波にはじまり、波におわる。


 子どもの頃、天気予報を見詰めながらドキドキしていたことがあった。
 普段は見ることもない、何重ものグルグル巻いた円。
 実際に直撃すると大変にことになる。
 そんなことは分かっている。
 だけど、それでもテレビの画面に釘付けになる。
 扇形の進路予想のエリアに自分が住んでいる地域に重なる。
 少しズレたら、角度が変わったら、3日後の予想円の真ん中。
 超大型。
 935ヘクトパスカル。
 中心付近の最大瞬間風速45メートル。
 北東に時速15キロでゆっくりと移動中。
 台風18号。
 気象衛星ひまわりからの映像には、太平洋を埋める竜巻状の雲。
 中心付近には活発な活動を窺わせる巨大な目。


 20歳になった今でも、台風シーズンになると南の海上に注目してしまう。天気図に熱帯低気圧の文字を見付けると、気分が高揚する。西へと発達しながら移動し、台風になる。進路が気になる。この時期でこの位置だと、沖縄付近を北上し、九州に近付く。もしかすると上陸するかも知れない。明確な予報が発表する前から、自分の居住エリアに接近するかどうかを明示する。
 実際に、近付いて暴風エリアに入ることが確定すると、テレビを見ている訳にもいかず、接近に備えて買出しに向かい準備をしなければならない。あと6時間で直撃するともなれば、必死に来ないことを願う。ベランダの物が飛ばないように、外に停めてあるバイクが転ばないように祈る。

 勝手なものだ。
 勝手なものなんだ。
 一日中監視されて、何かするとイチイチ注意され、自由を奪われ、自主性を否定され、意味も分からず勉強を押し付けられ、毎日、緑色に濁った水槽で息苦しそうにしているメダカと意気投合していた。

 自由になりたい。
 束縛を断ち切って、絡み付く手を振り解いて自分の意志で生きたいと、ずっと思っていた。そして、それが叶って、だから、もう2年近く実家の敷居を跨いだことがない。正月も盆も、1日たりとも帰ってない。

 反抗期という訳ではない。
 自立したんだ。
 先月の10日に誕生日を迎え20歳になった。
 もう十分に大人だし、あと2年もすれば社会人になる。ここよりももっと都会に出て、稼いで、優雅な生活をして、毎日楽しく過ごす予定だ。


 曇天の空から、大粒の雨が斜めに落ちてくる。
 時折、窓の外から何かが転がる音がする。
 台風18号の暴風圏内に入った。
 1年に1度あるかないかの台風直撃。
 すでに、今朝から在来線は全線が止まっている。バスがどうにか走ってはいるものの、「全線の運行停止予告」という文字がテロップで流れる。もうすぐ全ての公共交通機関が停止する。吹き抜ける暴風が、電線を揺らしながらヒューヒューと音を立てている。横殴りの雨が、窓ガラスでバチバチと弾け始めた。
 本格的に近付いてきた。天気図のグルグルが、もう真上に差し掛かる。子どもの頃とは違い、今はもう違う意味でドキドキする。

 ダメだと思いつつも、窓際に近付いて外を眺める。
 アパートの前に立つ巨木も根元から大きく揺れている。交差点の信号機さえも、強風で斜めに傾いて見える。この様子だと、今日の講義はすべて休講だろう。大学の学生ポータルを確認するまでもない。
 窓の下に見える駐輪場には、雨に打たれる自分のバイクがびしょ濡れになっている。しかし、この暴風雨ではシートをかける訳にもいかない。


 激しい雨と強風の音に紛れ、ローテーブルを揺らす音が微かに聞こえる。バイブにしてあるスマートフォンに着信のようだった。
 スマートフォンを手にして画面の表示を確認すると、姉の名前が表示されていた。時に不仲という訳でもないが、いつも連絡を取り合うような関係でもない。何の用事なのか全く思い浮かばないまま、画面をスライドした。

「はい、もしもし?」
 気怠い対応をした悠太(ユウタ)の耳に、姉の声が痛いほど響いた。
「悠太、母さんが救急車で運ばれたの!!たった今、病院から連絡があった。状況はよく分からないけど、家で倒れたみたい。私もどうにかするけど、あんたも今から病院に行ける?」
「は?」
 悠太は姉の言葉を、すぐには理解できなかった。
 母が病院に搬送されたということ。そしてもう1つ、「今から病院に行け」と言われている気がする。
「今からって、この暴風雨の中を? 電車もバスも止まってるけど?」
 当然のように悠太が抱いた疑問に対し、承知の上だと姉が応える。
「そんなことは分かってるわよ。でも、あんたバイクがあるでしょ?」

 悠太が住んでいる場所から実家までは、距離にして約120キロ。そんなに遠くはないが、悠太の125ccのバイクでは3時間はかかる。しかも、この暴風雨の中を二輪車で走行すれば、1度や2度は転倒するに違いない。
 申し訳ないが、身の危険を犯してまで帰郷する理由を見出せない。明日でも十分ではないかと、そもそも、わざわざ地元に帰る必要も無いのではないかと思ってしまう。

「えっと、明日でもいい?」
 自分の返事に対し、姉が苛立ちを込めて大きく息を吐いた。
「あのさあ、時と場合ってのがあるでしょうが。もし危篤状態とかだと、もう二度と会えないかも知れないのよ? 無理しなさいよ。後悔しないように、無理しなさい。怪我をするようなことがあれば、私が治療費は出してあげるから」

 「後悔」という姉の言葉に、思わず口ごもる。
 父が闘病の末に亡くなったとき、自分のくだらないプライドと羞恥心から、最後に意味の無いやりとりを交わしてしまった。
 伸び放題の草を刈って欲しいと母に頼まれ、何の燃料で動くのかを病床の父に訊ねた。反抗期真っ只中の中校生だったということもあり、父親と真剣な話しをする事が恥ずかしかった。だから、必要以上な仏頂面で訊ねた。
「草刈機の燃料って、何?」
「・・・混合」

 必死に搾り出したような掠れた声だった。
 これが最後の会話だった。
 もっと何かあったはずだった。
 体調を気遣う言葉も、もっと大事なこともあったはずだ。
 だから、今でも後悔している。

「分かった。ちょっと、無理してみるわ」
 気が付くと、そう姉に返事をしていた。