君が忘れた物語

 「わっ、すごい……。キラキラしてる」

 コスメ専門店に入ると、そこはもはや別世界だった。至るところから化粧品のいわゆる大人の女性を思わせる香りが漂っていて、視界に映るほとんどすべてが女性を美しく彩るためのアイテムだった。

 「こりゃあすごいな……。俺の中にあるメイク用品売り場のイメージって、ドラッグストアにある専用ブース、くらいのものだったから、さすがに別物だな」

 「うんうん、私も同じこと思ってた」

 もともと化粧っ気の少ない私でも、リップや日焼け止めなんかを買いに、そういう売り場に寄ることはあったけど、そことは大違いだ。

 「予想はしていたけど、女性しかいないよね、俺の場違い感すごい」

 「それを言うなら私もそうだよ。みんな綺麗で大人っぽくて。中学生が来るには早すぎたかなぁ」

 「そんはことはないよ! 夏目さんがいる姿想像つくし!」

 「それは夏目さんだから……」

 「俺からしたら瑚子だってすごく素敵に見えているから、全然大丈夫! ほら、行こう!」

 そんな奏多の勢いに押されて、少し緊張を引きずりながら店内の奥へと足を伸ばしていく。奏多が夏目さんから教わったという私に似合いそうなメイク用品の知識や、気さくな店員さんのアドバイスなどを聞きながら店内を見て回る時間は想像以上に楽しいものだった。

 最初に抱いた敷居の高さはもう感じなくなっていて、むしろ今まで触れることすらできなかった宝の山が目の前にあるというような高揚感が私の胸を躍らせていた。

 「奏多奏多、こっちも!」

 「おーっ、なになに」

 高揚は程よく緊張感を和らげて、彼との時間をより心地の良いものにしてくれている。

 結局、奮発してしまって、母からもらっていたお小遣いの大半がメイク用品へと変わっていた。そのどれもが奏多の反応が特によかったものだ。「メイクなんて全然わからないから、参考にされても困るんだけどな……」なんて苦笑していた彼だったけど、私はそれでよかった。

 メイクだって結局のところは自己満足だし、飾った姿を見せたい相手なんて奏多くらいしかいないのだから。

 「瑚子、……これ、あげる」

 会計を終えて満足気に店を出ると、奏多が妙な態度で小包を渡してきた。それは私が手に持つ袋と同じロゴが記された小包だった。

 「えっと、これは?」

 「開けてみて」

 私の質問には応じてくれないものの、言われた通りに包みを開封していく。

 「これって……!」

 中から現れたのは、有名ブランドのリップグロスだった。

 「俺がプレゼントしたくなっただけだから」

 「…………」

 「気に入らなかったなら、返品してくる!」

 私の無言に不安を(あお)られたのか、奏多はそんなことを言ってくるけど、私はそんなのおいなしにそのプレゼントを胸に抱えた。

 「ううん、すごく嬉しい」

 「それなら、良かったよ」

 じんわりと胸中に広がる温かな感情に浸りながら、もらったリップグロスを見やる。

 「そういえばいつの間に?」

 「お手洗い行ってくるって言った時に」

 なるほど。そんな気の使い方ができてしまう男の子なんだね、なんて都会っ子の彼にさらに垢抜けた印象を抱く。

 「このブランド、かなり高かったよね」

 「瑚子がしているように、俺も奮発してみた」

 「私に使ってどうするの」

 「普段、自分にも他人にも使うことないから、こういうタイミングが一番かなって。瑚子が喜んでくれると、自分に何かするよりも俺は嬉しい気持ちになれるから」

 そんなずるいことを言ってくる彼に参ってしまう気持ちを自覚しつつ、それでも表情や声音には出さないようにと意識する。

 「どうしてリップにしたの?」

 「ちょっと恥ずかしいんだけどさ、綺麗って思ったから」

 「綺麗?」

 「うん。昨日大事な話をしてくれた時に、その言葉を発する口元がすごく綺麗に見えたんだ」

 そう聞いて、私は昨日奏多にいろんなこと、それこそ思い返すと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうなことを、その場の勢いで言ってしまっていた自分の姿で思い出した。

 そんな自分を誤魔化すように、反射的に言葉を発する。

 「夏目さんから借りたリップしてたもんね!」

 「そうそう。だからリップのことに関しては、より詳しく教えてもらってて、プレゼントしたいものも考えてたんだ」

 続けて「まあ瑚子が自分からカゴに入れてたら渡せなかったかもだけど」なんて言う奏多に、昨日の話に話題が集中しなくて良かったと安堵しつつ、リップは一応持っているからと買う候補にすら入れなかった先ほどまでの自分にサムズアップを送った。

 「ねえ、早速だけど使ってみてもいい?」

 「もちろん」

 その返事を聞いて蓋を外すと、内からは鮮やかな赤が見えた。艶やかな光沢を帯びているようにも見えるそれは、人の唇を彩るために輝いていた。

 少し眺めてから、下唇に少し厚く塗り、その後に上唇と馴染ませてやる。

 「やっぱ、めちゃくちゃ似合うな……」

 どう?と聞く以前に奏多は私の欲している感想を口にしていた。

 「ふふっ、ありがと」

 こんなにも充実した時間はいつぶりだろうかと思ってしまうほど、今この瞬間における心の満足度は高かった。

 彼の隣にいたら、こんな時間がまた過ごせるのだろうか。こんな時間がこれからも続いていくのだろうか。

 そこまで考えて、でもやめた。

 彼が優しくても、私の記憶は優しくないから。

 得た幸福を、いつか手放してしまうかもしれない、そんな恐怖心を手放せないくらいには、私は他人に期待できない。

 最初からひとりでいれば、ひとりになってしまう怖さも悲しみも感じなくて済むのだから。
 
 だから、今の時間だけは夢だと思って、良い記憶として心に留めておこう。

 隣で優しく微笑みかけてくれる奏多を横目に、私はひっそりとそう自身の諦念を受け入れていた。