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漆黒の京。
闇夜に、浅葱色のだんだら羽織が鮮やかに浮かび上がる。
誠の文字が入った提灯を手に、先頭を行くのは沖田。
小雨が霧のように吹き付け、生暖かさに袴が腿へ張り付く。
静かだというのに、嫌な夜だった。
「組長、今夜の死番は私が……」
最も危険の多い先頭を行く者。それを新選組では死番と呼んでいた。
「まあ、どちらでもいいだろう」
沖田は緊張感なくあしらう。
本来は順番制なのだが、彼はこうしていつでも先頭に立ってしまう。
確かに沖田の腕は立つ。京都新選組の中でも一二を争う遣い手であることは明らかだった。
だが、彼の病を知らない隊士たちには、なぜ沖田が死に急ぐのか、いまいちわからないでいた。
不意に前方から駆けてくる足音がする。
沖田は反射的に柄に手をかけたが、殺気がない事に気づき、手を下ろした。
振り向き、後ろで構える隊士たちへ首を振る。
間もなく姿を見せたのは桜羅の父親だった。
彼は沖田を見るとほとんど叫ぶように声をかけた。
「娘を見ませんでしたか!」
「いや、いかがされた」
息も絶え絶えで、見開かれた目は激しく左右に揺れて焦点が合っていない。
一目でただ事ではないとわかった。
「無理に……あぁ、私が見合いなど急かしたばかりに……」
沖田は眉をひそめ、彼の震える肩を叩く。
「落ち着きなさい……そんなに取り乱しては、何もわかりません」
これは、ほとんど自分に言っているも同然だった。
沖田の声は掠れて、はやる胸の音が、警鐘のように耳奥で反響している。
彼は沖田の羽織を強く掴んで咽び泣く。
「桜羅が……あんな男に無理やり……」
彼は羽織から手を離し、音もなく崩れ落ちた。
沖田は年かさの隊士に踵を返す。
「少しの間指揮を頼む。異常があればすぐに合図を」
そう言い置いて、沖田は闇へ駆け出していた。
――いったい何処へ
当てもなく走っているのは分かっていたが、どうにも足が止まらない。
途中、何度か咳き込んだ。
こんなときに役立たない奴め、と己の身を毒づく。もともと息苦しいのだから、この際歩いたところで意味はない。
爪が食い込むほど握りしめた拳で、胸のあたりを三度叩く。闇を見据え、しとしと降る雨の中を、羽織をひるがえして行く。
考えられる場所を虱潰しにあたり、高瀬川と路地の間の暗がりに入ったとき、気配がした。
遠くの川の音と混じって、弱い息遣いが聞こえる。
桜羅だ。と直感した。
小さくうずくまる影に目を凝らす。
徐々に見えたその姿に、息が止まった。
びくっと身を震わせた桜羅は、地を這うように後退りをする。
「新選組です。もう大丈夫ですよ」
できる限り穏やかな声を出す。
彼女は沖田が、あの時の侍だと理解したようだった。
呼吸の音に怯えの色が薄くなったのを感じ、沖田はゆっくりと近づく。
雨を吸って重くなっただんだら羽織を、襟をかき合わせる桜羅へ掛けた。
「組長、ご無事で……!」
追いかけてきた若い隊士に、指示を出す。
「すまない、女手を呼んできてくれないか。護衛をしっかりな」
「はっ……」
隊士が去り、沖田は後ろへ下がってその場に屈んだ。
彼女の身体は強張り、裸足の足裏は血が流れている。
小雨は大粒の雨に変わっていた。しかし沖田は彼女に手を伸ばすことは出来なかった。
男の自分が近づくことで、これ以上彼女を傷つけることがあってはならない。
瓦葺きの屋根に激しく叩きつける雨音が、もどかしい時間を引き延ばす。
やっと商家の女将を連れて、隊士が戻った。
女将は駆け寄り、一瞬喉を詰まらせた。
だが、すぐに桜羅の手を取る。
「もう怖いことはありませんよ」
微かに桜羅が頷いた。
女将は彼女を支え、沖田に向けて会釈をした。
「雨は冷えます。私どもの家でよければ」
沖田は少し間を置いて答えた。
「お言葉に甘えたいところですが、巡邏中でしてね。
隊を率いて参りますので、それまでこの娘さんを保護していただけますか」
「もちろんでございます」
その後、諸々の処理を終え、桜羅を家まで送った頃には、空が白み始めていた。
桜羅の家は四条河原町の目抜き通り沿いにあった。二階建ての立派な町家で、倉庫付きの大店だ。
表に「絹屋」の暖簾がかかり、裏手が住居部分だというので、そちらへ回った。
状況を聞き、先に戻っていた父親は、桜羅を見るなり抱きしめ、言葉にならないまま沖田達に礼を言った。
桜羅の顔にはいくらか血色が戻っていた。
なんなら彼女の父親の方が、今にも倒れそうだ。
「旦那様、お気を確かに」
桜羅を出迎えるための奉公人が、父親を支える始末で、沖田はしっかりしてくれと喉元まで出かかった。
だが、娘を想う父の心とは深いものなのだな、と別のところで感心もした。
奉公人が父親に、かかりきりになるので、桜羅は自分で歩き、家の前で振り返った。
