通り雨みたいな恋だった

 次の日の朝。

 目が覚めた瞬間、少しだけ静かだった。

 いつもみたいに、ぼんやりとあの人のことを考える前に。

 先に思い出してしまったから。

(彼女、できたんだ)

 それだけで、全部が止まる。

 昨日の帰り道。

 途中で降りたこと。

 いつもより短かった時間。

 軽くなったはずの自転車が、やけに重く感じたこと。

 全部、ちゃんと残っている。

 起き上がる気になれなくて、少しだけ布団の中にいる。

 目を閉じても、思い出す。

 開けても、消えない。

(……やめよ)

 考えるのをやめる。

 それしかないと思った。

 学校に行く準備をする。

 鏡を見る。

 いつもと同じ顔。

 何も変わってない。

(普通)

 そう言い聞かせる。

 何もなかったみたいに。

 教室に入る。

 いつも通りの空気。

 いつも通りの席。

 あの人も、いる。

 一瞬だけ、視線がそっちにいく。

 でも、すぐに逸らす。

(見ない)

 決める。

 もう見ない。

 考えない。

 関わらない。

 それが一番いい。

 授業中も、休み時間も。

 意識しないようにする。

 視界に入っても、見ないふり。

 声が聞こえても、聞かないふり。

 でも。

 完全には無理だった。

 笑っている声。

 誰かと話している様子。

 ふとした動き。

 全部、勝手に入ってくる。

(なんで)

 嫌いになりたいのに。

 全部、知ってるから。

 全部、気づいてしまう。

 昼休み。

 教室の隅で、あの人とあの子が話しているのが見えた。

 近い距離。

 自然な空気。

 笑い合っている。

 前に見たときよりも、ずっと近い。

(……そっか)

 当たり前のこと。

 付き合ってるんだから。

 分かってるのに。

 胸の奥が、ぎゅっとなる。

(見なきゃよかった)

 すぐに目を逸らす。

 でも、もう遅い。

 その光景が、頭の中に残る。

 放課後。

 チャイムが鳴る。

 いつもなら。

 少しだけ、待っていた。

 来るかどうか。

 でも今日は。

 すぐに立ち上がる。

(待たない)

 決めたから。

 教室を出る。

 振り返らない。

 足を止めない。

 そのまま、昇降口へ。

 自転車置き場。

 鍵を外す。

 ハンドルを握る。

 早く帰ろう。

 何も考えずに。

 そう思ったとき。

「帰る?」

 声。

 体が、一瞬だけ反応する。

 止まりそうになる。

 でも。

「……帰る」

 振り返らない。

 顔を見ない。

 それだけで、少しだけ距離を保てる気がした。

「今日さ」

 後ろから、いつもの声。

 でも。

「無理」

 先に言う。

 自分でもびっくりするくらい、はっきりと。

 一瞬、空気が止まる。

「……え?」

 少しだけ驚いた声。

 それでも。

「乗せない」

 もう一度言う。

 はっきりと。

 逃げないように。

 沈黙。

 短い時間なのに、やけに長く感じる。

「なんで」

 その一言。

 いつもなら、軽く返せた。

 適当にごまかせた。

 でも今日は。

「無理だから」

 それだけ。

 本当の理由なんて言えない。

(彼女いるでしょ)

(もういらないでしょ)

(私は何だったの)

 全部、言えない。

「……そっか」

 短い返事。

 それだけ。

 それ以上、何も言ってこない。

 そのまま。

 足音が、離れていく。

 一歩。

 二歩。

 完全に、離れる。

 それを背中で感じる。

 振り返りたくなる。

 確認したくなる。

 でも。

(見ない)

 ぐっとこらえる。

 自転車にまたがる。

 ペダルに足をかける。

 そのまま、走り出す。

 風が強い。

 いつもと同じ道。

 同じ景色。

 なのに。

 何もかも違う。

 後ろに誰もいない。

 軽い。

 軽いはずなのに。

 やけに空っぽで。

(これでいい)

 何度も言い聞かせる。

 これでいい。

 これが正しい。

 あのまま続けてたら。

 もっと苦しくなるだけだった。

 分かってる。

 でも。

 胸の奥が、じわっと痛い。

 なくなったはずの距離が。

 消えたはずの時間が。

 全部、ちゃんと残っている。

(嫌い)

 小さく思う。

 あの人も。

 あの時間も。

 全部。

 そう思わないと。

 保てない。

 好きのままじゃ、無理だから。

 だから。

 嫌いになるしかなかった。

 それが、一番楽なはずだった。

 でも。

 その“嫌い”は。

 どこか薄くて。

 ちゃんとした形にならなくて。

 少しでも油断したら。

 すぐに崩れそうだった。

 それでも。

 前に進むためには。

 そうするしかなかった。

 あの距離を、終わらせるために。