店員が静かに歩み寄り、私の前に水とおしぼりを置く。
「ご注文はお決まりですか」
メニューを開く必要もなかった。「リモロ」に来たら、絶対頼まなきゃいけないものがあるから。
「……ゼリー入りの、クリームソーダをひとつ」
彼の口元が、わずかに緩んだ気がした。
「えっ」
「いや。なんでもない」
彼はすぐに視線を逸らし、その間に店員が去っていく。
数秒間の沈黙が流れる。外の雨音が、さっきよりクリアに聞こえるくらいに。青い照明の下で見る彼の横顔は、三年経ってもあまり変わらないけど、相変わらず表情から感情が読めない。何を考えているんだろう……私と同じで気まずいのだろうか。
「……変わってないね、この店」
先に口を開いたのは彼だった。
「うん。なんか、ほっとするよね」
「わかる」
この「わかる」は、この店の話だけじゃない気がした。そう思いたかっただけかもしれない。トロンボーンみたいな声のトーンと、このゆっくりしたテンポで語らうのが懐かしくて、あの当時は心地よかったことを思い出す。
この、水滴のついたグラスを指先でなぞる仕草も、昔からの癖だ。考え事をしている時とかによく見た気がする。
「仕事って、まだ京都?」
「うん、変わってないよ。……あなたは」
「去年戻ってきたんだ…」
「そっか」
戻ってきたという言葉が、喉の奥に引っかかる。いつ戻ってきたのか。なぜ戻ってきたのか。聞きたいことは他にあるのに、言葉は全部、表面だけを滑っていく。
「仕事の都合?」
「まあ、そんなとこ」
曖昧な答えだった。昔から核心に触れると、こういう言い方をする人だったから、まあ、想定内だ。言いたくないなら、こっちも聞く気はないし……というより、聞いてどうするんだ、と言う感じ。
彼はきっと、自分の勤務地を私が知っていたとは思ってなさそうだ。面倒くさいし黙っておこう。ここで、問い詰める気にもなれないし、だって、もう三年も前の話だから。
会話が途切れると、嘘みたいに雨音が大きくなっていく。
「……田中、覚えてる?」
彼がまた口を開いた。共通の友人の話で間を繋ごうとしている。
「覚えてる。元気?」
「結婚したよ。去年」
「え、そうなんだ」
「子供も生まれて。男の子」
「へえ」
どうでもいい話が続いていく。でも、どうでもいい話ができることが、今の私たちにはちょうどよい。自分たちの近況を話すよりハードルが低いから。田中の近況を聞きながら、私はただ彼の声を聞いていた。
内容ではなくトロンボーンの響きを。音階はちょっと低くなったかもしれない。いや、変わっていないのかも……もう判断できないくらい、時間が経っている。
「あの、仲良かった……確か、美雨だっけ? あの子って確か院に行くって言ってたよね?」
「あー就職したんだよ。普通に」
「そっか」
「みんな、ちゃんとしてるよね」
ちゃんとしてる。その言葉が妙に耳に残る。
私たちは、ちゃんとしていなかったから、別れることも出来なかったのだろうか。
それとも、ちゃんとしすぎていたからダメだったのか。どちらでもないような気もする。ただ、全てが嚙み合わなくて、うまくいかなかっただけで。
彼がクリームソーダを飲んでいる姿を見ていたら、ふと、初めてここに来た日のことを思い出した。
大学二年の秋、彼に「行きたい店がある」と言われて「リモロ」に連れて来られた。「きっと君も気に入ると思うよ」とも。彼もレトロな準喫茶とか、ノスタルジックなものが好きで、私たちの共通の趣味だった。
青い照明に面食らって、思わず「なにここ、水族館みたい」と言ったら、彼が珍しく大声で笑う。メニューを開いて、二人して同じページで同じものを指さした。ゼリー入りのクリームソーダ。それが可笑しくて、また大爆笑だった。何がそんなに可笑しかったのか、もう覚えていない。でも笑い続けていたことだけは、鮮明に記憶の中心に残っている。
あの頃は、それが永遠に続くものだと思っていたんだよな……。綺麗な思い出ばかりが甦ってしまい、ちょっと切なくなる。
「……なんか、変わってないな」
ふと、彼が言った。
「この店が?」
「君が」
一瞬、心臓が跳ねた。でも彼はすぐに視線をグラスへ落として、それ以上何も言わない。この人どういうつもりなんだろう。相変わらず何考えてるか分かんない人だ。三年も経ったから、髪型もメイクも昔とはかなり違うはずなのに。
「……そう?」
「うん」
へぇー……。これはお世辞なのかな。三年でそんなことも言えるようになったのが意外だ。彼は女性を褒めておだてるタイプではなかったはず。変わってないと言われることが、褒め言葉なのか、二十五歳の私の評価なのか。
窓の外の雨音が少し小さくなって来ているようだ。もうすぐ止むのかも。
三年前も、こんな雨の日だった。
同じ青い光の下で、この席に座り、彼は同じようにグラスの水滴をなぞっていて、私はその様子を観察する。沈黙が怖くないのは、それでも一緒にいられたから。言葉がなくても、ただ前に座っているだけの特別な時間。
あの頃は、それが当たり前に思えていたし、疑念も抱かなかった。
メニュースタンドには日替わりのケーキの札が掲げられていて、今日はポピーシードのチーズケーキらしい。三年前は確かメレンゲが乗ったレモンタルトだったはず。あれも、美味しかったなと感傷に浸る。変わっていないようで、ちゃんと変わっている。この店も、私たちも……。
店員が、トレーを手に近づいてくる。グラスが二つ並び、どちらも、透明な緑のクリームソーダ。
一つは私のかな? とワクワクしてたら、私のテーブルに、二つとも置かれた。
「うわ、同じじゃん」
思わず声が出た。
「うん」
彼は少しだけ間を置いて、言った。
「まだ、好きなんだよね」
私はグラスから目を離せなかった。
その言葉が、クリームソーダの話なのか、それとも——考えかけて、やめた。
たぶん、彼はクリームソーダのことを言っているのだろう。
それでいい。そういうことにしておいた方が、今夜をやり過ごせるはずだ。
「そうだね」と言った後に、すこしだけ意地悪な気持ちが込み上げてきてしまう。こんなに揺さぶられてばかりで悔しいから、ちょっとやり返してみることにした。
「ずっと好き」
彼が、一瞬だけ動きを止めた。
私はストローに口をつけて、クリームソーダを堪能し始める。彼の反応は極力見ないようにして。
透明なガラスの中で、人工的なほど鮮やかな緑色のソーダが青い照明を湛えて輝いている。底には赤、青、黄色、紫——角切りのゼリーが重力に従って静かに沈んでいて、その上には、完璧な球体を描いた白いアイスクリームがひとつ乗っている。



