桜羅―さくらの精が降ってきた



――桜の精が降ってきた




 

 沖田はその日、自分だけの秘密の場所へ向かっていた。何にも縛られないために。

 東山の寺の裏手からさらに奥。
 参道を外れれば空気が変わり、獣道と呼ぶにも頼りないそこを、普段履きの雪駄で踏み分けながら進む。
 
 やがて開ける。
 空が落ちてきそうな場所。
 
 誰もいない――はずだった。

 沖田は足を止めた。

 老いた桜の木。
 もうすぐ満開になろうというその木から、調子っぱずれな唄が聞こえてくる。

 眉をひそめる。

 今までここで、人に出くわしたことがなかった。警戒心と、そして興味が湧いた。

 桜の木の枝の間から、ぶらぶらと下駄が揺れているのが見える。

 息を殺して近づく。

――次の瞬間、音が消えた。
 
 桜の花びらとともに、沖田の胸に飛び込んできていたのは、
 ふんわり柔らかく、桜の花の可憐な香り。

 見開いた目に映ったのは――

「桜の精……」

 本気で、そう思った。
 呟いた沖田の声に、その人ははっと退いた。

「も、申し訳ございませんっ」

 沖田は夢か現か確認するように、手で目をこすった。
 女は、倒れたままの沖田の横に手をつき、おろおろとしている。
「お怪我はございませんか……?」

 沖田は返事をするのを忘れていた。
 その女は、特別な器量良しというわけではなかった。だが、人を惹きつけて止まない不思議な魅力を持っていて、どうにも目が離せない。

「名は……」

「え?」

「名は何というのですか?」

 唐突な質問に、女は戸惑う。
 しかし、無礼をしてしまった以上、名乗らなければ失礼かと口を開く。

香里(こうさと) 桜羅(さくら)と申します」

 沖田は吹き出していた。

「……あの?」

 名乗った途端に笑われた桜羅は、頼りなげに沖田を見る。

「すまない。あまりにも予想通りの名でしたので」

 ようやく半身を起こし、沖田は頭を下げた。
 改めて見れば、桜羅は下駄を履いていたが、身につけている着物は上質なものだった。
 帯も錦糸が美しく織られている。

 桜羅はふところから懐紙を取り出し、沖田の泥を拭おうとする。彼女の指が頬に触れかけて、沖田はぴくっと眉を上げて身を引いた。

 繊細な黒い瞳が揺れる。 
「失礼を……どうぞ、お使いください」

 震える指から懐紙を受け取って、沖田はふっと微笑んだ。
「いえ、()けようとしたわけではなく。貴女の手が汚れてはいけないと思っただけですよ」

 桜羅はほっと頬を緩めた。
 沖田は茂った草の上に腰を下ろし、袖から取り出した手ぬぐいを隣に敷いた。手で彼女へ促して、

「どうして桜の木などに上がっておられたのですか?」

 桜羅は脱いだ下駄をきちんとそろえ、遠慮がちに布の上へ正座した。

「少し……一人になりたかったのです」

「一人に、ですか――」

 彼女は遠くを見るので、沖田も顔を向ける。
 老いた木と、伸び放題の草があるだけ。
 本当に何もない場所だ。

「私、とんだご無礼を……」

「問題ない。あれしきで怪我をするほどやわには出来ていません」

 桜羅が沖田の刀に目を留める。

「お侍さまでしたのね」

 沖田は、名乗るか迷って目を伏せる。
 人に名を聞いておいて失礼だとは思ったが、ここで『沖田総司』だと知られて、面倒なことになるのは御免だった。

 今や京都の町で沖田総司といえば、新選組の一番組組長として有名になりすぎていた。
 新選組は京都の治安を守っているが、感謝されることばかりではない。荒くれ集団として毛嫌いされることもある。

 彼はそのことを身を持ってわかっていた。

――それなら、なぜ彼女を引き留めたのだろうか……

 わざわざ隣になど座らせなければ良かったのではないか。
 そう思ったとき、桜羅の声がした。

「頭に、花びらが乗っていますわ」

 頭上に手をやると、桜羅はふふっと袖で口を隠して笑う。

「もう少し左です」

「とっていただけますか」

 桜羅は困ったように沖田を見た。

「ですが……」

「さっきは泥を取ろうと、私の顔に遠慮もなく触れて来たではありませんか」

 軽口のつもりだったのだが、彼女は耳まで真っ赤になってしまった。
 
 それを見て、沖田は胸の奥がくすぐったくなり、乾いた咳をした。
 一度出ると止まらず、いくつか咳を重ね、激しく身体を波打たせた。

 桜羅はさっと手を伸ばし、沖田の背中を撫でていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ、楽になりました」

