今だけ、ちょっとムリをする。

 強引に体重を掛けて窓ガラスを押し込む。ギシギシと音がした後、ガクンと一気にドアの内側に滑り込んだ。
「ママ―――!!」
 背後で子どもの声が響く。その声を声援に変え、背中から脇から手を回し、反動をつけて母親の身体を窓から引っ張り出した。盛大に水飛沫が上がり、母親の身体が水溜りに落ちる。様子を確認しようと振り向くと、母親は水溜りの中で素早く立ち上がり子どもの下へと水を掻き分けていた。

 言葉にならない声を出しながら抱き合う母子。その姿を目にして過ぎた日を思い出す。小学生の頃、近くの溜め池でザリガニを捕っていて足を滑らせた。昔と違い、池はコンクリートで固められていて、身長が低い子どもが落ちると簡単には上がれない。しかも、10センチ先はもう足が届かない。
 小学3年生の夏だった。7月の終わり頃、夏休みに入った直後で、梅雨末期の豪雨で池が溢れそうになっていたときだった。
 なぜ忘れていたのだろうか?
 5分遅れていれば、おそらく間に合わなかった。
 飛び込んできたのは母だった。
 自分も水を飲みながらも、必死に抱きかかえて岸に押し上げてくれた。全身ズブ濡れになりながら、どうにか岸に上がった母は泣きながら笑っていた。
 目の前の母親も、子どもを抱き締めて涙を溢しながら笑っている。


 どこに連絡すれば良いのか分からなかったものの、濡れたスマートフォンを内ポケットから取り出して110番に電話する。注意喚起や通行止めの表示は警察の仕事ではないかと思ったからだ。
 強風によって雨が吹き込む高架下で数分待っていると、強風に紛れてパtpカーのサイレンが聞こえてきた。ようやく落ち着きを取り戻した母子から少し離れた場所に立っていたが、回転する赤色灯が見えたところでその場を離れることにした。水没したままの高架下を通り抜けようとすれば、間違いなく止められるだろう。その前に通過してしまわないといけない。

 黙って離れようとしていると、子どもが気が付いた。
「お兄ちゃん、どこに行くの?」
 無垢な瞳で見詰められて言葉に詰まる。
「あーお兄ちゃんは、向こう側に用事があるんだ。だから、ここでお別れだ。しっかり、お母さんにくっついておくんだよ」
 そう返事をしながら、今さらではあるが合羽のズボンを拾って再び水の中に入る。先ほどは気にならなかったものの、かなり水温が低い。
「あ、あの、連絡先を。後でお礼を!!」
 母親の言葉に首を横に振る。
 勝手にやったことだ。正義のヒーローになろうとした訳ではない。偶然通り道で水没していただけ。そもそも、あの現場を目の当たりにして、見捨てる人などいるはずがないのだ。

 現場が視界に入ったのか、パトカーが確実に近付いている。先を急がなければならない。先ほどよりも少し深くなった高架下を、半分泳ぐようにして通り抜ける。
 反対側に到着して間もなく、背後で男性の声が聞こえた。その直後、大声で呼び止める声が高架下に響く。警察官の言葉を聞こえないふりをし、豪雨の中を前へと進む。悪いことは何ひとつしていない。止められる理由がない。そんなことよりも、せめて姉よりも先に到着しなければ強行突破した意味が無くなってしまう。先を急がなければならない。


 真横から吹いていた強風が、いつの間にか背中を押すように変わっている。合羽のフードを吹き上げ、耳元だバタバタと激しい音を立てている。先ほどまでとは違い、空が少しだけ明るくなってきた気がする。余りに歩き難いため、履いているクツを脱いで逆さにすると、ダバダバと水が零れ出る。水の中を歩いた後まのだから、こうなるのは仕方が無い。反対側のクツも脱ぎ、同じように引っ繰り返す。もうズボンも、パンツまでズブ濡れだ。いや、上半身も完全に泥水に浸かってしまった。どこかで服を買わないと、病院に入れてもらえないかも知れない。
 濡れて履き難くなったクツに、無理矢理足を突っ込んで歩き始める。すると、背後から瞬間的に突風が吹き、自然と歩く速度が上がった。

 20分ほど歩いていると、前方に大きな交差点が見えてきた。停電することもなく、赤信号を点灯させている。母が搬送された病院は交差点を越えると、300メートルほど先にある。既に、建物の姿は視界に捉えていた。無意識のうちに歩くスピードが上がる。
 交差点の信号で運悪く足止めされ、横断歩道の端で大きくく見える病院の建物に視線を向ける。その先が意図せず6階であることに気付き、心臓の鼓動が早まった。

 父親が入院した病院もここだ。地方では設備が整った病院は数えるほどしかない。必然的に同じ病院になってしまう。
 入院期間は短かったが、病室は6階の狭い個室だった。
 正直なところ、この病院を訪れたくはなかった。
 7年前の苦い気持ちをリアルに思い出してしまうからだ。
 亡くなった直後も、通夜のときも、葬式のときも、火葬場で待っているときも、納骨するときも、ずっとずっと、思い出さないようにしてきた。仏壇に置かれた遺影と目を合わせることもできない。
 思い出してしまうから。
 あのときの悔しさを、情けなさを。

 思い出してしまうと、たぶん、泣いてしまうから。