一人になったテーブルで、私は長い間、動くことができなかった。肺から空気が根こそぎ奪われたように、胸の奥が強く締めつけられる。
店内のジャズはいつの間にか、スローテンポに変わっていて、さっきより哀愁を感じる。カウンターの老夫婦も、窓際の女性二人組もいつの間にかいなくなり、店内に私一人が残されていた。
青い照明の下で、私だけが、どこか違う時空に置き去りにされているようだ。
向かいの席に残された、半分減ったクリームソーダを見つめると、ストローが主を失ってプカプカと浮かんできている。指が勝手に伸びて、触れる直前で止まる。
これは……そのままにしておこう。
自分のグラスに目を落とすと、アイスクリームはもう完全に溶けきっている。緑色の液体の中に白が不透明な斑点のようにぼやけて広がり、底のカラフルなゼリーだけが、色を失わずに残っている。
『今度また、リモロ行こうね』
あの夜届いたメッセージが、この青の世界で静かに浮かび、消えていく。
一口だけ飲んでみると、ドロドロとした食感と、少しぬるくなった甘さが舌の奥に残る。炭酸はほとんど抜けていて、爽快感はなく美味しいとはいえない。
会計を頼もうと伝票に手を伸ばした瞬間、店員がすっと近づいてくる。
「 お代は、すでに頂戴しております」
「……え」
言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
「お連れ様から、お二人分の代金をいただきましたので」
店員は軽く頭を下げて、伝票を取り、静かに離れていった。
私はしばらく、テーブルの上の空になった伝票入れを見つめる。
振り返らずに出て行ったのに、私の分まで払ってくれてるなんて。
喉の奥に何かがつかえた。涙ではない。もっと名前のつけにくい何かが、そこに引っかかって流れなくて苦しい。
彼にとって、これはけじめだったのか……いや、優しさだったのかも。あるいは、何も考えていなかっただけかもしれない。分からないまま、時間は過ぎていく。
向かいの彼の残したクリームソーダをもう一度見ると、青い照明の下で、アイスクリームはすっかり溶けてソーダを白く濁らせ、薄緑の液体と変化していた。
自分のグラスも同じ状態だったけど、手に取って、ゆっくりと最後まで飲みほした。
ぬるくて、甘ったるい物が、舌の奥から喉へと落ちていく。ゼリーも一緒にストローに吸い上げられて口の中で潰れる。サファイアの青、ルビーの赤、アメジストの紫が混ざり合い、私の宝石たちが、すべて消えていった。
空っぽになったグラスをテーブルに置き、店の外へ出ると、雨はもう上がっていた。古い街並みを抜けると、濡れたアスファルトに、ネオンの光が静かに揺れている。
明日も休みだ。
パンでも焼こうかな。でも、酵母を仕込んでいなかった。
——そうだ、ソーダブレッドにしよう。
ヨーグルトと小麦粉とベーキングソーダさえあれば、思い立ってすぐ形にできる。酵母がないから諦めかけたけど、この手があった。粉を捏ねて発酵を待つよりも、手軽にできるこれが、今の自分にはちょうどいい。
そういえば、クリームソーダの炭酸も、ベーキングソーダから生まれる。重曹ひとつで、あんなに泡立つ。
◇
翌日の日曜の朝は、快晴だった。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日の「リモロ」の青の世界とは違う、容赦のない白さだ。
スマホのアラームが鳴ったから、タップする。
「あ……忘れてた」
同僚への結婚祝いのことを、今思い出した。昨日ちゃんと選んだのに、まだ注文してなかったのだ。さっさと済ませよう。
画面を数回タップするだけで配送の手配を終える。六月中に届けばいいから、きっと間に合うはずだ。
一仕事終え、清々しい気分でベランダに出て、昨日使った傘をしっかり乾かそうと、ラベンダー色のそれをシュパッと広げる。太陽に透けたその色は、心のモヤモヤを晴らしてくれる気がした。その色の影が室内を染めていく。
目を細めながら台所に立ち、ラベンダー色に包まれたキッチンで、ストレーナーで小麦粉をふるう。忘れずに、重曹をひとつまみ落として。
白い靄がふわりと舞い上がって、朝の光の中に溶けていった。
ふいに、昨夜のグラスの底で弾けていた、あのエメラルド色の泡を思い出す。クリームソーダの炭酸も、この白い粉から生まれる。同じ重曹が、片方は甘い泡になり、片方は私を生かすパンになる。
そういえば、あの人にも一度だけ焼いてあげたことがあったっけ。
「これ、パンっていうよりスコーンみたいだね」
口の中の水分を奪われながら、彼は笑って紅茶をすすっていた。あの時は、ただ平和な時間が流れていたな。
生地をまとめ、ベーキングペーパーに乗せ、まるく成形する。ナイフを手に取り、深く十字の切り込みを入れると、焼き上がりがカンパーニュみたいになる。
昔、彼に得意げに教えた豆知識がある。ソーダブレッドに十字を入れるのは、アイルランドの古い習わしで、中に潜んだ悪魔や妖精を逃がすためだと言われている——出所は怪しいけれど、そういう話がある。
――私のなかに棲みついた、あなたの幽霊を逃がすために。
オーブンの予熱終了のアラームが鳴ったから、迷わず生地を熱の中へ押し込む。
焼き上がりを待つ間、キッチンに香ばしい匂いが満ちてくるのに、喉の奥がまだ微かに甘い気がした。
あの青い照明の下で飲んだ、ぬるくなったクリームソーダの甘さだ。
ついでに、彼の気まずそうな顔も浮かんでくる……もう、その顔は思い出さなくていい。
最後まで飲みきれなかった、クリームソーダみたいな恋だった。
