7年前、私は顎にできた腫瘍の治療のため、大学病院に入院していた。実は当初、私は医師から余命宣告を受けていた。結果として腫瘍は良性であり、今こうして生きているのだが、当時の私は自分の命の期限に対する恐怖と、病室独特の張り詰めた空気に押しつぶされそうになっていた。
そんな私に、向かいのベッドからふいに声がかかった。
「あんちゃん、わかいんだね、どっか体壊したのかい。俺の息子と同じくらいかー、何歳だい?」
それが、佐藤さん(仮名)との出会いだった。
車のディーラーを経営しているという佐藤さんは、じん肺による間質性肺炎を患っていた。しかし、その声は重い病を感じさせないほど明るく、気さくだった。私の年齢を聞くと「やっぱりうちの息子と同い年だ」と目を細め、それ以来、自分の息子に接するかのように親しく語りかけてくれた。
「あんちゃん、いい体型してるな、よかったらうちにくるかい? がはは」
豪快に笑う佐藤さんに、私はどれほど救われただろうか。同室の人に迷惑をかけまいと、私がいびき防止のテープを口に貼って寝た翌朝には、「あんちゃん、いびきうるさいと思ってテープなんか貼って、面白いな」と笑い飛ばしてくれた。「今日うちの嫁から貰ったから、飲んで」と、一本のヤクルトを差し出してくれることもあった。
ある日、佐藤さんが「いやー、病院食はまずいな。今日のはなんも味しないや。こんなの食べるくらいなら、どら焼きが食べたいよ」とぼやいたことがあった。私はふと思い出し、「うちの妻、お菓子屋に勤めてるんですよ。そこの『バターどら焼き』が有名で。私が退院する時に、妻に頼んで持ってきてもらいますよ」と答えた。「そりゃあいいな」。私たちはそんな風に笑い合い、彼は「孫ができるまでは生きてやるよ」と力強く語っていた。
しかし、そんな和やかな日常に影が落ちる。
急に担当医から「ご家族に話がある」と告げられ、佐藤さんのご家族が揃って病院にやって来たのだ。話が終わり、戻ってきた佐藤さんは私に言った。
「一度、家に帰れるみたいだ」
佐藤さんはニコッと笑っていた。しかし、その目は明らかに悲しんでいた。私に心配をかけまいとする、無理に作った笑顔だった。
3日後、一時帰宅から戻ってきた佐藤さんは、地元のお菓子をお土産に買ってきてくれた。しかし、「以前より息切れがするから、歩けないんだよ」とこぼす言葉通り、私と交わす会話も短くなり、苦しそうな咳が響くことが増えていった。
そして、ある夜のこと。
私がトイレに行こうと目を覚ますと、佐藤さんのベッドを囲むカーテンの隙間から小さな灯りが漏れていた。静まり返った病室に、苦しそうな咳の音と、それに混じって押し殺したような泣き声が聞こえてきた。昼間のあの豪快な笑い声の裏で、佐藤さんは毎夜一人、病の進行という恐怖と闘い、絶望に涙していたのだ。
私は顎の腫瘍を取り除く手術を受けたばかりで、声をかけることすらできなかった。けれど、自分自身が余命宣告を受けた時の恐怖や、術後の患部の鋭い痛みが入り混じり、佐藤さんの行き場のない悲しみが痛いほど伝わってきた。気づけば私も自分のベッドの中で一人、声を殺して泣いていた。真っ暗な病室で、私たちはそれぞれの痛みを抱えながら、共に涙を流していた。
やがて、私の退院の日がやってきた。
私は妻を連れて、佐藤さんのベッドへ向かった。「妻です」と紹介すると、佐藤さんは驚き、そして本当に嬉しそうな顔をしてくれた。
妻は、約束していたあのバターどら焼きを含む、3種類のどら焼きを佐藤さんに手渡した。それを受け取った佐藤さんは、どら焼きを見つめ、涙を流して喜んでくれた。あの夜、暗闇の中で聞いた苦し気な忍び泣きとは違う、温かい涙だった。
「ありがとう。必ず行くから」
息をするのもやっとだったはずの佐藤さんが、しっかりとそう言ってくれた。私は、妻の勤めるお菓子屋の名前と住所、そして妻の名前を教え、病室を後にした。
退院からしばらく経ち、私は無事に仕事へ復帰していた。ある日のお昼すぎ、妻から思いがけない電話がかかってきた。
「佐藤さんがね、ご家族みんなでお店に来てくれたよ!」
その言葉を聞いた瞬間、言葉にならないほどの喜びが込み上げ、入院中の思い出が一気に蘇った。佐藤さんは、過酷な病と闘いながらも、本当にご家族と一緒に外の世界を歩き、あの日の約束を果たしてくれたのだ。
あの夜、互いに声を殺して泣いた暗闇を思い出す。
今を生きる私は、諦めない心を胸に置きつつも、時にはなんとかなるさと気持ちを楽に持つようにしている。辛い時は辛いと言い、泣いたっていい。誰にでも頼っていい。それが私という人間だ。
だからこそ、現在同じように病と闘っている方々にも伝えたい。どうか一人で抱え込まず、心のままに泣き、誰かに頼ってほしい。
