通り雨みたいな恋だった

 雨は、帰るころには弱くなっていた。

 止んだわけじゃないけど、さっきよりずっと軽い。

 傘をさしている人もいれば、そのまま歩いている人もいるくらい。

 私は結局、傘をさしたまま自転車を押していた。

 濡れるのは嫌だけど、乗るほどでもない。

 中途半端な雨。

 空も、気持ちも、どっちつかずで。

 校門を出て、少し歩いたところで、自転車にまたがる。

 このまま帰ればいいだけ。

 何も考えずに。

 何も気にせずに。

 そう思って、ペダルに足をかけた、その瞬間だった。

「ちょっと待って」

 後ろから声。

 聞き慣れた声。

 止まるより先に、振り返る。

 そこにいるのは、やっぱりあの人で。

 少しだけ息を切らしていた。

「なに」

 思っていたより、声が冷たく出る。

 距離を取るみたいに。

 これ以上近づかないようにするみたいに。

 でも。

「乗せて」

 あの人は、軽く言った。

 まるで当たり前みたいに。

 意味が分からなかった。

「……は?」

「後ろ。乗せてよ」

「無理なんだけど」

「なんで」

「なんででも」

 昨日も、同じやり取りをした気がする。

 でも今日は、少し違う。

 距離が近い。

 断っても、引かない感じ。

「濡れるし」

「傘あるじゃん」

「一人分」

「じゃあ寄ればいい」

 そういう問題じゃない。

 そう言おうとした瞬間——

 ガタン、と小さな音がした。

 気づいたときには、もう遅かった。

 後ろに、重みが乗る。

「ちょ、ちょっと!」

「ほら、行けるって」

 当たり前みたいな声。

 完全に、乗ってる。

 何の確認もなく。

 何のためらいもなく。

「降りてよ!」

「無理。もう乗ったし」

「意味分かんない!」

「いいから、早く」

 急かされる。

 後ろから。

 近すぎる距離で。

 逃げ場がない。

 降りてもらう方法も分からない。

 周りには、少しだけ人もいる。

 変に騒ぐのも嫌で。

 結局、そのままになった。

 ゆっくり、ペダルを踏む。

 いつもより重い。

 当たり前だけど。

 でも、それ以上に——

 後ろの気配が、近すぎる。

 背中に、何かが触れそうで触れない距離。

 息がかかるほどじゃないのに、確実にいるって分かる距離。

 変に意識してしまう。

「……重い」

「ひどくない?」

「事実」

「じゃあ降りる?」

「降りて」

「やだ」

 即答。

 意味が分からない。

 なのに、少しだけ笑ってしまいそうになる自分がいて。

 それを必死に抑える。

 少しだけスピードを上げる。

 雨はほとんど気にならなくなっていた。

 それよりも。

 後ろに誰かがいることのほうが、ずっと大きい。

 心臓がうるさい。

 たぶん、聞こえてるんじゃないかって思うくらい。

 そんなわけないのに。

「お前さ」

 後ろから声がする。

 いつもより少しだけ近い声。

「なに」

「避けてた?」

 一瞬、言葉に詰まる。

「……別に」

「ふーん」

 それだけ。

 それ以上は何も言わない。

 でも、その「ふーん」が、少しだけ引っかかる。

 見透かされてるみたいで。

 しばらく、何も話さずに進む。

 雨の音と、自転車の音だけ。

 それなのに、不思議と気まずくない。

 むしろ、静かすぎて、落ち着くくらいで。

 それがまた、分からない。

 なんでこんな状況で、落ち着いてるんだろう。

 嫌なはずなのに。

 距離が近すぎて、困るはずなのに。

 なのに。

 少しだけ、このままでいいと思ってしまう。

 しばらくして、あの人が言う。

「ここでいい」

「……どこ」

「このへん」

 適当すぎる。

 でも、ゆっくり止まる。

 後ろの重みが、ふっと消える。

 一気に軽くなる。

 それと同時に、少しだけ——

(あれ)

 物足りない、と思ってしまった。

 すぐに否定する。

 そんなはずないって。

 ただ軽くなっただけ。

 それだけなのに。

「ありがと」

 あの人は、何でもないみたいに言う。

 いつも通りの顔で。

「……もうやらないで」

「なんで」

「なんでも」

「楽しかったけど」

 軽く言う。

 本気かどうか分からない声で。

 それが、少しだけ腹立たしくて。

「私は楽しくない」

「嘘」

「嘘じゃない」

 強めに言い切る。

 そうしないと、崩れそうだったから。

 何かが。

 よく分からない何かが。

 あの人は少しだけ笑って、それ以上は何も言わなかった。

「じゃあな」

 それだけ言って、歩いていく。

 振り返らない。

 いつもみたいに、あっさりと。

 一人になる。

 さっきまであった気配が、完全に消える。

 静かになる。

 それが、やけに広く感じた。

 自転車にまたがる。

 さっきより軽いはずなのに。

 なぜか、少しだけ不安定な気がする。

 走り出してからも、ずっと残っていた。

 背中の感覚。

 距離。

 重み。

 声。

 全部。

 消えない。

 簡単には、消えてくれない。

 そのとき、初めて思った。

(……なんだったの、今の)

 ただの二人乗り。

 それだけ。

 それだけのはずなのに。

 どうしてこんなに、残るんだろう。

 たった一回のはずだった。

 これで終わるはずだった。

 なのに——

 それが、何度も繰り返されることになるなんて。

 この距離に、慣れてしまうなんて。

 そのときの私は、まだ知らなかった。