でも、私のは、もう飲み干した。
―Fin.―
店内のジャズはいつの間にか、スローテンポに変わっていて、さっきより哀愁を感じる。カウンターの老夫婦も、窓際の女性二人組もいつの間にかいなくなり、店内に私一人が残されていた。
青い照明の下で、私だけが、どこか違う時空に置き去りにされているようだ。
向かいの席に残された、半分減ったクリームソーダを見つめると、ストローが主を失ってプカプカと浮かんできている。指が勝手に伸びて、触れる直前で止まる。
これは……そのままにしておこう。
自分のグラスに目を落とすと、アイスクリームはもう完全に溶けきっている。緑色の液体の中に白が不透明な斑点のようにぼやけて広がり、底のカラフルなゼリーだけが、色を失わずに残っている。
『今度また、リモロ行こうね』
あの夜届いたメッセージが、この青の世界で静かに浮かび、消えていく。
一口だけ飲んでみると、ドロドロとした食感と、少しぬるくなった甘さが舌の奥に残る。炭酸はほとんど抜けていて、爽快感はなく美味しいとはいえない。
会計を頼もうと伝票に手を伸ばした瞬間、店員がすっと近づいてくる。
「 お代は、すでに頂戴しております」
「……え」
言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
「お連れ様から、お二人分の代金をいただきましたので」
店員は軽く頭を下げて、伝票を取り、静かに離れていった。
私はしばらく、テーブルの上の空になった伝票入れを見つめる。
振り返らずに出て行ったのに、私の分まで払ってくれてるなんて。
喉の奥に何かがつかえた。涙ではない。もっと名前のつけにくい何かが、そこに引っかかって流れなくて苦しい。
彼にとって、これはけじめだったのか……いや、優しさだったのかも。あるいは、何も考えていなかっただけかもしれない。分からないまま、時間は過ぎていく。
向かいの彼の残したクリームソーダをもう一度見ると、青い照明の下で、アイスクリームはすっかり溶けてソーダを白く濁らせ、薄緑の液体と変化していた。
自分のグラスも同じ状態だったけど、手に取って、ゆっくりと最後まで飲みほした。
ぬるくて、甘ったるい物が、舌の奥から喉へと落ちていく。ゼリーも一緒にストローに吸い上げられて口の中で潰れる。サファイアの青、ルビーの赤、アメジストの紫が混ざり合い、私の宝石たちが、すべて消えていった。
空っぽになったグラスをテーブルに置き、店の外へ出ると、雨はもう上がっていた。古い街並みを抜けると、濡れたアスファルトに、ネオンの光が静かに揺れている。
明日も休みだ。
パンでも焼こうかな。でも、酵母を仕込んでいなかった。
——そうだ、ソーダブレッドにしよう。
ヨーグルトと小麦粉とベーキングソーダさえあれば、思い立ってすぐ形にできる。酵母がないから諦めかけたけど、この手があった。粉を捏ねて発酵を待つよりも、手軽にできるこれが、今の自分にはちょうどいい。
そういえば、クリームソーダの炭酸も、ベーキングソーダから生まれる。重曹ひとつで、あんなに泡立つ。
◇
翌日の日曜の朝は、快晴だった。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日の「リモロ」の青の世界とは違う、容赦のない白さだ。
スマホのアラームが鳴ったから、タップする。
「あ……忘れてた」
同僚への結婚祝いのことを、今思い出した。昨日ちゃんと選んだのに、まだ注文してなかったのだ。さっさと済ませよう。
画面を数回タップするだけで配送の手配を終える。六月中に届けばいいから、きっと間に合うはずだ。
一仕事終え、清々しい気分でベランダに出て、昨日使った傘をしっかり乾かそうと、ラベンダー色のそれをシュパッと広げる。太陽に透けたその色は、心のモヤモヤを晴らしてくれる気がした。その色の影が室内を染めていく。
目を細めながら台所に立ち、ラベンダー色に包まれたキッチンで、ストレーナーで小麦粉をふるう。忘れずに、重曹をひとつまみ落として。
白い靄がふわりと舞い上がって、朝の光の中に溶けていった。
ふいに、昨夜のグラスの底で弾けていた、あのエメラルド色の泡を思い出す。クリームソーダの炭酸も、この白い粉から生まれる。同じ重曹が、片方は甘い泡になり、片方は私を生かすパンになる。
そういえば、あの人にも一度だけ焼いてあげたことがあったっけ。
「これ、パンっていうよりスコーンみたいだね」
口の中の水分を奪われながら、彼は笑って紅茶をすすっていた。あの時は、ただ平和な時間が流れていたな。
生地をまとめ、ベーキングペーパーに乗せ、まるく成形する。ナイフを手に取り、深く十字の切り込みを入れると、焼き上がりがカンパーニュみたいになる。
昔、彼に得意げに教えた豆知識がある。ソーダブレッドに十字を入れるのは、アイルランドの古い習わしで、中に潜んだ悪魔や妖精を逃がすためだと言われている——出所は怪しいけれど、そういう話がある。
――私のなかに棲みついた、あなたの幽霊を逃がすために。
オーブンの予熱終了のアラームが鳴ったから、迷わず生地を熱の中へ押し込む。
焼き上がりを待つ間、キッチンに香ばしい匂いが満ちてくるのに、喉の奥がまだ微かに甘い気がした。
あの青い照明の下で飲んだ、ぬるくなったクリームソーダの甘さだ。
ついでに、彼の気まずそうな顔も浮かんでくる……もう、その顔は思い出さなくていい。
最後まで飲みきれなかった、クリームソーダみたいな恋だった。
でも、私のは、もう飲み干した。
―Fin.―