さっと髪を整えた彼女は、
「このたびは……お世話になりました」
小さな声ではあるが、背筋を伸ばして礼を述べ、頭を下げた。
その瞳には光があった。
沖田はいくらかほっとした。
時間はかかるかもしれないが、きっと立ち直ってくれるだろうと。
次に逢ったときは、きちんと自分の名を彼女に告げる。
そう決めると、息がしやすくなった。
◆
それから一ヶ月。
「もう少し安静にしてくださらないことには」
医者は、肋が浮き始めた患者の胸から手を離して、重たく首を振った。
「安静になら、精一杯しているんですがね」
患者の軽口に、医師はため息交じりに言う。
「無理をなさらねば、天寿まで持つこともございましょう」
沖田は着物を整えながら、天寿か。と心の中で繰り返す。天寿とは、五十の頃まで生きればいいのだろうか。
ふっと小さく息を吐く。
刀を腰へ差し、柄になぞるように触れた。
――誰かに打ち倒されたい
そんな刹那の渇望こそが、消えかけた灯火を燃え上がらせると信じていた。
ついこの前までは。
しかめっ面のままの医師に、沖田は穏やかに笑みを浮かべる。
「何も、生きることを放っているわけではありませんよ」
医者は疑わしげに腕を組む。
この若者が、いうことを聞くつもりはないことは、とっくに理解していた。
必要なら、沖田が役目から退くために、医者の名義で文を書くと、何度も申し入れているのだ。
それを彼は、いつでものらりくらりと交わしている。今日だって再三言っておいたのに、顔を見せたのは約束の日を幾日も超えていた。
生に執着しないふりをするのは、若さゆえの愚かしさなのか。それが、のちにどれほどの後悔に繋がるかもしれぬというのに。
しかし、今日の彼は少し違っていた。
まっすぐ医者の目を見て、沖田は言った。
「先生、次はいつ診てくださいますか」
医者は、鳩が豆鉄砲をくらったようになり、息をするのを忘れていた。
沖田は苦笑いをして立ち上がる。
「薬が切れる前に、また来ます」
戸が閉まる音に、医者はわれに返った。
「……明日は嵐か」
◆
診療所を出た沖田は、その足で東山の方へ向かっていた。
幾度と通った細道を上る。
たびたび足を止め、肩で息をした。
空気も、匂いも、足裏に伝わる感触も昔のままだ。ここを初めて見つけたときから、なにも変わりはない。
あの頃はこんなふうではなかった。
京都の町を飛び回り、駆けても跳ねても、息切れなんてしなかった。
誰よりも先に起き、日が沈むまで剣をとることに没頭し、
疲れを感じたとして、眠ればすぐ元通りだった。
そのことを疑いもしなかった。ただの一欠片も。
「こんなにも変わるものなのか……」
情けなくはない。
ただ、無性に腹立たしかった。
目についた小石を蹴り飛ばす。
何処にも当たらず、乾いた音が吸い込まれていくだけだ。
倍の時間をかけ、ようやくあの老木に辿り着く。胸を押さえて座り込んだ。
しばらく初夏の風を頬に当てて、呼吸を整える。
いい気候になった。
本来なら緑の葉が豊かに揺れるこの季節。
だが頭上の桜の木に緑はない。
春に小さく若葉をつけていたはずが、それもない。
木は朽ちていた。
あれが最後の桜だった。
終わりゆくさだめを知りながら、この老いた木は、最後の力を振り絞って見事に咲いてみせたのだ。
幹に手を触れる。
「見た目は変わらないというのに、皮肉だな」
来年も花をつけそうだ。なのに手に伝わる感触は冷たく軽い。瑞々しさが失われ、役目を終えて、ただそこにあるだけ。
胸から乾いた咳が込み上げる。
老木を支えに咳き込むと、幹がぼろぼろと剥がれ、地に落ちていく。
沖田は耳を塞いだ。
お世辞にも上手いといえない唄が響いたから。
だけど、それが空耳だというのは知っていた。二度と再び、聴くことは叶わないのだから。
桜羅は散ってしまった。
あの事件の後、そう日を開けずに、桜羅の父が屯所に現れた。
憔悴しきった彼は、ぽつぽつと娘の最期を話し出す。
「娘には好きな男がいたのです」
沖田の浅葱色の羽織を握りしめ、掠れた声が続く。
「ですが病に倒れ……もう戻らぬ男を待つよりはと、見合いを……」
沖田は黙ってそれを聞いた。
慰めの言葉をかけることはしなかった。沖田から見た彼は、誰かに罵倒されたほうが楽になれそうだった。
日の眩しさに目を閉じる。
――彼女は、此処で還らぬ恋人を待っていたのだろうか。慰みに唄をうたって……
手に持っていた木の皮は、粉々に砕け散っていた。
柔らかな香りが漂う。
目を向ければ、木の近くから新たな枝が根を張っている。いつかこの枝が伸び、太くなり、そしてまた花をつける。
長い年月をかけて、ゆっくりと。
目を細め、自分を呼んだものにそっと指を触れる。
「狂い咲きか……」
可憐に一輪、弱々しく咲く花。
散るから美しいのではなく、生命があるから美しい。
その輝かしさに魅せられて。
もぎ取りたくなる衝動を、薄い桜羅へ口づけた。

