雨の土曜日に、寿退社する同僚のプレゼントを探し歩いて一日が終わった。
そう、毎年、六月はこういう休日が多い。ジューンブライドは女の子の憧れだから仕方がないか。私とは無縁の世界だけど。
お気に入りのラベンダー色の傘をシュパッと開く。憂鬱な雨が楽しくなってしまう傘。雨音を聞いても気分が沈まないくらいに。昔見た映画みたいに踊りたくなる。
でも踊らずに、休憩場所を探そう。
アスファルトを叩く水の粒が、激しい飛沫となるが、レインブーツを履いてきたから、気にならない。傘とお揃いで奮発した。ささやかな贅沢、それが私の幸せ。
信号待ちのわずかな時間で、スマホでこの付近のカフェをリサーチする。そう言えば、このエリアは、大学時代によくブラブラしていた町家がある通り。古い街並みが少しタイムスリップしたみたいな気分にしてくれる。
視界の左側は、街のネオンが雨に滲んでいて、赤や青や白の光がアスファルトの鏡面に落ちて揺れるが、右側は別世界で古い街並みが広がっている。
いつもなら駅前の左側を選ぶけど、今日は右側へ足に勝手に連れて行かれる。どうしたんだろ。学生の時の楽しい時間を思い出したのか。疲れているから判断は出来なくて、そのまま進んでいく。
街並みが懐かしくて、やっぱりいいな、なんて感傷に浸っていたら、古びた街灯から注がれた歪んだ光の渦の中に、見覚えのある看板を見つけた。
『純喫茶 リモロ』
アンティークな真鍮のプレートに刻まれた名前。うわぁ、まだあったんだ。ほとんど反射のように、足がそちらへと向かった。
傘を閉じて傘袋にしまい、重厚な木製のドアを押し開けると、カランコロンと控えめなベルが鳴る。はぁ、懐かしい音色だ。最近はドアベルなんて電子音でしか聞かないから。
一歩踏み入れた瞬間、網膜を支配するのは濃厚な深海のような青い光だった。創業当時から変わらないらしい、青の照明は、室内のすべての輪郭を曖昧にし、時間を物理的に止めているような錯覚を抱かせる。
雨に少しだけ濡れた服の不快な湿気が一瞬で剥ぎ取られ、急速に冷やされていく。香しい珈琲豆の香りが漂い、気分も落ち着いていく。
天井からは、色を失いながらも形だけを完璧に留めた薄緑色のミラベルや、黄色のミモザのドライフラワーの束が、いくつも吊り下げられている。
珈琲の香りと、乾燥した花々の微かな粉っぽさが合わさっていく。ノスタルジックなスウィング・ジャズが、真空管アンプ特有の籠もった温度で流れている。
カウンター席には常連らしき老夫婦が並んで座り、窓際のテーブルでは学生っぽい女性二人組が身を寄せ合うようにして笑っている。それぞれがこの時間が遡ったみたいな場所、この青の世界に静かに溶け込んでいた。
奥の席へ進みかけて、ふと、吸い寄せられるように視線を止めた。
ただの癖だった。三年前、この店で待ち合わせるたびに繰り返した、無意識の儀式だ。いつも、この席に私は座っていたから。
しかし――。
見覚えのある横顔が、そこにあった。
現実がバリアされたみたいに一段遠ざかる。外を叩く雨音も、店内のジャズも、すべてが薄い膜の向こう側へと追いやられる。
青い光の中に晒された彼の横顔は、この店に飾られたドライフラワーと同じように、この膜の外側に取り残されているように見えた。
彼が顔を上げたから、目が合ってしまう。
うわっ気まずい。
先に視線を逸らしたのは、どちらだっただろう――それは私だ。
そう、彼はこの席にいつも私と一緒に座っていた人だ。
「……久しぶり」
彼の声は、記憶の中にあるものと変わっていない。拍子抜けするほど普通に、その言葉は鼓膜に届いた。
「……うん、久しぶり」
自分の声も同じだ。平坦で熱のない響き。顔見知りレベルより、テンション低めかもしれない。
店内は混み合っていて、空いている席はほとんど見当たらない。彼は飄々と言った。
「ここ座れば? 他に空いてないし」
「あっ……うん……お邪魔します」
彼の向かいの椅子を引いた。
マジで気まずい……。
三年前、いつも使っていたのと同じテーブルだ。窓際から二番目、青い光が一番濃く落ちる席で、ドリンクもスウィーツも映える。
「この席いつも座ったよね」と言おうとして止めた。気づいていると知られたら、何か未練がましい女みたいに思われても嫌だったから、気づかないふりをした。
逃げ場はどこにもないから、適当にやり過ごそう。
テーブルの天板はブルーグレーの大理石で出来ていて、ヒンヤリと冷たい素材だ。指先を置くと体温をゆっくりと吸い取られていく。
向かいに座った彼は、メニューを閉じたまま窓の外を見つめている。雨粒がガラスを伝い、街灯の光を拾いながら落ちていく。
三年分の時間が、彼の横顔に静かに積もっている。私はそれを、ただ眺めていた。



