桜羅―さくらの精が降ってきた



 ◆


 漆黒の京。
 闇夜に、浅葱色のだんだら羽織が鮮やかに浮かび上がる。

 誠の文字が入った提灯(ちょうちん)を手に、先頭を行くのは沖田。
 小雨が霧のように吹き付け、生暖かさに袴が腿へ張り付く。
 静かだというのに、嫌な夜だった。

「組長、今夜の死番は私が……」

 最も危険の多い先頭を行く者。それを新選組では死番と呼んでいた。

「まあ、どちらでもいいだろう」
 沖田は緊張感なくあしらう。
 本来は順番制なのだが、彼はこうしていつでも先頭に立ってしまう。

 確かに沖田の腕は立つ。京都新選組の中でも一二を争う遣い手であることは明らかだった。
 だが、彼の病を知らない隊士たちには、なぜ沖田が死に急ぐのか、いまいちわからないでいた。

 不意に前方から駆けてくる足音がする。
 沖田は反射的に柄に手をかけたが、殺気がない事に気づき、手を下ろした。

 振り向き、後ろで構える隊士たちへ首を振る。

 間もなく姿を見せたのは桜羅の父親だった。
 彼は沖田を見るとほとんど叫ぶように声をかけた。

「娘を見ませんでしたか!」

「いや、いかがされた」
 
 息も絶え絶えで、見開かれた目は激しく左右に揺れて焦点が合っていない。
 一目でただ事ではないとわかった。

「無理に……あぁ、私が見合いなど急かしたばかりに……」

 沖田は眉をひそめ、彼の震える肩を叩く。
 
「落ち着きなさい……そんなに取り乱しては、何もわかりません」

 これは、ほとんど自分に言っているも同然だった。
 沖田の声は掠れて、はやる胸の音が、警鐘のように耳奥で反響している。

 彼は沖田の羽織を強く掴んで(むせ)び泣く。

「桜羅が……あんな男に無理やり……」

 彼は羽織から手を離し、音もなく崩れ落ちた。
 沖田は年かさの隊士に(きびす)を返す。

「少しの間指揮を頼む。異常があればすぐに合図を」
 そう言い置いて、沖田は闇へ駆け出していた。



――いったい何処へ

 当てもなく走っているのは分かっていたが、どうにも足が止まらない。
 途中、何度か咳き込んだ。

 こんなときに役立たない奴め、と己の身を毒づく。もともと息苦しいのだから、この際歩いたところで意味はない。
 
 爪が食い込むほど握りしめた拳で、胸のあたりを三度叩く。闇を見据え、しとしと降る雨の中を、羽織をひるがえして行く。

 考えられる場所を(しらみ)潰しにあたり、高瀬川と路地の間の暗がりに入ったとき、気配がした。

 遠くの川の音と混じって、弱い息遣いが聞こえる。
 桜羅だ。と直感した。
 小さくうずくまる影に目を凝らす。
 徐々に見えたその姿に、息が止まった。

 びくっと身を震わせた桜羅は、地を這うように後退りをする。

「新選組です。もう大丈夫ですよ」
 できる限り穏やかな声を出す。
 彼女は沖田が、あの時の侍だと理解したようだった。
 呼吸の音に怯えの色が薄くなったのを感じ、沖田はゆっくりと近づく。
 
 雨を吸って重くなっただんだら羽織を、襟をかき合わせる桜羅へ掛けた。

「組長、ご無事で……!」

 追いかけてきた若い隊士に、指示を出す。

「すまない、女手を呼んできてくれないか。護衛をしっかりな」

「はっ……」

 隊士が去り、沖田は後ろへ下がってその場に屈んだ。
 彼女の身体は強張り、裸足の足裏は血が流れている。

 小雨は大粒の雨に変わっていた。しかし沖田は彼女に手を伸ばすことは出来なかった。
 男の自分が近づくことで、これ以上彼女を傷つけることがあってはならない。

 瓦葺(かわらぶ)きの屋根に激しく叩きつける雨音が、もどかしい時間を引き延ばす。

 やっと商家の女将を連れて、隊士が戻った。
 
 女将は駆け寄り、一瞬喉を詰まらせた。
 だが、すぐに桜羅の手を取る。

「もう怖いことはありませんよ」

 (かす)かに桜羅が頷いた。
 女将は彼女を支え、沖田に向けて会釈をした。
 
「雨は冷えます。私どもの家でよければ」

 沖田は少し間を置いて答えた。

「お言葉に甘えたいところですが、巡邏中でしてね。
隊を率いて参りますので、それまでこの娘さんを保護していただけますか」

「もちろんでございます」

 

 その後、諸々の処理を終え、桜羅を家まで送った頃には、空が白み始めていた。

 桜羅の家は四条河原町の目抜き通り沿いにあった。二階建ての立派な町家で、倉庫付きの大店だ。
 表に「絹屋」の暖簾がかかり、裏手が住居部分だというので、そちらへ回った。

 状況を聞き、先に戻っていた父親は、桜羅を見るなり抱きしめ、言葉にならないまま沖田達に礼を言った。

 桜羅の顔にはいくらか血色が戻っていた。
 なんなら彼女の父親の方が、今にも倒れそうだ。

「旦那様、お気を確かに」
 桜羅を出迎えるための奉公人が、父親を支える始末で、沖田はしっかりしてくれと喉元まで出かかった。
 だが、娘を想う父の心とは深いものなのだな、と別のところで感心もした。
 
