君が忘れた物語

  勢いに押された形で俺は咄嗟(とっさ)に後ろを向いた。出ていけと言わないだけマシでしょ、なんて言葉が続きそうな気がして。

 そうして場が整うと、背後のふたりからはあらためて集中しているような空気感が伝わってくる。

 「最初は下地からね」

 それが始まりの合図になった。

 春木さんの感心する声音から、夏目さんは手慣れた様子で春木さんの顔にメイクを施していることがわかる。「春木さん、肌白いしすっごく綺麗だから、下手にベタベタ塗らない方が綺麗に仕上がると思う」なんて、軽い解説付きだ。

 俺は後ろから度々質問をした。集中を阻害しない程度かつ、気まずい沈黙にならないように。

 「夏目さんが美術部って、ちょっと意外」

 「そうかな?」

 「なんとなくだけど、テニス部とかで部長やってそう」

 「ふふふ、それ言われたことあるけど嫌だよ。だってテニス部って夏にすごく日焼けするもの」

 それに、と続けた。

 「私は幼い頃から絵を描くのが好きだったから」

 「そっか。絵を描く技術とか、手先の器用さとも、こうしてメイクに活かされてるのかもね」

 「そうだといいな」

 ニコッと効果音がなったみたいに、夏目さんが口角を上げたのがなんとなくわかった。

 そんな夏目さんとは裏腹に、終始されるがままの春木さんは、形になった言葉を一度も発することなくずっと緊張し切りだった。その様子がおかしくなって、少し笑ってしまう。

 恨めしそうな視線を背中に感じつつも、夏目さんの邪魔にならないようにと、ほとんど身動きを取らずにいるみたいだった。

 そうして三十分もした頃にはヘアセットも終えて「これで……完成っ」という声が聞こえた。

 「秋岡くん、もういいよ」

 その言葉を心待ちにしていたと言わんばかりに勢いよく振り返ると、目に飛び込んできた春木さんの姿に、思わず息を()んだ。


 メイクした春木さんは、もうとんでもなく可愛かった。見違えた、というふうではなくて、素材を最大限に活かして、春木さんの造形の良さをこれでもかと感じられるような仕上がりだった。

 白い肌に映える発色の良いリップがあるだけで印象が大きく違って大人っぽい。その上、ビューラーで上げられた長いまつ毛はそれだけで数段明るい印象を見た人に抱かせた。顔の凹凸をはっきりさせるためのハイライトや、アイメイクで目元のメリハリをつけると、それはもう教室の隅でひとり寂しそうにしているクラスメイトになんて見えなかった。

 自身の変化をしっかりと確認するために、大きめな鏡のあるお手洗いに向かっていた春木さんは、確認し終えて戻ってくると、素直な感嘆の声をあげた。

 「え、え、えっ。すごい……自分が自分じゃないみたい」

 「やっぱり、思った通り春木さん可愛い。メイクしないのもったいないくらい」

 夏目さんもそう満足気だった。

 こうしていると、人気な可愛い女子ふたり組にしか見えなかった。

 「それで、秋岡くんの感想は?」

 夏目さんがニヤリと悪い笑みを浮かべてそんなことを言った。きっと俺が恥じらいのあまり躊躇うことを見越してそう言ってきているんだろう。

 ……俺から誘ったことだし、ここは素直になるべきところだろう。思ったことを素直に伝える。

 「うん、めちゃくちゃ可愛い。いつも素敵だと思ってたけど、メイクしてみると良さがさらに際立つ感じがしてすごく似合ってる」

 そう、言葉も視線も真っ直ぐ春木さんに向けた。本人もきっとこの自分の変化を楽しんでいると思ったし、そんな感覚が春木さんの自信に(つな)がればいいなとも思う。

 「……褒めすぎ」

 照れ隠しか、あまり目を合わせてくれない春木さんだった。

 「さすが、恋人だと違うなぁ」

 「え、恋人?」

 夏目さんは、なにやら勘違いをしているらしい。

 「あれ、春木さんと秋岡くん、付き合ってるんじゃないの?」