 まだ込み上げそうな咳を笑顔で押し留める沖田に、桜羅は眉を寄せる。

「ご無理をなさらないでください……」

 肺を締め付けられた気がした。
 それは、彼女が自分以上に苦しそうな顔を見せたから。

「本当に、心配は無用ですよ」

 身体の揺れが止まった沖田から手を離し、桜羅は慌てて立ち上がる。
 そしてよろめきながら下駄をつっかけた。

「っ……失礼いたします」

「帰るのですか? それなら……」

 送っていこうと、沖田も立ち上がり袴をはらうが、桜羅は動こうとしない。きゅっと着物を握りしめている。


「警戒するのであれば、もう少し早いほうがいいでしょう。私は怪しいものではありませんよ」

 軽い調子で言った。
 彼女が帰りたくないのは分かっていたが、もうすぐ日が沈む。

 桜羅は観念したように握りしめた手をほどく。落とされた手があまりに力なかったので、沖田は少し心配になった。

 だが、こんなさみしい場所に、女を一人残していくわけにもいかない。

「参りましょう。四条河原の辺りですか?」

 桜羅が目を見開き、沖田は先に歩き出す。

「初めは気づきませんでしたがね。この辺りで香里(こうさと)といえば、有名な大店(おおだな)だ」

 後ろに着いてくる気配を感じながら、沖田は彼女が引っかからないよう、絡むような細枝に折り筋を付けて進む。

(なぜあんなところのお嬢さんが、下駄などつっかけて……)

 
――一人になりたかったのです
 

 彼女の遠い目が思い出され、沖田は頭を振る。
 沖田だって、一人になりたくて彼処(あそこ)へ行ったのだ。それをなぜなのかと問い詰められたら堪らない。

 もう、そうそう逢うこともあるまい。だから聞くこともない。

 自分を納得させているうちに、賑やかな通りに出ていた。
 互いに話すこともなくさらに進み、四条河原町が近づくと、彼女は明らかに歩みがゆっくりになった。

「……この辺りで大丈夫です」

「そうですか」

 人通りも増えたし問題ないだろう。沖田は背を向けた。

 数歩行きかけると背後で、

「どこに行ってたんだ!」
 振り返れば血相を変えた男が、桜羅の腕を引っ張っている。

「いや、離してください……」

 力ない声に、怒声が被さる。
 
「見合いの席をすっぽかすとは……恥をかかせおって!」
 
 男は桜羅を引きずるようにしていたが、沖田の視線に気づくと(まげ)を掻いた。

「これはお見苦しいところを」

「……いえ」

――他所様の家のことだ

 しかし足が縫い止められていた。

「もしや、娘を送り届けてくださったのですか?」

 沖田が頷く前に、父親はぺこりと頭を下げる。

「すぐにお礼をして差し上げたいのですが、見ての通りでして。よろしければお名前をお伺いしても……」

 沖田は一瞬、目を細めて父親の顔を見据えた。
 
――まずいな
 
 心の中で舌打ちしつつ、口元にはいつもの笑みを浮かべる。
 
「いえ、名前など……ただの通りすがりの者ですので」
 
 父親が「しかし」と食い下がろうとするのを、沖田はさりげなく手を振って遮った。
 
「それより、お嬢様を早くお連れください。日も暮れますし、見合いのお相手を待たせてはいけませんよ」
 
 目線を下げれば、桜羅の握りしめられた手が視界の端に見える。力を入れすぎて白くなり、震えていた。
 
 背中をさすってくれたときの温かさを振り払うように、沖田は背を向け喧騒に紛れ込んだ。
 






 その日、沖田は再びあの場所にいた。
 入っていかない空気を、無理やり肺の中へ押し込む。

 少しはましになり、桜の花びらの絨毯(じゅうたん)に抱かれて目を閉じる。

――自分は永くないかもしれない

 らしくもないが、武士道というものについて真剣に向き合ってみようかと。
 そのことを考えるために此処へ来たはずだった。

「はあ……」

 ため息をついてまぶたを開ける。
 綺麗に咲いていた桜は舞い落ちて、若葉が芽吹き始めている。
 桜というのは、満開の頃は誰もが感嘆する美しさだが、散り始めると所々が禿げたようになる。

――まるで

 見たくないとばかりに、沖田は身体を横向きにした。


「さくら……」


――桜羅

 彼女にはあれきり一度も逢っていない。
 あの父親の様子では、そう簡単に外に出してやるとも思えなかった。

 家はわかっているが、巡邏以外でわざわざ出向いては、それこそ本当に怪しい男になってしまう。
 そして、逢ったところで何をしてやれるわけでもない。


 ぽつっと一つ、滴が頬に落ちた。

「雨か」

 起き上がり、刀を差し直す。
 地面に散った桜の色は、燦然(さんぜん)と陽の光を浴びていたときよりも、ずっと濃い。
 光が強いほど、(ねずみ)色が混じったように桜は白む。

 
 去り際に、さみしくなった桜の木をもう一度見上げた。


 
「もう桜も仕舞いだな」