 奉公人が父親に、かかりきりになるので、桜羅は自分で歩き、家の前で振り返った。
 
 さっと髪を整えた彼女は、
「このたびは……お世話になりました」
 小さな声ではあるが、背筋を伸ばして礼を述べ、頭を下げた。
 
 その瞳には光があった。
 
 沖田はいくらかほっとした。
 時間はかかるかもしれないが、きっと立ち直ってくれるだろうと。

 次に逢ったときは、きちんと自分の名を彼女に告げる。
 そう決めると、息がしやすくなった。


 ◆


 それから一ヶ月。

「もう少し安静にしてくださらないことには」
 医者は、(あばら)が浮き始めた患者の胸から手を離して、重たく首を振った。

「安静になら、精一杯しているんですがね」
 患者の軽口に、医師はため息交じりに言う。

「無理をなさらねば、天寿まで持つこともございましょう」

 沖田は着物を整えながら、天寿か。と心の中で繰り返す。天寿とは、五十の頃まで生きればいいのだろうか。

 ふっと小さく息を吐く。
 刀を腰へ差し、柄になぞるように触れた。

――誰かに打ち倒されたい

 そんな刹那の渇望こそが、消えかけた灯火を燃え上がらせると信じていた。

 ついこの前までは。

 

 しかめっ面のままの医師に、沖田は穏やかに笑みを浮かべる。
「何も、生きることを放っているわけではありませんよ」

 医者は疑わしげに腕を組む。
 この若者が、いうことを聞くつもりはないことは、とっくに理解していた。

 必要なら、沖田が役目から退くために、医者の名義で(ふみ)を書くと、何度も申し入れているのだ。

 それを彼は、いつでものらりくらりと交わしている。今日だって再三言っておいたのに、顔を見せたのは約束の日を幾日も超えていた。

 生に執着しないふりをするのは、若さゆえの愚かしさなのか。それが、のちにどれほどの後悔に繋がるかもしれぬというのに。 


 しかし、今日の彼は少し違っていた。
 まっすぐ医者の目を見て、沖田は言った。

「先生、次はいつ診てくださいますか」

 医者は、鳩が豆鉄砲をくらったようになり、息をするのを忘れていた。
 沖田は苦笑いをして立ち上がる。

「薬が切れる前に、また来ます」

 戸が閉まる音に、医者はわれに返った。

「……明日は嵐か」



 ◆


 診療所を出た沖田は、その足で東山の方へ向かっていた。

 幾度と通った細道を上る。
 たびたび足を止め、肩で息をした。

 空気も、匂いも、足裏に伝わる感触も昔のままだ。ここを初めて見つけたときから、なにも変わりはない。

 あの頃はこんなふうではなかった。
 京都の町を飛び回り、駆けても跳ねても、息切れなんてしなかった。
 誰よりも先に起き、日が沈むまで剣をとることに没頭し、
 疲れを感じたとして、眠ればすぐ元通りだった。

 そのことを疑いもしなかった。ただの一欠片も。

「こんなにも変わるものなのか……」

 情けなくはない。
 ただ、無性に腹立たしかった。

 目についた小石を蹴り飛ばす。
 何処にも当たらず、乾いた音が吸い込まれていくだけだ。

 
 倍の時間をかけ、ようやくあの老木に辿り着く。胸を押さえて座り込んだ。
 しばらく初夏の風を頬に当てて、呼吸を整える。

 いい気候になった。
 本来なら緑の葉が豊かに揺れるこの季節。

 だが頭上の桜の木に緑はない。
 春に小さく若葉をつけていたはずが、それもない。

 木は朽ちていた。

 あれが最後の桜だった。
 終わりゆくさだめを知りながら、この老いた木は、最後の力を振り絞って見事に咲いてみせたのだ。

 幹に手を触れる。

「見た目は変わらないというのに、皮肉だな」

 来年も花をつけそうだ。なのに手に伝わる感触は冷たく軽い。瑞々しさが失われ、役目を終えて、ただそこにあるだけ。
 
 胸から乾いた咳が込み上げる。
 老木を支えに咳き込むと、幹がぼろぼろと剥がれ、地に落ちていく。

 沖田は耳を塞いだ。
 お世辞にも上手いといえない唄が響いたから。
 
 だけど、それが空耳だというのは知っていた。二度と再び、聴くことは叶わないのだから。











 ()()は散ってしまった。


 あの事件の後、そう日を開けずに、桜羅の父が屯所に現れた。
 憔悴しきった彼は、ぽつぽつと娘の最期を話し出す。

「娘には好きな男がいたのです」

 沖田の浅葱色の羽織を握りしめ、掠れた声が続く。

「ですが病に倒れ……もう戻らぬ男を待つよりはと、見合いを……」

 沖田は黙ってそれを聞いた。

 慰めの言葉をかけることはしなかった。沖田から見た彼は、誰かに罵倒されたほうが楽になれそうだった。


 日の眩しさに目を閉じる。

――彼女は、此処で還らぬ恋人を待っていたのだろうか。慰みに唄をうたって……

 手に持っていた木の皮は、粉々に砕け散っていた。


 柔らかな香りが漂う。
 目を向ければ、木の近くから新たな枝が根を張っている。いつかこの枝が伸び、太くなり、そしてまた花をつける。
 長い年月をかけて、ゆっくりと。

 目を細め、自分を呼んだものにそっと指を触れる。

「狂い咲きか……」

 可憐に一輪、弱々しく咲く花。
 散るから美しいのではなく、生命があるから美しい。
 
 その輝かしさに魅せられて。

 もぎ取りたくなる衝動を、薄い桜羅へ口づけた。