あの夜、カーテン越しに共に流した涙と、佐藤さんが家族と自分の足で買いに来てくれたバターどら焼きの小さな奇跡が、今を生きる誰かの心に、少しでも温かい光として届くことを願っている。
そんな私に、向かいのベッドからふいに声がかかった。
「あんちゃん、わかいんだね、どっか体壊したのかい。俺の息子と同じくらいかー、何歳だい?」
それが、佐藤さん(仮名)との出会いだった。
車のディーラーを経営しているという佐藤さんは、じん肺による間質性肺炎を患っていた。しかし、その声は重い病を感じさせないほど明るく、気さくだった。私の年齢を聞くと「やっぱりうちの息子と同い年だ」と目を細め、それ以来、自分の息子に接するかのように親しく語りかけてくれた。
「あんちゃん、いい体型してるな、よかったらうちにくるかい? がはは」
豪快に笑う佐藤さんに、私はどれほど救われただろうか。同室の人に迷惑をかけまいと、私がいびき防止のテープを口に貼って寝た翌朝には、「あんちゃん、いびきうるさいと思ってテープなんか貼って、面白いな」と笑い飛ばしてくれた。「今日うちの嫁から貰ったから、飲んで」と、一本のヤクルトを差し出してくれることもあった。
ある日、佐藤さんが「いやー、病院食はまずいな。今日のはなんも味しないや。こんなの食べるくらいなら、どら焼きが食べたいよ」とぼやいたことがあった。私はふと思い出し、「うちの妻、お菓子屋に勤めてるんですよ。そこの『バターどら焼き』が有名で。私が退院する時に、妻に頼んで持ってきてもらいますよ」と答えた。「そりゃあいいな」。私たちはそんな風に笑い合い、彼は「孫ができるまでは生きてやるよ」と力強く語っていた。
しかし、そんな和やかな日常に影が落ちる。
急に担当医から「ご家族に話がある」と告げられ、佐藤さんのご家族が揃って病院にやって来たのだ。話が終わり、戻ってきた佐藤さんは私に言った。
「一度、家に帰れるみたいだ」
佐藤さんはニコッと笑っていた。しかし、その目は明らかに悲しんでいた。私に心配をかけまいとする、無理に作った笑顔だった。
3日後、一時帰宅から戻ってきた佐藤さんは、地元のお菓子をお土産に買ってきてくれた。しかし、「以前より息切れがするから、歩けないんだよ」とこぼす言葉通り、私と交わす会話も短くなり、苦しそうな咳が響くことが増えていった。
そして、ある夜のこと。
私がトイレに行こうと目を覚ますと、佐藤さんのベッドを囲むカーテンの隙間から小さな灯りが漏れていた。静まり返った病室に、苦しそうな咳の音と、それに混じって押し殺したような泣き声が聞こえてきた。昼間のあの豪快な笑い声の裏で、佐藤さんは毎夜一人、病の進行という恐怖と闘い、絶望に涙していたのだ。
私は顎の腫瘍を取り除く手術を受けたばかりで、声をかけることすらできなかった。けれど、自分自身が余命宣告を受けた時の恐怖や、術後の患部の鋭い痛みが入り混じり、佐藤さんの行き場のない悲しみが痛いほど伝わってきた。気づけば私も自分のベッドの中で一人、声を殺して泣いていた。真っ暗な病室で、私たちはそれぞれの痛みを抱えながら、共に涙を流していた。
やがて、私の退院の日がやってきた。
私は妻を連れて、佐藤さんのベッドへ向かった。「妻です」と紹介すると、佐藤さんは驚き、そして本当に嬉しそうな顔をしてくれた。
妻は、約束していたあのバターどら焼きを含む、3種類のどら焼きを佐藤さんに手渡した。それを受け取った佐藤さんは、どら焼きを見つめ、涙を流して喜んでくれた。あの夜、暗闇の中で聞いた苦し気な忍び泣きとは違う、温かい涙だった。
「ありがとう。必ず行くから」
息をするのもやっとだったはずの佐藤さんが、しっかりとそう言ってくれた。私は、妻の勤めるお菓子屋の名前と住所、そして妻の名前を教え、病室を後にした。
退院からしばらく経ち、私は無事に仕事へ復帰していた。ある日のお昼すぎ、妻から思いがけない電話がかかってきた。
「佐藤さんがね、ご家族みんなでお店に来てくれたよ!」
その言葉を聞いた瞬間、言葉にならないほどの喜びが込み上げ、入院中の思い出が一気に蘇った。佐藤さんは、過酷な病と闘いながらも、本当にご家族と一緒に外の世界を歩き、あの日の約束を果たしてくれたのだ。
あの夜、互いに声を殺して泣いた暗闇を思い出す。
今を生きる私は、諦めない心を胸に置きつつも、時にはなんとかなるさと気持ちを楽に持つようにしている。辛い時は辛いと言い、泣いたっていい。誰にでも頼っていい。それが私という人間だ。
だからこそ、現在同じように病と闘っている方々にも伝えたい。どうか一人で抱え込まず、心のままに泣き、誰かに頼ってほしい。
あの夜、カーテン越しに共に流した涙と、佐藤さんが家族と自分の足で買いに来てくれたバターどら焼きの小さな奇跡が、今を生きる誰かの心に、少しでも温かい光として届くことを願っている。

