波にはじまり、波におわる。

 探し始めて30分。
 台風の目の境界線が徐々に近付いてきている。まだ猶予はあるが、持ち時間は現在この瞬間も少しずつ削られていく。
 そんなことは、言われなくても分かっている。
 それでも、止めることができない。

 いつもは水が流れていない側溝も、今は溢れそうなほどの急流になっている。もし、ここに落ちたのであれば、下流の川まで流れているだろう。道路には雨水に流されてきた枝や風で飛ばされてきたゴミが散乱しているが、肝心の傘は見当たらない。
 どうしても、見付け出すことができない。

 集中力なんてものは、そんなに長くは続かない。
 顔を上げて道路の反対側に視線を向けると、身体ごと草むらを掻き分けて手探し続けていた。その必死さは、遠くから見ても分かった。何が何でも持ち帰るのだという強い意志を感じる。
 その姿に、母の姿を重ねてしまう。

 いつも真正面から向き合ってくれた。
 期待に応えようと必死だった。
 最後には、いつもどうにかしてくれた。
 自分の気持ちを圧し殺してまでも。

 幼稚園のとき、道具袋の柄が気に入らないと、駄々をこねて困らせた。友達の道具袋が新しくなり、市販のキャラクターものになった。自分の使っていたものは、母親の手作りだった。当然、人気のキャラクターなどプリントされていなくて、青い布に恐竜の絵が描いてあるだけのものだった。それでも、最初は格好良いって喜んだ。そんな光景を見て、母親も穏やかな笑みを浮かべていた。
 そこに込められた思いなんて、幼稚園児に分かるはずがない。だから次の日、道具袋が流行のキャラクター物に変わっていて飛び上がって喜んだ。それまで使っていた道具袋は、棚の隅で埃をかぶるようになった。
 あの道具袋は、あの後、どうしただろうか。

 泥はねで汚れた衣服。肩口までずぶ濡れになりながら、今も必死に地べたを這いずり回って痕跡を追い続けている。「諦める」などという発想は頭の隅にも無いだろう。見付かるまで探し続けるに違いない。
 大きく息を吐き出す。
 きっと、青い傘を探してきた母親も、あんな感じだったのだろう。結局、あれからすぐに使わなくなった傘。「壊れた傘とかイヤだ」って、有り得ないセリフとともに投げ捨てた。

 一方的に受け取るだけ。
 その意味も分からないで。
 そこに込められた思いも知らないで。
 与えられることが当然だと思って。
 踏みにじることが権利だと思って。
 理不尽を赦されて。
 でも、きっと、それでも。
 今でも分からないのに。

 無意識に天を仰ぐ。

「―――――あ」
 生い茂った街路樹。その枝に赤い傘が引っ掛かっていた。明らかに、他所から風で飛ばされてきた様子で、3メートルほどの高さにある枝に持ち手が引っ掛かっている。サイズ的にも女性が説明した傘と同じだ。
「・・・ちょっといいですか!!」
 道路向こうに声を掛ける。女性の顔が上がり、こちらを向いた。その顔には悲壮感が浮かんでいる。
「確認してもらってもいいですか?」
 その声を聞いた瞬間、女性は急いで道路を横断してきた。

 転びそうになりながら移動してきた女性は、指し示した方向に顔を向けると笑みを浮かべた。
「アレです。間違いありません。本当に、ありがとうございます!!」
 女性が何度も頭を下げる。
 その様子を見て安堵したが、同時に、それで終わりではないことを理解した。女性が木に登ろうと、一番低い枝に手を伸ばしたのだ。それはそうだ。見付けただけでは何の解決にもならない。ただ、どう見ても、女性には登れるとは思えなかった。

 基本的に、腹黒い人間だという自覚はある。
 自分勝手で我がままで、自分さえ良ければそれで満足。
 だから、善意ではない。
 悪人ぶっている訳ではない。
 ただ、あの時の罪滅ぼしになればと。
 これを見ている神様が赦してくれないかと。
 神様は寛大だから、これであの時の理不尽と相殺してくるのではないかと期待して。自分のために手を伸ばす。

「ちょっと、待っててください」
 何度も登ろうとしては1メートルの高さから滑り落ちる女性に声を掛け、代わりに木の側に立った。
 木の表面は濡れていて滑りやすく、木を抱きかかえるようにして登ることは不可能だろう。視線を上に向け、頭上にある太い枝を見据える。あの枝にジャンプして掴めば、そこに上がることはできそうだ。いや、現実的にそのルートしかない。

 少し離れた場所から助走をつけてジャンプする。考えていた通り、一番したの太い枝に手が届いた。蹴上がりの要領で枝に身体を乗せ、どうにか腕の力だけでよじ登った。
 そこからは簡単だった。頑丈そうな枝を選んで掴み、最終的に目当ての傘を回収することに成功した。足を滑らせて落ちないように気を付けて下り、最後は先に傘を手渡して飛び降りた。

 着地して女性の方を見ると、傘を開いて状態を確認していた。ボタン1つで軽やかに開き、破損した様子はどこにも見当たらない。女性は満面の笑みを浮かべて傘を抱き締めると、振り返って深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!! ありがとうございます!!」
「いえ、気にしないでください。見付かって良かったですね」
 そう応えているとき、女性の背後の空が暗くなっていることに気付いた。もう、ここで途中下車して1時間近くが経とうとしている。タイムリミットが近付いてきているのだ。

「もう行かないといけないので、ここで失礼します。それと、早く帰宅した方が良いと思いますよ。そろそろ台風の目を抜けますから」

 そう言い残し、軽く頭を下げるとバイクが停めてある場所に走って向かった。