

 「瑚子は、ほとんど毎日泣いているような子なんだ」

 「ねえ、お父さん! ちょっとやめてよ!」

 恥ずかしいと言わんばかりに話を遮ろうとする瑚子を「まあまあ落ち着いて」と次はお母さんが(なだ)める。

 「でも、それは症状のせいで、仕方のないことなんだ。忘れたくても忘れることができない症状。そのせいで特に記憶として強く印象に残る出来事、特に悪いことや辛かったことを、その出来事を体験した時とほとんど同じ鮮度で思い出すから、それだけ精神的にも疲弊して、その結果として涙を流してしまうんだ」

 神妙な面持ちで語るお父さんの表情には、少しの悔しさが滲んでいた。

 「そんな瑚子に、親がしてやれることなんてなかなかなくてね。正直言って頭を悩ませていたんだ」

 でも、と、光明を見出したかのように少し晴れやかな空気を纏うと、真っ直ぐに俺のことを見据えてくる。

 「ここ最近は、そんな瑚子の泣いている姿を見なくなったんだよ」

 そう語るお父さんも、それを頷きながら聞くお母さんも、心底嬉しそうにしている。そして、瑚子本人はなぜか少し恥じらうように顔を背けていた。

 なにか瑚子に良い方向への心境の変化があったのだろうと俺も嬉しくなる。夏目さんという友人を得たからかもしれないけど、その理由の一部にでも、俺の存在があればいいなと思う。

 「瑚子さんは、優しいから、だと思います」

 こんなにも温かな家庭で大切に育てられて、今も娘のために頭を悩まして、あまつさえ どこぞの奴とも知れない異性の同級生にまで純粋な優しさを向けてくれる両親に育てられたんだ。

 「おふたりに育てられた瑚子さんは、特別な症状を抱えていることもあって、辛い経験をしている分、誰よりもその痛みを理解できる優しい子、なんだと思います」

 言っていて恥ずかしくなりつつ、それでも大切なことだから言い切った。

 俺の言葉に三人とも一瞬呆けた顔をしつつも、恥ずかしそうにする瑚子の反応も含めてその言葉を受け取ってくれたみたいだった。

 そうしているうちに、時報付きの壁掛け時計が午後九時になったことを教えてくれて、それがお開きの合図となった。

 帰りはご厚意に甘えて、アルコールの入っていなかったお母さんの運転で家の近くまで送ってもらった。

 「せっかくだし泊まっていけば良かったのに〜」

 「お母さん、調子乗りすぎ! 奏多も困ってるよ」

 「名前呼びなんて、青春ねぇ」

 「もう! お母さん!」

 そんなやり取りを聞きながら、いい時間だったなと家での時間との落差を少し残念に思う。

 そんな俺の様子を察してか、ふたりが声をかけてくれた。

 「またいつでもいらっしゃい」

 「うん、奏多さえよければ、うちは大歓迎。お父さんも奏多のこと気に入ってたみたいだから」

 そう言われると、新たに自分がいていいのだと思える場所ができたような気がして、心が少し軽やかになるのを感じる。

 「すごく嬉しいです。今日はありがとうございました」

 そうして、今日は別れた。また平日になれば瑚子とは学校で会えるのだから。

 一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、俺は学校に行くのを、瑚子に会うのを楽しみに感じている自分に気づきつつ。