彼がふと、グラスに手を伸ばした。
今まで右手にしか目がいかなかったけれど、テーブルに出された左手がグラスの縁に触れた、その瞬間――。
――キーン。
グラスに軽く触れただけなのに、管楽器みたいな小さな音が響く。音の正体をさぐろうと、視線が自然に彼の左手の薬指へと落ちた。
そこには――細く控えめな銀色の輪がキラっと輝く。
意味が脳に届くまで、少し時間がかかった。無機質な輝きをただ目で追いながら、息が止まる。数秒フリーズした後、理解が心臓に追いついてくる。
さっきの「まだ、好きなんだよね」が、脳の中で静かに形を変えていく。
最初から、クリームソーダの話だった。ただそれだけの話だったのだ。
そして「ずっと好き」と返した自分の声が、今さらのように耳の奥で蘇る。
喉の奥が急に乾いて、代わりに手が勝手にストローをかき混ぜ始める。まだ固かったアイスクリームが炭酸に削られ、白濁した泡となって緑の中へと溶け出していき、境界線が見る見るうちに曖昧になっていく。
底に沈んだキューブのゼリーだけが、色を失わずにそこにある。サファイア、ルビー、アメジスト。私が勝手に色の名前で呼んでいた宝石たち。
聞きたいことは、山ほどあった。いつから? どんな人?
あの「また来ようね」を送った夜、もう次があるとは思っていなかったとか……。
でも、どれも今さらすぎて、言葉にする意味が見つからなかった。
彼の薬指の輪が、「もう遅いよ」と静かに告げている。
ストローをかき混ぜる手を止め、グラスを両手で包む。このヒンヤリとした感覚が、現実に引き戻してくれる。
……確信にはふれないでおこう。
「……この店、まだあったんだね」
乾いた声が口から零れる。
「うん。たまに……来るよ」
「へぇ、一人で?」
聞くつもりじゃなかったのに……間違えた。口から出てから、やってしまったと後悔する。
「……まあ」
彼はグラスを見つめたまま答えて、私もそれ以上広げないでおく。それ以上聞いてどうする、という話だから。
また、沈黙が戻ってきてしまう。今度の沈黙は、さっきより重い。
「仕事、忙しい?」
「まあ、それなりに」
「そっか」
どうでもいい言葉を積み上げて、時間をやり過ごす。それしかできなかった。テーブルの上で、二つのグラスが深海に浮かんでいるように思える。私のはだいぶ減って、彼のはまだ半分以上残ったままだ。それが何かの比喩みたいに見えて、視線をテーブルに落とした。
彼のクリームソーダを黙々と飲む音だけが聞こえる。彼も気まずさを誤魔化す話題を探しているのかもしれない。
「……雨、やんできたな」
ふいに彼がぽつりと呟く。窓の外を見ると、確かに雨は弱まっていて、もうじき止みそうだ。
「そうだね……」
彼が、ちらりと腕時計に目を落とした。
「……そろそろ行く」
「うん」
伝票を手に取り、言い淀みながら静かに口を開いた。
「……あの時、ちゃんと言えなくて、ごめん」
低い声で、グラスを見たまま言った。何も言わずに帰ると思ってたからちょっと驚く。彼も大人になったのだ。少しだけ間を置いてから、私は答えた。
「知ってるよ」
「え……?」
彼が、こちらに顔を向ける。やっぱり私が知っているとは思っていなかったようだ。
「……香港勤務だったんだよね?」
沈黙が落ちた。
「……田中?」
「そう」
それ以上の会話は続かなくて、彼はそのタイミングで立ち上がり、上着を羽織る。
「じゃあ」
「うん」
彼の表情は少し安堵しているように見えた。レジに向かい会計を済ませると、一度も振り返ることなく店を出ていく。
瞼をぎゅっと瞑ると、カランコロンとドアのベルだけが鳴った。
今まで右手にしか目がいかなかったけれど、テーブルに出された左手がグラスの縁に触れた、その瞬間――。
――キーン。
グラスに軽く触れただけなのに、管楽器みたいな小さな音が響く。音の正体をさぐろうと、視線が自然に彼の左手の薬指へと落ちた。
そこには――細く控えめな銀色の輪がキラっと輝く。
意味が脳に届くまで、少し時間がかかった。無機質な輝きをただ目で追いながら、息が止まる。数秒フリーズした後、理解が心臓に追いついてくる。
さっきの「まだ、好きなんだよね」が、脳の中で静かに形を変えていく。
最初から、クリームソーダの話だった。ただそれだけの話だったのだ。
そして「ずっと好き」と返した自分の声が、今さらのように耳の奥で蘇る。
喉の奥が急に乾いて、代わりに手が勝手にストローをかき混ぜ始める。まだ固かったアイスクリームが炭酸に削られ、白濁した泡となって緑の中へと溶け出していき、境界線が見る見るうちに曖昧になっていく。
底に沈んだキューブのゼリーだけが、色を失わずにそこにある。サファイア、ルビー、アメジスト。私が勝手に色の名前で呼んでいた宝石たち。
聞きたいことは、山ほどあった。いつから? どんな人?
あの「また来ようね」を送った夜、もう次があるとは思っていなかったとか……。
でも、どれも今さらすぎて、言葉にする意味が見つからなかった。
彼の薬指の輪が、「もう遅いよ」と静かに告げている。
ストローをかき混ぜる手を止め、グラスを両手で包む。このヒンヤリとした感覚が、現実に引き戻してくれる。
……確信にはふれないでおこう。
「……この店、まだあったんだね」
乾いた声が口から零れる。
「うん。たまに……来るよ」
「へぇ、一人で?」
聞くつもりじゃなかったのに……間違えた。口から出てから、やってしまったと後悔する。
「……まあ」
彼はグラスを見つめたまま答えて、私もそれ以上広げないでおく。それ以上聞いてどうする、という話だから。
また、沈黙が戻ってきてしまう。今度の沈黙は、さっきより重い。
「仕事、忙しい?」
「まあ、それなりに」
「そっか」
どうでもいい言葉を積み上げて、時間をやり過ごす。それしかできなかった。テーブルの上で、二つのグラスが深海に浮かんでいるように思える。私のはだいぶ減って、彼のはまだ半分以上残ったままだ。それが何かの比喩みたいに見えて、視線をテーブルに落とした。
彼のクリームソーダを黙々と飲む音だけが聞こえる。彼も気まずさを誤魔化す話題を探しているのかもしれない。
「……雨、やんできたな」
ふいに彼がぽつりと呟く。窓の外を見ると、確かに雨は弱まっていて、もうじき止みそうだ。
「そうだね……」
彼が、ちらりと腕時計に目を落とした。
「……そろそろ行く」
「うん」
伝票を手に取り、言い淀みながら静かに口を開いた。
「……あの時、ちゃんと言えなくて、ごめん」
低い声で、グラスを見たまま言った。何も言わずに帰ると思ってたからちょっと驚く。彼も大人になったのだ。少しだけ間を置いてから、私は答えた。
「知ってるよ」
「え……?」
彼が、こちらに顔を向ける。やっぱり私が知っているとは思っていなかったようだ。
「……香港勤務だったんだよね?」
沈黙が落ちた。
「……田中?」
「そう」
それ以上の会話は続かなくて、彼はそのタイミングで立ち上がり、上着を羽織る。
「じゃあ」
「うん」
彼の表情は少し安堵しているように見えた。レジに向かい会計を済ませると、一度も振り返ることなく店を出ていく。
瞼をぎゅっと瞑ると、カランコロンとドアのベルだけが鳴った。



