昼の仕事を終えてから、武徳は一人、執務室で書を開いていた。
「陛下、失礼します」
「うむ」
入ってきたのは、腹心の遷だった。
乳兄弟として生まれたときから一緒にいる、唯一心を許せる相手だった。
同い年であるが、彼は二十歳そこそこの外見だ。自分と並ぶと、十は離れているように見られる。
「お暇でしたら、後宮へ行けばいいでしょう。皆、陛下がいらっしゃるのを待っております」
「小言を言いにきたか。帰れ」
「進言ですよ」
遷がため息をつくが、そうしたいのはこちらだと、武徳は眉根を寄せた。
すると遷が近づき、武徳の手にしていた書を取り上げた。
「何をする」
「いい加減、お忘れなさい。この詩の、何がそんなに陛下のお心を離さないのですか」
このやりとりも、初めてではなかった。
慣れた手つきで、武徳は遷から書を取り返した。
「俺は美を解さないが、この詩と、この詩を生み出した者の美しさはわかる」
「何を仰るやら。陛下ほど教養深い方もいらっしゃらないのに」
「教養、嗜み……柵から解き放たれた、そんな素直さが気に入ったのだ」
皇子だった五年前。
遷とともに、身分を隠して街に出た。
この書はその時に、たまたまとある詩会に顔を出して得たものだった。
その会では、一切本当の名を名乗らない。
皆、思い思いの筆名で、好きなように詩を詠む。それらを定期的に書にまとめているのだという。
そこに綴られていた、一つの詩が、武徳の心を強くとらえた。
いわば艶歌と呼ばれるものだが、運命の恋を夢見る乙女の、期待と切なさが素直に描かれていた。
なるほど、恋とは、恋を夢見るとは、こういうことなのかと──武徳は初めて、腑に落ちる思いがした。
もはや書を開かなくとも、諳んじることができる。しかし、今もこうして捨てられずにいる。
「艶歌は、大概は男が書いているものですよ」
「全てがそうではあるまい──この詩には、男が滲ませる作為的な色気がないのだ」
詩に造詣が深いわけではないが、この詩の作者が女だということは、確信がある。
「結局どれほど探っても正体は掴めず。まぁ、それぐらい匿名性を保たないと、自由には書けませんからね」
その後、やはり皇族の目についたことが知られてしまい、詩会は解散となった。
遷に色々と調べさせても、徒労に終わった。小言は多くとも、仕事で手を抜く男ではないのは、武徳が誰よりも知っている。
「それでも、いつかは『彼女』に逢ってみたいものだ」
「後宮の女に目もくれないのも、見ぬ女への執着など、なんと外聞の悪いことで」
遷は遠慮がない。
同じことはずっと言われてきた。
「わかっている。そうだな、いい加減にせんとな……今夜にでも顔を出す。ちょうど今日、庭で李后の顔を見た」
後宮の女たちの秋波は、情熱を越えて怨念のようなものを感じる。
唯一、自分をぎらついた目で見てこないのは、皇后の桂麗だけだ。
だが彼女は、あまりに控えめだ。そういう風に教育されているのだろう。あの慎み深さは、もどかしい気持ちにさせる。
しかし、それでも彼女のことを厭いきれない。後宮の女のなかでは一番、好ましいと想っている。
「はい、そうなさってください」
遷が露骨に、安堵したような顔をした。
「全く。たった一篇の詩で、皇帝を骨抜きにしてしまうなんて……」
退出の間際に、遷が呟いた。
「一体何者なんでしょうね、春暁麗人とは」
「陛下、失礼します」
「うむ」
入ってきたのは、腹心の遷だった。
乳兄弟として生まれたときから一緒にいる、唯一心を許せる相手だった。
同い年であるが、彼は二十歳そこそこの外見だ。自分と並ぶと、十は離れているように見られる。
「お暇でしたら、後宮へ行けばいいでしょう。皆、陛下がいらっしゃるのを待っております」
「小言を言いにきたか。帰れ」
「進言ですよ」
遷がため息をつくが、そうしたいのはこちらだと、武徳は眉根を寄せた。
すると遷が近づき、武徳の手にしていた書を取り上げた。
「何をする」
「いい加減、お忘れなさい。この詩の、何がそんなに陛下のお心を離さないのですか」
このやりとりも、初めてではなかった。
慣れた手つきで、武徳は遷から書を取り返した。
「俺は美を解さないが、この詩と、この詩を生み出した者の美しさはわかる」
「何を仰るやら。陛下ほど教養深い方もいらっしゃらないのに」
「教養、嗜み……柵から解き放たれた、そんな素直さが気に入ったのだ」
皇子だった五年前。
遷とともに、身分を隠して街に出た。
この書はその時に、たまたまとある詩会に顔を出して得たものだった。
その会では、一切本当の名を名乗らない。
皆、思い思いの筆名で、好きなように詩を詠む。それらを定期的に書にまとめているのだという。
そこに綴られていた、一つの詩が、武徳の心を強くとらえた。
いわば艶歌と呼ばれるものだが、運命の恋を夢見る乙女の、期待と切なさが素直に描かれていた。
なるほど、恋とは、恋を夢見るとは、こういうことなのかと──武徳は初めて、腑に落ちる思いがした。
もはや書を開かなくとも、諳んじることができる。しかし、今もこうして捨てられずにいる。
「艶歌は、大概は男が書いているものですよ」
「全てがそうではあるまい──この詩には、男が滲ませる作為的な色気がないのだ」
詩に造詣が深いわけではないが、この詩の作者が女だということは、確信がある。
「結局どれほど探っても正体は掴めず。まぁ、それぐらい匿名性を保たないと、自由には書けませんからね」
その後、やはり皇族の目についたことが知られてしまい、詩会は解散となった。
遷に色々と調べさせても、徒労に終わった。小言は多くとも、仕事で手を抜く男ではないのは、武徳が誰よりも知っている。
「それでも、いつかは『彼女』に逢ってみたいものだ」
「後宮の女に目もくれないのも、見ぬ女への執着など、なんと外聞の悪いことで」
遷は遠慮がない。
同じことはずっと言われてきた。
「わかっている。そうだな、いい加減にせんとな……今夜にでも顔を出す。ちょうど今日、庭で李后の顔を見た」
後宮の女たちの秋波は、情熱を越えて怨念のようなものを感じる。
唯一、自分をぎらついた目で見てこないのは、皇后の桂麗だけだ。
だが彼女は、あまりに控えめだ。そういう風に教育されているのだろう。あの慎み深さは、もどかしい気持ちにさせる。
しかし、それでも彼女のことを厭いきれない。後宮の女のなかでは一番、好ましいと想っている。
「はい、そうなさってください」
遷が露骨に、安堵したような顔をした。
「全く。たった一篇の詩で、皇帝を骨抜きにしてしまうなんて……」
退出の間際に、遷が呟いた。
「一体何者なんでしょうね、春暁麗人とは」

