今だけ、ちょっとムリをする。

 速いテンポで聞こえてきた足音は近付くに従い遅くなり、最終的には停止した。代わりに声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
 それは若い女性のものだった。
 声がした方向に視線を向けると、2、3歩離れた位置から覗き込む若い女性の姿が見えた。中学生には見えないが、大学生といった雰囲気でもない。おそらく、休校になった高校生といったところだろう。

 相手が女子高生だと分かると、途端に道路ですっ転んで大の字になっている自分が恥ずかしくなる。二度と会うことがないと分かっていても、男の子はかっこ悪いところを見せたくないものだ。
 サマになっていないことは承知の上で、ニコリと笑顔を作って即答する。
「大丈夫、大丈夫」
 上体を起こして身体の具合を確認する。上下揃いのバイク用の雨合羽は右半分が破れているものの、身体に異常は見当たらない。丈夫な合羽で良かったと思いながら、ゆっくりと立ち上がる。そして、2メートルほど先で右側を下にして転がってるバイクに歩み寄った。

 ―――――あーあ、キズがいったなあ。
 と、内心でボヤきながらバイクを起こし、右側面を確認しながら項垂れる。派手な装飾があるモデルではないが、やはりタンクやマフラーのキズを放置しておく訳にもいかない。修理代を考えると頭が痛い。
 バイクを路肩に移動し、ヘルメットを脱ぐ。案の定、お気に入りのヘルメットは、後頭部が大きく削れていた。ヘルメットも安いものではないが、これが無ければ脳みそが飛び出していただろう。そう考えると、割り切るしかない。

 玄関先で空模様を確認していると、目の前でバイクがバランスを崩して転んだ。と、彼女は言った。あまりにも豪快に転び、そのまま道路で大の字になって動かなかったため、心配になって様子を見に来たとのことだった。もし声を掛けて反応がなければ、救急車を呼ぶつもりだったようだ。

「あの、本当に大丈夫ですか?」
 彼女は合羽がボロボロになった状態を目にし、再度確認をしてくる。気持ちは分かる。見事に破れているため、大怪我をしているように見える。だが、実際には中に着ている服さえ破れていないのだ。大丈夫に決っている。
「本当に大丈夫だよ。合羽がダメになっただけで、どこも怪我なんてしていないから」
「あ、ちょっと待って下さい」
 何かに気付いたのか、彼女はそう言い残すと慌てて目の前に見える自宅に駆け込んだ。

 その後姿を見送りながら、へこんだタンクからキズがいったマフラーを見る。バイクで転ぶとか、乗り始めてすぐの頃に飛び出してきたネコを避けたとき依頼だ。緩いカーブで、外側に砂が溜まっている所だった。運悪く、急ブレーキをかけた位置が砂溜まりで、そのまま路肩に突っ込んだ。どうしても二輪に事故はつきものではあるが、急ブレーキ、急ハンドルは自動車以上に危険だ。
 そんなことを考えていると、玄関が開いて彼女が姿を現した。

「これで、顔や手を拭いて下さい」
 彼女は手にしてきた濡れたタオルを差し出し、それで汚れた部分を拭くように促してきた。濡れた路面に転がったため、顔や手が泥まみれだった。その申し出はとても有り難いものだった。
「いや、でも、せっかくのキレイなタオルが汚れてしまうし」
 そうだ。泥や土の汚れは一度付着してしまうと洗ってもなかなか落ちない。見ず知らずの人間のために、せっかくのタオルを台無しにしてしまうことに罪悪感を覚えた。汚れたままであっても、そのうち乾いてしまうし、特に困ることはないのだ。

「いいんです。タオルなんて、汚れるためにあるようなものなんですから」
 まるで人生経験豊富な肝っ玉母さんのような言葉を口にし、彼女は笑顔でタオルを差し出す。そこまで言われてしまうと、断る訳ににもいかない。
「ありがとう」
 そう言って、軽く頭を下げてタオルを受け取った。
 汗もかいていたし、タオルで顔を拭くとスッキリして気持ち良い。しかし当然のようにタオルは土色に染まってしまう、申し訳なく思っていると、彼女はさらに玄関から大きめのビニール袋を持ってくる。
「これも使って下さい」
 差し出されたビニール袋を覗き込むと、中には思わぬ物が入っていた。

「これは・・・」
 誰かの使い古しだと思われるそれは、男性用の合羽だった。しかも、バイク用の少し厚手のものだった。
「もう使う人がいないので、誰かの役に立った方が良いかと思って」
 その言葉にグッと胸が締め付けられる。
 しかし、彼女は顔を上げ、慌てて両手を左右に振った。
「あ、生きてますよ!!何年か前まで父がバイクに乗っていたんですけど、もう年齢を考えて乗るのをやめて処分したんです。それで、その頃に使っていた物が残っていただけで。父のお古で申し訳ないんですけど」

 自分の勘違いに気付いた彼女の説明を聞き、ホッと胸を撫で下ろす。さすがに、思い出の品とかだと受け取る訳にはいかない。
 それにしても―――――

「どうして、初対面の、たまたま目の前で転んだだけの人に、そこまで親切にするの?見て見ぬふりをしても、本人は自己責任だと思うだけだし、誰も責める人なんていないと思う。それに、何か自分に良いことがある訳でもないよね。親切にしてもらっておいてあれだけど、不思議で・・・」

 そう言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。

「困っている人がいたら、できる限りのことをしなさい。幼い頃から、ずっと、母に言われてきたので。自分の中では当たり前のことなんです」